3-7.諸所で動き出す(1)
マーリカの両親は初婚同士だがそこそこ年が離れている。二人が出会い結婚したのは、父カール・モーリッツが二十半ばも過ぎた頃。
当時マーリカの母は社交界デビューしたてのまだ少女といってもいい年頃で、侯爵家の一人娘として溺愛されていたため婚約者もいなかった。
マーリカが十三歳になった頃、彼女は母親に尋ねた。
どうして父と結婚したのか、と。
少しばかり大人の世界が見えてきて、田舎の伯爵家の父と侯爵令嬢の母では釣り合わないのではと思ったから……。
「ぁ、あぁ〜ぅ」
幼くまだ言葉にならない声がして、ソリのような箱型の揺り籠がぐらぐらと動く。
揺り籠の中からはみ出ることなく、小さな葉っぱのような手を全力でマーリカに向かって伸ばしている。
生まれて間もない弟を、彼女は揺り籠のすぐ側の椅子に掛けたまま見下ろした。
「やはりお姉様だとわかるのですねえ」
「目を閉じているのに、どうしてわかるのかしら?」
「そういうものですわ」
うふふっと、微笑ましげな笑い声を漏らしたのはレオナという名の弟の乳母である。
マーリカの二番目の姉とは乳姉妹。レオナの父親は領の出納係としてエスター=テッヘン家に仕え、母親はマーリカの母が田舎に輿入れするのを心配してついてきた侍女なのだが、出会って即意気投合して恋仲となり結婚した。
家族ぐるみで親しくしているので、マーリカにとっては姉に近い存在である。
そういうもの、少女の頃のマーリカの質問に答えた母と同じ言葉だ。あの人がよかったから、そういうものだと。
「そういうものってどういうもの?」
「お嬢様は相変わらずの理屈屋ですね」
「わからないのだもの」
エスター=テッヘン家は家臣も使用人も、丘の麓にある町の出の者で代々仕えてくれている者が多い。
産後の肥立が悪かった母の代わりに、丁度少し先に子供を産んでいて次姉の乳母となった人の娘が、いまは弟の面倒を見てくれている。
「あなたの娘さんは大丈夫なの?」
レオナも一年近く前に娘が産まれたばかり。
だから産まれて四ヶ月になる弟の乳母を引き受けてくれたと母からの手紙で読んでいる。
しかし、自分の子よりも他人の子を優先しなければいけないのだから気がかりだろう。
マーリカが慮れば、まったく問題ないとレオナは明るく笑った。
「私はこの通り元気で、娘は近くの部屋でお嬢様待遇でお世話してもらっていますもの。もう薄めた粥も食べられるようになりましたし」
「そう」
「それに、若君はご機嫌なよい子ですから」
とても育てやすいいい子で奥様が羨ましいとレオナは言った。彼女の娘はなかなか気むずかし屋で授乳を嫌がり眠ってもくれず、夏を過ぎて落ち着いてきたらしいがそれまで大変だったと話した。
「本当にこればかりは……自分の娘だからかわいいですけどね」
マーリカの弟はまだ小さいこともあるが、それでも大人しくむずがることも少ないらしい。
レオナの話を聞きながら、マーリカが椅子から揺り籠へと少し身を乗り出せば、不意に目を開いた弟と目が合った。
じっとマーリカを見ている。
瞳の色は黒く、薄く生えた髪は栗色で父の目の色と母方の髪色を引き継いでいる。
「お父様似かしら?」
「どうでしょう。穏やかな奥様の雰囲気もありますから。美少年になることは間違いなしですっ」
エスター=テッヘン家は美形の家系とは言われている。
一般受けする容姿になるかどうかは、令嬢としてはやや背が高過ぎてきつい見た目な自分の例があるためわからないが、弟はたしかに身内の贔屓目を除いても目鼻立ちが綺麗で愛らしいとマーリカも思う。
(穏やかで綺麗って、誰かに通じるものがある……怠惰な子になりませんようにっ)
そんなことを考えながら、ぷっくりした頬を右手の人差し指の先で軽く突こうとしてマーリカは小さな手に捕まった。思ったより握る力が強い。
「っ……抜けない」
こんなに小さいのに掴む力が強いのは男の子だからなのだろうか。
父親と話しているはずのフリードリヒがどうしているか、そろそろ気になる頃合いだけれど指を離してもらえるまで動けなくなってしまった。
仕方なくマーリカは椅子から身を乗り出した姿勢のまま、小さな弟をあやすように手を動かす。
あぅあぅ…ぁ……と、小さな口元をむにゃむにゃさせて、彼は寝かされている揺り籠の中で腕や足をもぞもぞ動かしている。かと思えばうとうととまぶたを閉じて、ぴくんと足で身を包む布を蹴り、またもぞもぞとしだす。
マーリカの指を握って満足そうな様子の幼い弟に、彼女は頬を緩ませた。
「……かわいい」
「そういえば、お嬢様お一人ですか?」
「ええ、王城からついてきてくれた侍女も一緒に皆まだ荷物の整理をしているから」
私室で目を覚ましたマーリカは旅装を解いて、水色の普段着ドレスに着替え、家の侍女に子供部屋の場所を教えてもらって一人で来ていた。実家であるから家の中、主棟周りは中庭も含めて一人でも自由に過ごせる。
(家を出る前は婚約者もいない未成年だったからか、大抵、侍女が一人二人は後をついてきたけれど……もしくは我が家に来ている時のおにいさま達か)
もう成人年齢も過ぎている。婚約者は第二王子である。顔合わせた時のことを考えて気後れしているのか、誰も子供部屋へ向かうマーリカについてはこなかった。
王城から連れてきたハンナは着いて一時間も経っていないはずなのに、もうエスター=テッヘン家の使用人達と馴染んでいた。マーリカに仕えていた侍女や荷物を運んだ侍従達と談笑していて、恐るべき適応力である。
そんなことを考えながら、まだ幼い弟のかわいらしさを堪能するマーリカに何故かレオナは困惑気に顔を歪めた。
「あの、お嬢様。そういうことではなく……大丈夫ですか」
「なにが?」
「ご婚約者の第二王子殿下もご一緒にいらしたとお聞きしたのですが」
「ええ。けれど殿下は仕事で、一緒に実家に来たというわけではないのだけれど」
「同じ王城の馬車でお帰りになられたのですよね?」
「そうだけど?」
「あの……いまお屋敷にはマティアス様もおりますけれど」
「二日前からですってね。王都にいらっしゃるとばかり思っていたらいるのだもの」
昔から、従兄のマティアスはエスター=テッヘン家の屋敷にひょっこり姿を見せる。なんの知らせもなく。
彼はメルメーレ公国の伯爵家の嫡男なので家にいると色々と窮屈であるらしく、昔はよく家出をしてはこの家にやってきていた。彼はマーリカの父親の姉の息子、つまりこの家は母親の実家であるので気安さがあるのだろう。
マーリカが十歳前後頃に、結構長く滞在していたこともある。
「……そのうちクラウス様もいらっしゃるのでは?」
「え、クラウス兄様もいらっしゃる予定なの?」
「いいえ。はあ……本当に、婚約されても相変わらずですね」
何故そんな呆れ果てた様子で頬に手を当てているのとレオナにマーリカが思った時、子供部屋の扉が開いた。
レオナをはじめ、部屋の隅に三人ほど控えていた小間使いの女性達も姿勢を直したので、誰が来たのかは見なくてもすぐにわかる。
用を終えたのだろうか。なにも自ら子供部屋まで来なくてもとマーリカは彼女の背後に近づいてくる気配に思う。
「さすがに小さいね。ヨハンやシャルロッテが生まれた頃を思い出す」
「父とのお話は済んだのですか。フリードリヒ殿下」
揺り籠の傍の椅子に座るマーリカのすぐ後まできて、弟に指を握られている彼女の手元を覗き込んだフリードリヒを見ずに、至極事務的な口調で彼女は尋ねた。
「祝いの品は渡したよ。お使い完了。これで王都に戻るまで私も休暇だ」
「領地検分という名目は」
「報告できるだけのものは見せてもらった。でも温泉地には興味があるから立ち寄りたい」
「……その前になにか言うことがあると思うのですが?」
実家に着く直前に人を寝かしつけて、到着しても起こさず放置された。
おまけになにやらこそこそと、彼女の父と挨拶するだけではなさそうな様子である。おそらく婚姻手続きを早めることだとは思うが、それにしたってマーリカを抜きでというのが腑に落ちない。
少々棘をまぶした声音でマーリカが淡々とさらに問いかければ、ふむ、と思案する声に彼女は内心呆れる。
「名前は?」
「……アルフォンスです」
マーリカとしてはそういったつもりで問うたのではないけれど、この場に来ての言葉としては間違ってはいない。
そうじゃないとも言えず、彼女は少しばかり眉間に皺を寄せて答える。
「アルフォンス・コンスタンツェ・フィデリス・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・エスター=テッヘン」
「また長い名前だねえ。それにアルブレヒトと微妙にかぶる」
「愛称だけじゃないですか」
フリードリヒを振り仰いだマーリカの苛立ちが伝わってしまったのかもしれない。
ふぇっ……と、幼な子は頼りなげな声を発してマーリカの指を離した。あっ、泣いてしまうと彼女は内心少しばかり焦る。
しかし事態は小さな額をくすぐった、ほどほどに鍛えられた長く形の良い指先によって持ち直した。
「え……」
「小さな者達、どうしてか私にぐずることは少ないのだよ」
少し意外だ。三人いる弟妹のことを可愛がってはいるが、こうして幼な子をあやすような人だとマーリカはあまり思っていなかった。
フリードリヒに額を撫でられて、心地良さそうに目を閉じてうとうとしはじめた弟の様子にマーリカはなんとなく釈然としないものを覚える。
「眠くなったかな。小さい子はいいねえ、ふにゃふにゃしてても叱られない」
「御年二十七の大人がふにゃふにゃされては困ります。殿下は子供受けがいいですね」
「そうかな」
「孤児院など養護施設の視察でも子供達に懐かれているでしょう?」
見た目がいかにも優しげな王子の容貌なためかと思っていたけれど、小さ過ぎてまだ周囲のことがあまりよくわかっていなさそうな乳児も同様なのは解せない。
仰ぎ見た彼は旅装から着替えていた。紺青色のウェストコートに同色の飾り気のないフロックコートを羽織った姿で、一度客間に落ち着いてからマーリカのところへ来たらしい。
それにしても、二回訪れていることは知っているが、この人はこの人でまるで別荘に寛ぎに来たような様子である。王族が臣下の家で恐縮はしないだろうけれど、そういったこととは違い他人の家にいる雰囲気じゃない。
「目元がエスター=テッヘンだね。眉の動かし方が私を叱る前の君と似ている」
「なんですかそれ」
「将来有望そうだ。残念だけど君の姉上を独占はできない。マーリカは私の婚約者だからね」
「……殿下」
「きちんと君の弟に伝えておかないと。動けるようになったのなら屋敷の中を案内して」
指を掴まれて動くに動けないでいた状態から、マーリカが解放されたのを見てのフリードリヒの言葉に「畏まりました」と彼女は答えて椅子から立ち上がった。
「まあ、若君の側で寄り添われると、まるでお二人のお子様のようですね」
「どうしてそうなるのですっ」
「心配しておりましたが、安心しました」
毅然とした伯爵令嬢の口調でレオナに返したマーリカは、少し面白がるような様子の彼女に口を閉じた。
丁度、フリードリヒに手を取られ、肩にもう一方の彼の手が置かれていたため、なんとなく決まりが悪い。
顔色には出ていないはずだが、頬がほのかな熱を帯びるのを感じる。
「ご案内いたします。殿下」
「こういったマーリカは新鮮だ」
「言葉遣いのことでしたら、社交の場と同じです」
「髪も下ろしているからかな。エスター=テッヘン家のマーリカ嬢といった感じだ」
「左様ですか」
取られた手から指を引っこ抜く勢いで、先を歩こうとしたマーリカだったが――抜けない。
手袋を嵌めていないから滑りが悪いのではない。
「殿下……」
「なに?」
「もういいです。主棟からでよろしいでしょうか?」
「うん。変わった造りをしているからねえ、いまひとつ自分がどこにいるのか掴めない」
おかげでフリードリヒを繋いだ手で引っ張って、マーリカは子供部屋を出ることになった。
背中に使用人達のくすくすと忍び笑いが小さく聞こえる。夜には家の者達のほぼ全員が知るところになるに違いない。
なにしろ田舎なので娯楽に飢えている。王子が家に来たなんてもう大変な事件だ。
お忍びだから外部には漏らさないだろうけれど、いや漏らせないからこそ、しばらくの間は廊下を歩いても使用人達の話題の種になるはずである。
そんな家の中で従兄達だけでなく、生まれてまもない弟とまで張り合うつもりかこの人はと、マーリカは小さく息を吐いた。






