3-6.難物からの試練(1)
「そういえば、エスター=テッヘン家って一族集まっての命名式なんてあるのだね」
王家の狩猟地をまだ朝靄漂う内に出て、エスター=テッヘン家へ向かう馬車の中。フリードリヒがうたた寝から覚めた頬杖のまま、のんびりと彼の婚約者に話しかければ、彼の正面の席に座っていた彼女はきょとんと不思議そうに目を瞠った。
「他家ではないものなのですか?」
十八で王家に仕えし上級官吏となって五年。この国の成人年齢も過ぎたとはいえ、まだ晩夏に二十二歳となったばかりのマーリカである。
黒髪黒目の、涼やかな美人の顔立ちではあるけれど、仕事から離れて少し緩んだマーリカはフリードリヒの目に年相応に愛らしく映る。
(冷ややかな黒い眼差しで私を射抜いて諌めてくる時の、ぞくぞくするような冷たい綺麗さもあれはあれで捨て難いのだけどね)
文官組織で誰が相手でも物怖じすることなく、冷淡にも見える様で仕事をこなし官吏達の間で憧憬と畏怖を同時に集めているマーリカだが、彼等が思うほど冷徹無比な無欠の官吏でもない。
由緒ある家の貴族令嬢らしくあまり表情に感情を出すことはないけれど、フリードリヒとの出会いが出会いであったし、近頃ではふとした時に人に気を許した子猫の如く油断した様を彼に見せることもある。
いまがそれだった。
「少なくともオトマルク王家にはないよ」
「そうなのですね」
涼やかな声が、少しばかりぼやけた響きを含んでいる。
平坦な街道を走る馬車に揺られていつになく眠そうだ。
昨晩遅くまで起きていて、朝が早かったこともあるだろうが、その程度のことが影響するマーリカではない。
仕事中毒と言っていい彼女は、なんといっても王宮で他の追従を許さない四十七連勤記録保持者である。
(休暇三日目にして疲れが出てきた? 豊穣祭が終わっても、なにか気を張っていたようでもあるし)
その原因の大半は自分にありそうだと、察してはいる。
だからといって、マーリカが彼女の意思でもってその状態を選んでいる以上、過剰な干渉をするつもりはフリードリヒにはない。彼女に都合よく言動を合わせようとも思わない。気遣いはするけれどそれだけだ。
フリードリヒはマーリカの全部が欲しい。
黒い瞳に浮かぶ光は、どのような感情でも綺麗で彼を惹きつけてやまない。
冷たく輝く純度の高い結晶のようなマーリカに余計な手を加えることは、己にも許していないフリードリヒである。
「マーリカ……君、いま眠いね?」
「殿下でしょう、つい先ほどまで居眠りしていたのは」
彼女は休暇を取って帰省のために移動中なのだから、ただそれに便乗しているだけのフリードリヒのことなど気にせず眠ればいいのに、彼女の自覚がそれを許さない。
王家に仕えし上級官吏の文官であり、フリードリヒに文官組織専任王族補佐官として仕える臣下であるという自覚である。
「人の問いかけに答えていないよ。睡眠大事って、君もよく言っているくせに。いいからおいで」
「はっ……ちょっ、なんですか……っ……!」
マーリカの非難の声は無視して、フリードリヒは彼女の手首を取って自分の元へと彼女を引き寄せた。
道中、頑なに進行方向に背を向ける側の席にマーリカは座っているが、手配した高官用の公用馬車の座席は大人二人並んで座るだけの余裕は十分にある。
フリードリヒは彼女の体を抱き止めて隣に座らせると、やや強引に白手袋をはめた手で彼女の頭を押さえ、彼の肩へもたせかけた。
「眠るといいよ」
「余計な……お世話です……っ」
文句を言いながらも、フリードリヒの肩にもたれかかったままでいる。
動かないのではなく、動けない。
互いに仕事がない状態といった前提条件を満たす必要はあるものの、軽く引き寄せて落ち着かせると嘘みたいに容易く落ちる。
人の体温や心音に眠り誘われやすいと知っているが、これは相当眠いらしい。
なんとなく習い性となっている感じもあり、少女期に構われていたという、彼女の従兄だの再従兄だののためではと考えると面白くない。
とはいえ、フリードリヒに気を許していなければこうはならないだろうから、目をつぶることにする。
「マーリカは休暇中で、私も父上の私的なお使いで暇なことだし」
「昼前には着くという時に、なに人を寝かしつけようとしているのですか」
「休暇なのに、私が便乗してろくに休んでいないようだから」
「……いまさら、気がつかれたのですか」
「マーリカの性格上そうなる想定はしていたけれど許容を超えた」
引き寄せている頭をそっと撫でれば、フリードリヒの肩に寄りかかる重みが少しばかり増した。
吸い込まれそうな黒い瞳を開き、眉をひそめた不満顔でじっとフリードリヒの斜めに見上げている。
「なんですか、許容って……」
これがいまにも眠ってしまいそうな状態などと、人に言ってもきっと信じてはもらえまい。
少々、夢遊の気があると疑いを持つまでに、フリードリヒも二、三度ばかり危うく自制心を失いかけた。
仕事が終わって雑談していたら、そっと寄りかかってきてフリードリヒを見つめながら会話を続け、ふと黙って完全に身を委ねてくるのである。
半ば寝ているだけなのだが、日頃あれほど婚前の節度を主張していてなんの罠かと思う。
いわゆる常識的な感覚がずれていると、マーリカに言われなくても自覚しているフリードリヒだが、憎からず思う相手にこれをされて惑わされない健康な成人男子はたぶんいないはずだ。
「マーリカ、さては君……昨夜に限らずあまり寝ていない?」
「……」
声はなく、唇を動かしただけの言葉に、フリードリヒは空色の瞳を柔らかく細めた。
馬車の窓へ腕を伸ばして、カーテンを閉める。
そろそろエスター=テッヘン領に隣接する領の集落に差し掛かるからで、他意はない。
(誰のせいだと――なんて言わずに、教えてほしいね)
さらさらと馬車の揺れに合わせて額に揺れている黒い前髪を、フリードリヒは指で払うようにそっと撫でる。
マーリカ付の侍女達は、仕事最優先の彼女相手に随分とがんばっているらしい。繁忙の只中でも滑らかな頬は血色よく、肌が乾燥気味に荒れることもなくなった。
眠ってしまうと、年相応よりもさらに若く見える。
唇へと目がいってしまうが、もう間もなく顔を合わせる人物が頭を過って、フリードリヒはマリーカを見下ろす目線を移動させた。
「それにしても……エスタ=テッヘン家に着く手前で、都合よく起きていられないようになるのだから」
彼の側へ引き寄せるまで、彼女が座っていた正面の席。
車体の壁をしばらく見つめ、フリードリヒは軽く目を閉じて息を吐く。
再び目を開けたその顔は、美の女神に愛されている美貌だけに人を戦慄させる、冷めた善悪の境のない王子のそれであった。
「マーリカは本当に主思いの臣下で、婚約者思いの妃候補だ」
マーリカの父親、エスタ=テッヘン家当主のカール・モーリッツは紛うことなき難物である。
オトマルク王国成立よりはるか昔から存在し、歴史の重みと血筋を持つ由緒ある古き貴族は、かつて星の数ほど冠を集めて王となる者を指名できたという。
それが本当なら、いまもってめぼしい各国君主とその後継者がすべて倒れたなら、継承権を主張できないこともない。現実的にそんな状況あり得ないけれど。
大陸各地にその家系を広げ、個々の所領を集めれば、もう一つの飛び地の影の大国が浮び上がる。
そんな一族を束ねる男であり、若い頃はフリードリヒの大祖母、“オトマルクの女帝”の密偵として暗躍もしていた男である。
「挨拶を済ませるくらいまで、寝ていたらいいよ」
実家と父親の真実をマーリカは知らない。
王宮と疎遠な可もなく不可もない、その歴史の重みと美形の家系というだけが取り柄の弱小伯爵家だと思い込んでいる。
実際、表向きにはその通りでもある。
権力の中枢とは絶妙な距離を保ち、その謎の影響力を知る者はごく一握りだ。
オトマルク王国では、王である父ゲオルクを通じて公務を担う王子とアンハルト。立ち回りとマーリカの扱いを見るに、宰相メクレンブルク公も知っていそうだ。
はたして他国はどうか。
(少なくともメルメーレ公国の君主一族は知らない。親族会議の結果を言葉で伝えられている国はどれほどかな。例えば官僚や民衆の支持……国の雰囲気や方向性に結果を反映させるのだろうね)
とにかく情報管理は徹底している家だ。
出仕時と婚約前で二度、エスター=テッヘン家とマーリカを王命で調査しているが、呆れるくらいなんでもない伯爵家という情報しかない。
エスター=テッヘン家のことを知る父ゲオルクであるから、調査は余計な情報が知られることになっては困る懸念からだろう。
アンハルトとは別の諜報部隊と宰相配下の調査部門を使う念の入れようである。
貴族令嬢の前例のない王家に仕えし上級官吏への登用、第二王子妃候補の身辺調査であるから、調査の王命に疑問を持つ者はいない。
結果、懸念は杞憂で、調査した者達がつかめた情報は表に出ている情報のみだ。
(たまたま私に危害を加えたことで、陰謀絡みの線でマーリカを調べたアンハルトの報告の方が、彼女の実績や遡れるまで遡った伯爵家の系譜でエスター=テッヘンの片鱗が見える)
エスター=テッヘン伯カール・モーリッツは、少年の頃に第一王子ゲオルクの学友候補として王宮に上がった。
ゲオルクが王太子となった後は、文官組織に属している。内務大臣補佐の五番手と高官にはなるが目立たない位置で働き、若い内に辞めて以来、領地運営に専念し王宮とは疎遠。
そのエスター=テッヘン伯爵家は可もなく不可もない領地で、資力に乏しく、権力欲もない。
娘二人が公爵家と侯爵家に嫁いでいるが、両家とも類は友を呼ぶように領地運営に重きを置く家である。
他国に本家より栄えている分家筋の親族は多くいるが、権力の中枢にはおらず障りになりそうなものはない。
大昔はともかく、いまや離散し衰退した一族にしか見えない。
そんなところだ。
(父上とメクレンブルク公は報告を受けて苦笑しただろうね。夜酒の肴にしたかもしれない)
マーリカに至っては、王宮に出仕前の情報がほとんどない。
姉二人と違って社交界デビューもしておらず、生まれてすぐに父親が王宮と疎遠になっている。
そのため、少女時代の彼女を直接知る者すらあまりいなかった。
姉の誘いで三度ほど王都の豊穣祭に来て、姉と交友ある令嬢と挨拶を交わしている程度。
領地に暮らす、箱入りの伯爵令嬢でしかない。
(情報収集に長けるクリスティーネですら、最初は「父親の代理で出仕している変わった伯爵令嬢がいましたけれど、殿下の秘書官になられたとか。なにか思うところが?」程度の認識で私に探りをいれたくらいだからねえ)
マーリカを“本家の姫”としながらもなにも伝えていないのは、伝えていないだけの理由があるのだろう。
フリードリヒも触れるつもりはない。
もっと言えば、マーリカの実家でなければ絶対に関わらない。
「やる気が出ない……」
フリードリヒはすやすやと寝ているマーリカを支えながら、心底億劫そうに呟いた。
長男誕生はめでたいことだが、それにかこつけて友として祝おうとする父ゲオルクを操らないでほしい。
父も、いくら友人だからといって、国王が手紙一つで簡単に操られ過ぎである。
(私を来させて、どう考えても花嫁の父親による試練だろうねえ)
女帝という火の消えた王宮に用はないと、二十年程前に王都を出て以降、領地から一歩も出ずに王族を来させる伯爵など、マーリカの父親くらいのものである。
女帝に仕えていたことは、父ゲオルクやメクレンブルク公もたぶん知らない。
フリードリヒは、たまたま大祖母である女帝アマーリアが口にした、“かわいい黒馬”という言葉を離宮で聞いた幼少期の記憶から、諸々考え合わせてその結論に至っただけである。
(かつて王すら指名できた一族の、“本家の姫”を娶るとならば仕方ないのかね。まったくどちらが貴なのだか)
王宮勢力の大半がマーリカを推挙し認めているから問題にもなっていないが、王族の伴侶は王族、あるいは王族に近しい血筋の者とされている意味で、フリードリヒとマーリカの結婚は貴賤結婚と言われている。
しかし、数多の時代を生きのびて、続いてきた貴き一族から見れば、新興大国の王など成り上がりの地主のようなものである。
まして、フリードリヒはその息子にすぎない。






