3-5.必要なことは外さないからずるい(2)
王家所有の離宮や別荘、保養地、その他諸々の施設や直轄地は、王家の娯楽のためでも権威や財を示すためにあるのでもない。王家主催の行事や外交の舞台となり、国内外の諸侯や賓客をもてなす場にもなる。
王族が視察や公務で各地に出向く際にも、主に警備上の理由と機密保持のために宿泊や休憩場所として利用することが多い。
「殿下に随行していると、国内にうまく点在してるのがよくわかる」
ぱたんと手元の本を閉じて、マーリカはその表紙にため息を落とした。
読書は諦めた方がよさそうだ。目は文章を追っても、頭は別のことを考えてしまってちっとも内容が入ってこない。
マーリカは掛けている一人掛けのソファから軽く腕を伸ばし、斜交いにある小テーブルへ閉じた本を置いた。そのまま背もたれと緩やかな曲線でつながる肘掛けの右側へ、軽く傾けた身を預ける。
優美な彫刻が刻まれた白く美しい暖炉の中でぱちっ、と小さな音がしてマーリカは視線を向けた。黒く焦げた薪の赤く光る熾火 が、側に寛ぐマーリカと室内を温めている。
「自分に関係ないと思っていた場所だったのに」
小テーブルに灯るオイルランプと暖炉と、二方向からの光に照らされながらマーリカはぽつりと呟いた。
下ろした黒髪が流れる白い横顔は、王宮で人が見かけるよりいくぶんか儚気な、物思いに耽る令嬢の横顔だった。
今夜の宿は王家の狩猟地に建つ狩猟館。
王家主催の『狐狩り』が年に一度行われる狩猟地であり、王族や賓客の滞在拠点となる狩猟館は「館」といっても城館である。
エスター=テッヘン領に近いため、出仕前から知っている直轄地であり城館ではあるものの、国内の高位な貴族なら参加するはずの『狐狩り』に引きこもり領主なエスター=テッヘン家の当主は毎年不参加。
父親が参加しない行事にその娘が参加するはずもない。
なんとなくマーリカは周囲へ視線を巡らせた。
若草色の壁に細長い精緻な木彫り細工の装飾板が定間隔で縦に貼られていて、王城の彼女の部屋と比べればそれほど広い部屋ではないけれど天井は高く開放感がある。
寝室として割り当てられた居心地の良い部屋は、城館主の部屋の隣り。つまりは夫人の部屋だ。
「こうした部屋を使っているのが……なんだか」
狩猟館の奥まった場所にある部屋は、王族と招かれた親しい者しか使えない。
今夜、狩猟館にいる者達の中で、最も高位なのは王族である第二王子のフリードリヒである。
当然、彼は城館主の部屋を使い、その婚約者だからといった気遣いであるのは理解できる。
もし仮にマーリカが部屋の割り当てをする側だとしても、そうするだろう。
少し迷いはするが二つの部屋は壁で隔てられ繋がってもいない。婚前でも、婚儀の日も公表されてもいてむしろ近い未来の立場を尊重すべきだと考える。理解はしている。
もう婚約して一年近い。
なにより王都に戻れば、正式に王子妃となる手続きも進められるとなれば、さすがにもう慣れないなどと言ってはいられない。
「わかってはいるけれど……」
マーリカはオイルランプの明かりを消して立ち上がった。
羽織っていた室内ガウンの開いた前を寄せながら、なんとなく月明かりの差す部屋の窓へと近づく。
夜も更けて、窓の外は真っ暗だ。
もう侍女のハンナも下がらせている。灯りも落としてあとは休むだけ。
明日も朝の内に出る。そろそろ眠らなければと思いながら、マーリカは近づいた窓枠に頭を斜にもたせかけ、窓の上部を見上げた。聖堂を思わせる尖頭アーチ型の格子を入れた窓だ。天井が高いだけに窓も大きくとられている。
高く昇った月の光がマーリカと窓辺から室内の半ばまでを照らし、窓枠の影が落ちて、飴色の寄木細工の床を細長い長方形に区切っていた。
青白い暗がりに、窓から伝わる夜の外の冷気がよりひんやりと冷たく感じられる。
「気がつけば、当たり前のように厚遇を享受してしまってもいるし」
王家からの配慮もあるが、そのほとんどはフリードリヒからの厚意だ。
窓硝子に映る、どこから見ても贅沢な高位貴族令嬢な自分の姿にマーリカは目を細める。
羽織っているガウンは淡い桃色の地厚な絹で、裾や背中から肩にかけて異国情緒あふれる精緻な刺繍が施されている。薄く入っている綿まで絹であるらしく軽く暖かい。
遥か東方の島国から稀にしか入らず、大陸中の王族や高位貴族の間で奪い合う品だと侍女から聞いた。
ガウンの下の寝巻きも白い繊細なレース地を重ねたものだ。
それもこれもすべて、マーリカを私財の散財先と定めたフリードリヒに贈られたというよりは、勝手にマーリカの私物とされているものである。
(わたしが知らない私物とは。私物の概念が揺らぐ……)
いまや仕事着以外は軽く編んだ髪を結ぶ紐一本に至るまで、全身隙なく彼が選んだものに占められている。
たまに高価なものを贈られる程度なら遠慮のしようもあるけれど、これほどまでの物量攻撃をされては抵抗する気力を奪われる。一体、どれほどマーリカに散財しているのか、もはや尋ねる気も起こらない。聞くのが怖い。
(こういうのって、世のご令嬢の夢だろうな)
ただやみくもに高価なものを贈られているわけでもない。小物一つとってもマーリカが気に入りそうで、彼女の今後の立場や身を置く場所も考えられているのがわかる。
最初は比較的気楽なものから、少しずつ王子妃と扱われるに相応しいものへ。
仕事だと現場の都合などおかまいなしに無茶振りしてくるくせに、こういった配慮は細やかにできるのだから腹立たしい。
「まあ仕事も……ご自分がなにもせずにいるための労力は惜しまない点では細やかな人ではあるし……無茶は言っても無理なことは言わない」
仕事の丸投げは酷いが、任せる者の働きを阻むものをその権力の及ぶところで抑えもするし、労うことには意外とまめでもある。上手くいかなかった場合も任せたのは自分の判断だからと責任逃れはしない。
高官達が文句を言い、嘆息しながらもフリードリヒを支えるのもわかる気がする。振り回されることと現場の迷惑さえなければ、直の上官としてはかなりいい部類だ。
「そんな人なのに……」
王立学園の地下室に囚われた時も、今日の昼間に事故現場の湖を眺めていた時も。
フリードリヒは、冷たい淵へマーリカを突き落とすことを平然と口にする。悪い冗談でもなく。
女神の廊下に佇むフリードリヒの姿が脳裏を過ぎる。
彼に仕える臣下であり、婚約者でもある自分の間でもやもやとした気持ちを持て余している。フリードリヒのような割り切りも切替のよさもなく、どっちつかずに定まっていないままでいいのだろうかと思う。
「寝よう。一人で考えても仕方がないことだし……っ、なに?」
彼女はびくりと両肩を寄せた。
吐き出したため息の声がマーリカ自身少し驚いてしまうほど薄暗い室内に響いて、しかしそれ以上にガタンともギタンともつかない軋みを含んだ異音が重なって聞こえたことに反応してのことだった。
ギッ……ギギッ……ピシンッ――。
微かな家鳴りのような、廊下にいる衛兵の耳にまでは届かない音ではあるものの、明らかに不審な音があろうことかフリードリヒが休んでいるはずの部屋に接している壁から聞こえてくる。
「え、なに……えっ……」
まさか侵入者と、マーリカはもたれていた窓から身を離す。
争う音ではなさそうだが隣室の状況がわからない。下手に声を上げてこちらが気づいたことを教えては、却ってフリードリヒが危険になる可能性もある。
知らせなければと、マーリカが足を部屋の出入口へ向けた時――音が聞こえた辺りの壁が歪み、並んだ装飾板がずれて、彼女に向かって迫り出すように傾いた。
ギィィと固い音の尾を引いて、壁が四角くマーリカの部屋の内側へと開く。
(隠し、通路!?)
「だっ――」
「しっ! 声を立てないで。もう遅いし皆起きてしまう」
「……殿っ……!」
声を上げようとして、すかさずそれを止める声にマーリカは口元を両手で押さえた。
考えるより先に命じる声に反応してしまったのが、なんとも悔しい。
大人一人が立って通れる穴が開いた壁から、何故か中腰に屈んで出てきたフリードリヒに、マーリカは口を塞いでいた自らの手を下ろした。
「なんですか……これは」
「大祖父様は王族に生まれていなければ設計技師になりたかったらしく、手を入れた建物には仕掛けを施したって、大祖母様から聞いた話を眠る手前でふと思い出してね……本棚と壁の二重扉なんてなかなか凝ってる」
フリードリヒの言葉に、マーリカは窓枠へごつんと額を打ちつけるようにうなだれる。
「ほとんど内乱状態な国を先陣きって平定した覇王ってされてる人なのに、冗談みたいなおかしな話だけど本当だった」
「冗談みたいにおかしいのは、殿下です」
フリードリヒからすれば理不尽な呆れだとは思うが、人が真剣に思い巡らせていた時に隣の部屋で夜更かししてなにを遊んでいるのだと、マーリカは体ごと横向きに彼から顔を背ける。怒る気にもなれない。
第一、秋口に御年二十七を迎えたいい大人が、盗人みたいに前屈みに羽織った室内ガウンを床に引きずって淑女の部屋に忍び込んでくるなど、立派な不法侵入である。
「衛兵を呼びます」
「私とわかってて……呼ぶ?」
「当たり前です……っ……」
マーリカは窓枠に伏せていた額を持ち上げて口を開いたが、どう声を上げたものかとっさに思いつかない。
「ん、呼ばないの?」
ぐっと喉元まで出かかった声を飲み込んで、マーリカはフリードリヒを見た。
(おかしな男がっ……とも言えない。おかしな王子ではあるけれど!)
侵入者だが、王子である。衛兵から見て、マーリカの一声で取り押さえられる対象ではない。
もっと言えば、マーリカの近い未来の伴侶となる王子である。
人を呼んだところで、なにかものすごく不本意かつ気恥ずかしいことになる気がする。
マーリカは一度天井を仰いだ顔を今度は床へと向けて、飲み込んだ声を盛大なため息に変えて吐き出した。
「夜中にこそこそと……なんなんですか。もうっ」
「私の部屋の本棚扉が狭くてね。見にくる?」
「そんなことは聞いていませんし、行きません。ここからでも見えます」
開いた壁の部分を、本棚の裏側らしき木板が塞いでいるのが見える。
壁の結構な範囲を占めていそうな大きさの本棚だ。その裏側の一部がまるでくり抜かれたように、子供の背丈ほど穴となってぽっかりと空いている。背の高いフリードリヒが不恰好に中腰に身を屈めて出てくるわけである。
「本棚の一部が隠し扉となっていて開く仕掛けですか」
「そう。でもって本棚が設置してある壁もこうして開くようになっていた」
「二重の隠し扉というわけですね。知らない人がどちらか一つに気がついても塞がれていると思いますね。満足したなら戻ってお休みください」
背筋を伸ばしまっすぐ立ったフリードリヒに淡々と応じて、数歩の距離を置いて向かい合う彼にマーリカは部屋へ戻るよう促した。
彼は単なる好奇心でも、他者から見れば夜中に人知れずマーリカの部屋に忍んできた状況。王城内と違い外部に漏れたら噂話が一人歩きしかねない。
互いに従者も下がらせ証人もいない。
「衛兵が気がついていないうちに」
「幸いだけど、警備のことを考えたら憂慮すべきことでもある」
廊下にいるはずの衛兵の気配をうかがうそぶりを見せて、小さく肩をすくめたフリードリヒにそれはたしかに彼の言う通りではある。
もし悪しき侵入者であれば、フリードリヒもマーリカも今頃は危ないところだ。
「まあ、私もこっそり確かめるつもりでやっていたから。それにマーリカも寝ているものだとばかり」
「人が寝ていると思って、侵入したのですか」
「……眠れないの?」
無愛想に応じるマーリカへと歩を進めたフリードリヒに尋ねられて、思わずマーリカは彼から視線を外した。
あともう半歩で触れそうなほどマーリカに近づいてきたフリードリヒの、伸ばしてきた手の指先が触れない位置まで彼女は後ずさる。
「寝るところでした」
後ずさったマーリカを追わず、伸ばしかけた手を下ろして待つようなフリードリヒに、彼女は小さく肩を落として床から踵を持ち上げ、後ずさった分の歩を戻しながら答えた。
「そう」
眉根を寄せ唇を引き結んだ、むっとした表情をフリードリヒに見せてマーリカはうつむく。
視線を落とした床にダンスを踊り始める前のように揃った、裸足に室内履の互いの足が見える。
「はぃ……へっ!?」
「寝るところだったんでしょ」
「〜〜っ!」
突然、自分の足元が床から浮いて離れたことに驚く間もなくマーリカは、フリードリヒに横抱きにされて部屋の中を運ばれる。
声を立てれば騒ぎになる。卑怯っ、と月の光が床を照らす範囲を出て、箱型の天蓋のついたベッドに向かうフリードリヒの肩をマーリカは拳で叩く。
「窓辺で考えごとなんて冷えるよ」
「ちゃんと羽織ってますから平気です……」
ベッドに横たえられるのかと思ったら、腰掛けたフリードリヒの膝の上にそのまま横向きに座らされた。
これは配慮と受け取るべきなのか、これはこれで対処に困る。本当に困る。
目線の位置もほぼ変わらない体勢でマーリカは、フリードリヒと顔を合わせるのを避けて、彼の頭の右側、肩の上に顔の正面を向けた。
「……また例の甘やかしたいですか」
不安定な姿勢を固定するように、フリードリヒの体の左右へ腕を回し、きちんと襟元を合わせて着ているガウンの背の左右を掴んで固定する。ただ彼の上に座っているだけ、互いの表情も見えない。
「できることはできるうちにしないと」
「その言葉、仕事で実行してください」
「いざとなればどうにでもなることは対象外」
それでも体温は伝わるし、マーリカの頭を撫でる手袋をつけていないフリードリヒの手の指が、窓辺にいて冷たくなった彼女の髪を気にしているのもわかる。
どんな愛想のない言葉を返しても、甘さを含む落ち着いた声音に受け止められてしまう。
「ましていまは仕事中でもない」
「本当に、甘えてだめになってしまうかもしれませんよ……」
いつの間にか当たり前のように享受するようになってしまったのは厚意や厚遇だけじゃない。
「それは見てみたい」
囁くような言葉が「そうはなれないだろうに」と言っているように聞こえて、マーリカはフリードリヒの肩に耳をつけるように頭を傾ける。少し間を置いて、再び頭を動かし彼と顔を合わせた。
「……もういいです。寝ますから、殿下もお部屋にお戻りください」
「マーリカ、ここは一緒に寝ようって流れでは?」
「どうしてそうなるんですかっ。戻れっ!」
ほら、やっぱり厳しいと呟きながら、マーリカをベッドの上に移して、フリードリヒは立ち上がった。
マーリカの手を取って、じゃあねおやすみとフリードリヒは彼女の曲げた指の関節に唇を軽く落とし、二重の隠し扉から彼の部屋へと戻った。
「側にいたらという時を外さないの、ずるい……」
口の中でぼやいてマーリカは、ベッドに倒れ込むと勢いよく頭から寝具を被って目を閉じた。






