閑話:慣れとは恐ろしい(2巻発売記念SS)
2巻発売記念のSSです。いつもお読みいただきありがとうございます!
どうぞこれからも応援よろしくお願いいたします!
慣れとは恐ろしい。
元は三人体制で回していた仕事を、新任一人で処理しないといけない環境も。
定刻より二時間も早く出て、官舎の深夜門限ぎりぎりに帰る、まったくほめられない超過勤務も。
現場の官吏に“無能殿下”なんて呼ばれている、第二王子の秘書官に抜擢されて、毎日その言動に振り回される日々も。
どういうわけか第二王子妃候補となり、さらには文官組織専任王族公務補佐官に任命されて、王子妃教育・文官業務・結婚準備を同時進行でこなしていくことも。
慣れてしまえば、あたりまえのこととして案外どうということもなくなる。
そう、慣れとは恐ろしい。
「マーリカ、これ食べる?」
緑は輝き、色鮮やかな花が咲き誇り、噴水はきらきらと水しぶきに虹をかけ、大樹の陰に木洩れ陽が万華鏡のように美しく、澄んだ楽の音がどこからか聞こえ、優雅な午後の楽しむ人々が行き交う――夏の王城庭園に設られたカフェテラス。
「はい、どうぞ」
「あの……」
「ん? やっぱりいらない?」
「いえ」
格式高く整えられたお茶の席。
正面の席から、淡いバラ色の焼菓子を手に、にっこりとマーリカの口元へと差し出してくる、婚約者のそれが当然といった表情と態度につられて。
年端もいかない幼女や鳥の雛のように、差し出された焼菓子を口にする。
俗にいう、「あーん」というやつである。
「どう?」
マーリカが一口齧ったものを、彼女の手前にある取り皿に置いて、彼女の婚約者である第二王子フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルクが尋ねる。
「香りがいいです、見た目の印象より爽やかな甘みですね」
「バラの花びらを煮詰めたもので、生地に色をつけ、挟んだクリームも風味づけしたものだって」
「そうですか……って、殿下! つい応じてしまいましたが、公衆の面前で!」
こんなこと、十歳の少女の頃までで、親や親類といった身内にしかされたことはなかった。
「えー、それ食べてから言うの?」
「少しぼんやりしていたのです……っ」
慣れとは恐ろしいのである。
離宮で療養していた時に冬いちごを食べさせられたり、介助半分に蜂蜜を舐めさせられたりしているうちに、なんとなく抵抗感が薄れてしまった。
二十一歳の成人年齢に達した、淑やかなる貴族令嬢にふさわしい所作ではないはずなのだが、目の前の、金髪碧眼で無駄に顔のいい第二王子にして婚約者の青年は実にご機嫌である。
周囲の木陰に設られたテーブル席で、マーリカ達同様に優雅な午後のお茶を楽しむ人々も、そんな彼女を咎めるような反応をする人はいなかった。
むしろなにやら微笑ましげに見守る雰囲気を感じる。
――あら、フリードリヒ殿下とマーリカ様よ。
――王宮内で見かけるお二人とはまた違った雰囲気ね。
――それは、婚約者というだけでなく恋人同士ですもの。
――囚われのご令嬢を助ける王子様なんて、まるで小説やお芝居のよう。
「……」
「暑さにのぼせた? 冷やした果実水でももらう?」
「……いえ、大丈夫です」
王立学園の一件は、バーデン家の不祥事とあわせて王族襲撃未遂事件として新聞で報じられてもいるため、貴族社会でも当然知れ渡っている。
令嬢が悪漢に囚われるなど普通は醜聞以外に他ならないはずが、序列三位の五公爵家で先代王妃の実家が失脚の衝撃が強すぎて、そちらは流されてしまっている。
加えて王子が単身に救出に乗り込んだということが、なにやら大いに紳士淑女のロマンとときめきを刺激したらしい。
なんだかもう、実態とは程遠い人々の幻想に脚色されたイメージの噂だけが広がっている。
王家としては面白半分な噂の方が醜聞よりははるかによいということで、あえて放置しているようで、その後の事件処理を淡々と公表するのみである。
元々、フリードリヒとマーリカの婚約は、フリードリヒの意向が強く働いているのを貴族社会における重鎮達が後押しした形で成立している。
それもあって、本当に当人同士思いあっての婚約といった人々の認識となっていた。
(間違いではないけれど……皆様のご想像と実態が異なるといいますか……)
うーん、と思わず目を閉じ天を仰ぎ気味に、困惑してしまうマーリカである。
ちなみに本日は安息日。
“始まりの夜会”と呼ばれる、毎年、第五の月頭に実施する王宮主催の夜会も無事に終了。
次、豊穣祭シーズンに向けて準備が始まる、第七の月頃まで、約一ヶ月ほど小休止な時期であった。
社交シーズン真っ只中ということもあって、王城庭園はいつにも増して貴族達の憩いと交流の場となっており、マーリカ達がいるカフェテラスなどこの期間限定で運営されているものも多い。
噴水の側に用意されたテーブル席は、風の通る木陰で涼しい。
事前に連絡はいれていたから、他の席との距離感は王族への配慮は感じるもの、それ以外は特に大きな差はなさそうだ。
夏の屋外休憩場所として人気があるのもうなずける。
「実際来てみるものですね。調整官の頃にありとあらゆる設営について報告書類を見ていて知った気になっておりましたが、書面では見えないものがあるものです」
「マーリカ、視察じゃないのだから……」
「申し訳ありません、楽しむ側ではなかったものでつい」
そう、フリードリヒに私的に誘われての休日である。
装いも男装ではなく、昼の外出用ドレスだ。
白く透ける生地を、袖と、淡い菫色の絹サテンのリボンとフリンジで縁を飾った白いドレスのスカートに重ねたものだ。
黒髪も編み込み、ドレスを飾るものと同色の幅広のリボンを寄せた小さめの帽子を載せている。
「まあ私もこれまで来ることはなかったけれど、賑わっているものだね」
「そうなのですか?」
焼菓子の残りを自分の手で食べ終えて、意外なフリードリヒの言葉にマーリカは少しばかり驚いて目を瞬かせた。
「連れ立って楽しむ人もいないしね」
メクレンブルク公爵令嬢のクリスティーネ他、ご令嬢方がいくらでもいそうに思える……もしくは妹である第一王女のシャルロッテもと、マーリカが思いつくまま挙げればフリードリヒは首を横に振った。
「クリスティーネなんて、何故わざわざそんな殺伐とした休日を」
「休日をと、言われましても……ご友人なのでは」
「まあそうなのだけどね、向こうも同じことを言うと思うよ」
「はあ」
「それに昔から男女問わず、誘っても皆他に用事があるのだよね。シャルロッテはそういうのは子供扱いするなと嫌がるし」
「左様、ですか」
「まあ私が声をかけるとしたら、いくぶん急になるしね」
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。
第二王子との交友を避けるなど、普通は考えにくい……彼の言う通り、きっと、皆様、社交期間は忙しいのだろうということにして、マーリカはお茶を飲んだ。
(それに、ぶらぶらと怠けている姿が目立つけれど、実際、まったく自由な一日となると殿下はかなり少ない)
安息日など関係なく公務が入ることもあるし、家族の時間とはまた違う王家の付き合い、彼個人の出資先や慈善家や美術蒐集家の方々から招待を受けるなどなにかと用事が入る。
つい最近までマーリカはまったく知らずにいたのだが、フリードリヒは王家の中でも有数の資産家で、私的にも結構な額を慈善に回したり、美術工芸品など蒐集したりしているためである。
「マーリカも誘って応じてくれることは少ないし……」
「繁忙期でなければ、別に構いませんけれど」
「えっ、そうなの」
「できれば、翌安息日の三日前までにご連絡いただけるとありがたいですが……」
フリードリヒの誘いはいくぶんどころではなく、思い立っての今日とか、明日明後日の内だとか急なのである。
予定の合間、今晩から翌午前中にかけて余裕があるといったことで言い出すからそうなる。
マーリカだけでなく、他の者達にも同様ならたしかに応じるのは難しい。
たとえ応じられても、支度や準備が面倒だから理由をつけて断りたくもなる。
「私の予定なら知っているくせに……」
「私的なご都合までは詳しく知りません」
「そういえば、マーリカはそういうの全然聞いてこないよね。私の個人資産のことも知らなかったし」
「個人情報や私事を詮索する気はありません。殿下と違って、必要あれば尋ねます」
マーリカ自身のことは色々調べ尽くされているような気もするが……王族の結婚相手の調査はするだろうということで深く考えないようにしている。
服の寸法や指輪のサイズまで割り出されていたり、マーリカ自身より彼女の好みをわかっているようなところがあるし、実家にある調度品からご当地土産まで記憶されている疑いもあるけれど……。
「いまさらっと棘のあること言ったね?」
「いくら身辺調査でもそこまで調べないといったことも、色々知っていそうで……」
「そうでもない。君の家は情報管理が意外としっかりしている」
「真剣な顔で言わないでください。普通に聞いてくださればお答えします」
「じゃあ、なにか欲しいものはない? 散財先になってほしいのにいまひとつ物足りない」
「十分、散財されているかと……」
そもそも個人資産のことを彼の口から聞き、散財先になってと言われる前から、マーリカはフリードリヒに身の回りのものをあれこれと貢がれている。
マーリカの俸給の何ヶ月分かが簡単に吹っ飛びそうな、今日の装いもその一つである。
これもものすごく抵抗があったのだが……慣れたというより、抵抗することを諦めた。
フリードリヒ本人だけでなく、王妃に聞いても王太子妃に聞いても、アルブレヒトやヨハンといった彼の弟達、シャルロッテに聞いても皆、フリードリヒにとっては使ったうちにも入らないからもらっておけばいいと言われては受け取るしかない。
「ですが、そうですね……殿下が真面目に仕事を滞りなくされる日々だとか……」
「そういうのではなくてさ」
「第二王子付の人員とか?」
「あー、うん……それは知ってる。それ以外」
「それ以外ですか……」
小さく切り分けられたキッシュを口に運んで、マーリカはフリードリヒの顔を見た。
澄んだ空色の瞳が、じっと彼女を見つめている。
思いの外、真摯なまなざしで、これはきちんと考えた方がよさそうだとマーリカはあらためて考えてみる。
(とはいえ物質的なものはこれといって……そういったことより……)
誘われないでほしい――ふと三女神の壁画の前に佇む彼の姿が脳裏を過ってそんな考えが浮かぶ。知らぬ間に王子として踏み外してしまうのではないかといった、危うさに。
しかしこれは欲しいものというより、そうあってほしいマーリカの願いである。
「……すみません、思いつきません」
「そっか」
気がつけばテーブルの上のお茶も菓子も軽食もあらかた片付いている。
マーリカも彼と会話しながら堪能した。
少し日も傾いて、さわさわと風が吹く。
「そろそろ、行こうか。少し歩いて城に戻る?」
「そうですね」
先に席を立って、フリードリヒが差し伸べてきた手を支えにマーリカも立ち上がる。
「私は、殿下がこうしていてくださるなら、先に述べたことくらいで十分です」
「うーん……そう」
「はい」
慣れとは恐ろしい。
フリードリヒの言動に日々振り回されて、呆れ、うんざりすることもあるけれど。
万一の時は臣下として、彼を守らなければならないことを思って震えることもあるけれど。
そういったことも全部ひっくるめて、フリードリヒの側にいることにマーリカは慣れてしまった。
そうでないことなど、もう考えられなくなっているほどに。






