3-1.王太子殿下の召喚命令(3)
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唇にフリードリヒの指先を押し当てられて、マーリカは彼女に顔を向けた彼を上目に見た。
「前に謁見の間で父上を援護したようなことは禁止」
「は? っ……」
「黙らないなら、この場で口を塞ぐ。婚前の節度の取り決め違反でもない」
酔狂なことを時折口にするフリードリヒではあるけれど、ヴィルヘルムを前に、周囲には彼の側近も控えている王太子執務室にいて、冗談にしても嫌な脅しだとマーリカは思う。
婚前の節度は、ハグとキスまで。
そう彼と取り決めているが、行為の定義だけでなく状況についての禁則もなぜ定めなかったのか……それでなくても近頃、拡大解釈気味で困っている。
いまの時点でも破廉恥事案だと思いながら、マーリカは黙ってフリードリヒを睨んだ。
「女王陛下が君臨せし国へ行くなら結婚してから。大祖母様と引き分けたらしい人の国で、婚約者を伴い立ち回るなんてとてもじゃないけどできない」
「まだなにも話していないぞ、フリードリヒ」
「私はマーリカを尊重しているから、兄上のように既成事実というわけにもいかない」
ヴィルヘルムの第一子は結婚して間もなく誕生している。
婚約中に懐妊していたことは、本人達と両家も合意の上という話だ。
第一王女のシャルロッテ曰く「王家の男子は婚約したとなったら手が早い」らしいが、王子妃教育の場やフリードリヒから聞くこぼれ話などを考え合わせると、当事者や政略上の事情がそれなりにありそうに思える。
「人聞きの悪いことを言ってくれるな……」
「ふむ。他国の王族を斡旋されそうになった時、一生分の融通を兄上は使ってしまったかな?」
まだマーリカの口元に指を押し当てたまま、首を傾げたフリードリヒになんとなく嫌な予感がした。
話はまったく見えないけれど……このまま進んだら、なにかまずい気がする。
(絶対にまずい気がする! 殿下ではなく、たぶんわたしが!)
マーリカは大きく見開いた目をヴィルヘルムに向け、「避けられない公務なら命令っ、命令でお願いしますっ」と視線で訴えたけれど、残念ながらヴィルヘルムは大変に真面目かつ常識的過ぎる上にフリードリヒに甘い人物である。
仲睦まじいのはいいが、などとフリードリヒに苦笑している。
そうじゃないです、とマーリカは胸の内で叫ぶ。
「で、ん、か……っ、先程からなんの話を、っ」
マーリカは頭を振って、フリードリヒの指を振り払った。
しかし、彼女の頭の動きを追うフリードリヒの指が、またすぐぴたりと唇に押し当てられる。
譲らないという意思を感じる。
「黙ってて」
「〜〜っ!」
(裏でこそこそ交渉しないだけいいけれどっ! わたしの前で話しているのも一応の配慮でしょうけれどっ! 口を挟むな譲らないというのなら横暴には変わりないっ)
「在位四十年の式典は、年が明けた翌月だったよね……残念、私はまだ婚姻前だ……」
「フリードリヒ……」
(女王陛下……在位四十年って……)
この国で在位なんて大層な言葉を使うなら国王ゲオルクに対してであるが、当然ながら女王ではない。
かつてオトマルクの女帝と呼ばれた人物はいるものの、すでに他界している。
だとすれば他国。女王で在位四十年など、当てはまるのは一人しかいない。
五大国の中でも強国とされる、アルヴァール連合王国に君臨する女王陛下。
「常識的に考えて、向こうも二度同じことはしないと思うが? さすがに良識もあるだろう」
「しますよ。賭けてもいい」
「しかしだな、父上の名ですでに招待状も発送している……」
「婚儀の前に認めは先に済ませるし、一日二日前と半年前と大して違わないでしょう」
「無茶を言うな」
「兄上のやり方よりずっと手順通りなのに? それに整えるなら秋から冬になる内のいましかない」
「どうしてだ?」
「私もマーリカも大変な目にあって、そう調整したとして不自然ではないからです」
不自然ではないなんて言葉……作為しかない。
本当に、どうしてこの人はこういった能力の無駄遣いしかしないのだと、マーリカは頭を抱えたくなる。
(このお話……、どう考えても……)
フリードリヒとマーリカの結婚の予定を早める話である。
それも他国の、アルヴァール連合王国の『女王陛下在位四十年式典』に合わせて。
フリードリヒが未婚の王子として一人で対応してもおかしくはなく、そんな必要はまったくないというのに。
困惑気味なヴィルヘルムの言葉から、彼もフリードリヒだけに対応させるつもりだったと思われる。
(王子妃になっているならともかく。他国の王族や公爵令嬢でもない弱小伯爵家の三女の婚約者では、国を代表し出席する第二王子の同伴相手としてふさわしくないから当然だ)
まさか、そんな大層な式典への対応要請とは考えてもいなかった。
エスター=テッヘン家が王国成立前から続く古い由緒ある家であることと、フリードリヒに望まれ彼の公務を支える相手として貴族社会で容認されているとはいえ、本来、王族の相手は王族の血を引くかそれに準じる者である。
王妃も王太子妃も五公爵家の出。
第三王子のアルブレヒトの婚約者、ロイエンタール侯爵令嬢はオトマルクに留学にきた小国の六の姫が曽祖父に降嫁している。
(元々、婚約者候補に挙がってもいなかったもの。古い家だから大昔ならそんなご先祖様もいるにはいるけれど……)
王太子夫妻の公務をなにか任せたいのだろうと考えていたけれど、フリードリヒの婚約者の立場でマーリカが呼ばれたのは、代理出席をフリードリヒに任せる理由を話すためだったのに違いない。
(なににせよ、わたしは補佐として随行することにはなる……)
しかし、フリードリヒが情報統制を持ち出して、ヴィルヘルムに話をさせないようにした。
マーリカが考えている間にも、フリードリヒによるヴィルヘルムの説得は続いている。
「アルヴァール訪問直前では、無用の疑念を与えるかもしれない」
「……成程。だが、さすがに相談がいる」
しかも、フリードリヒに丸め込まれつつある。
結婚時期を早める早めないから、早める時期に話がすり替わっている。
なるほど、じゃないですとマーリカは再び首を振り、今度は腕も使ってフリードリヒを振り払った。
男装でよかった。ドレスであればそれほど大きく腕は動かせない。
「殿下っ、王太子殿下も……なんの相談ですかっ」
「マーリカ、もうあと一押しだから黙ってて」
「致しかねます!」
その必要もないのに、他国の式典都合に合わせて結婚を早めるなんて、まったく理解できない。
第一、いくら婚儀の日取りは変更はないにしても、「はい認めます」で済むはずがない。
(ご自分の結婚までも調整の手間や日数の概念がないなんて、この“無能”は〜〜っ!)
「ふざけるにも限度があります」
「ふざけてないよ」
「どこがですっ、寝言は寝てから仰ってくださ――――ぃ……」
黙らないならこの場で口を塞ぐ……冗談でも脅しでもなかった。
王太子の目の前で、彼の側近が複数控えている王太子執務室内で……人を黙らせるために口付けるなんて破廉恥事案どころではない。
「でっ……!」
「いくらでも怒っていいけれど、警告はしていたよ」
表情は微笑んでいるのに、突き放すように冷めた声の囁きだった。
マーリカは、彼女の頬を羞恥に熱くさせてすぐ、彼女の背筋をその声音でぞくりと冷やしたフリードリヒの唇を見つめる。
ただの酔狂ではなさそうだと頭では考えるけれど、胸の内はまだ動揺の嵐である。
そして思うことは一つだった。
(この無能で横暴で掴みどころのない、腹立つ顔の良さなにこにこ王子をこの場で殴りたい!)
十五歳までの淑女教育の賜物で、マーリカは公の場にいて感情があからさまに表情に出ることはあまりない。
平静を保っているつもりで、実際かろうじて保ててはいたが、フリードリヒをきっと睨みつける目が少しばかり潤んで揺れてしまうのをマーリカは抑えられなかった。
それくらい。
まったく意味不明なフリードリヒの言動に憤っている。
ごほん、と二人を中心にして張り詰めた王太子執務室の空気を破るように、ヴィルヘルムが咳払いした。
「……マーリカ嬢は反対のようだが。彼女を尊重しているのでは?」
「それは私とマーリカの間のことで、兄上が考えることではないよ」
「しかし……」
「父上との相談よろしく。話も済んだし今度こそ帰ろうか、マーリカ」
先にソファから立ち上がり、手を差し伸べてきたフリードリヒへの無礼は承知で、マーリカは彼の手を無視して一人で立ち上がる。
(まったく、本当にっ)
尊重とはなんだとマーリカは憤りながら、フリードリヒが差し伸べた手を無視したこと以外は、完璧な所作と静かな口調でヴィルヘルムに彼女は退室の挨拶をした。
この時、マーリカとフリードリヒを除く王太子執務室にいた全員が、氷雪吹きすさぶ凍えるような氷の世界の幻影を見た気がしたが、それを彼等が口にするのはもう少しばかり先のことである。
「マーリカ」
すっと再びフリードリヒがマーリカに手を差し出す。
ここまでなんでもないように対応されると、憤りより呆れの方が勝ってくる。
王太子執務室には婚約者として呼ばれているが、退室したら補佐官業務に戻るのでどうせすぐ離す。
少し逡巡の間を置いて、マーリカはその手に軽く指をかけた。
マーリカの手を一度見下ろして、フリードリヒはまだソファに座っているヴィルヘルムを見た。
「駄目なら他を当たってください。条件は一つだけ――」
おそらく通すだろうとマーリカは思った。
いまの王家で最もアルヴァールと親しいのはフリードリヒだ。
かつては睨みあうような緊張関係だったのを、先方の王太子との交友で緩和させたのもフリードリヒである。
王太子夫妻の代理を任せるなら、彼しかいない。
(それに殿下は、無茶は言っても無理は言わない……)
「……まるで、子供の駄々です」
ヴィルヘルムの前を辞したマーリカがぼそりと呟けば、隣でフリードリヒが苦笑を微かに漏らす声が聞こえた。
いくらでも怒っていいと言質もとれている。
とにかく仕事を終えたら怒りたいことは怒り、事情は詳らかにし、納得いかないなら阻止は試みるとマーリカは決める。
フリードリヒの横顔を軽く睨んで、マーリカは彼が言い放った条件を反芻しながら、王太子執務室を退室した。
――マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘンを私の妻、第二王子妃と正式に認めること。






