Ⅰ.事務官デニス・ベック(3)
マーリカは、デニスが知る貴族令嬢とはまるで違った。
謙虚で、平民のデニスに対しても敬意を払ってくれる。
特に仕事については、長年王宮で働いている方と聞きましたと、大先輩扱いである。
こんな人が、愚痴ひとつこぼさず日々孤軍奮闘している様は健気というか高潔というか。
必要以上に関わりたくもないが、もどかしさは感じてしまう。
(いやいやいや、こんな全方向で誤解されまくって反感買ってるお嬢様。助けてなんの得にもならない)
書類を読む、伏せた黒い瞳の眼差しは少し憂いを帯びても見える。
その目は人を見る時、媚びることなく涼やかに真っ直ぐ相手を見つめる。
虚勢などもない、真摯で職務に忠実な彼女のこの目に怯む官吏は多い。
(真っ当に有能で、身分が中途半端に無視できないってのもあるけど、やり方が真っ直ぐすぎるんだよな……誰も各所の力関係も背景も教えていないからそれ以外ないだろうけど)
そう、誰も教えていないのが悪い。
このお嬢様なら、ある程度の背景事情をつかめばそのうちうまくやるはずだ。
不器用さを十分補うだけの能力があるのは、見ていればわかる。
(別に助けなくても、見せることはできる……か?)
ここ三ヶ月はそれなりにやっているが、それは前任者がある程度、復活祭関連の仕事を形にしていたからである。
これから豊穣祭関連で山のように仕事が押し寄せてくる時期に入ったら、さすがになにも知らないままでは酷だ。
(世間知らずのご令嬢に、仕事を目茶苦茶にされても迷惑なだけ)
デニスは確信していた。
このお嬢様は官吏を辞めないだろう。
もうすでに三ヶ月、新任じゃなくても音を上げるような状況や仕事に揉まれて、萎えた様子もない。
「調整官殿」
「はい」
「申し訳ありませんが、建設部へ同行いただけませんか? 要請事項への認めが入っていない書類が戻ってきまして。事務官だけでは追い返されると思いますので」
「でしたら、私が持っていきましょうか?」
「他にも手続き上のことがあるため。失礼ながら、調整官殿はまだ業務知識が浅いので私がいた方が早いかと」
(まずは三大厄介部局から。高位貴族の官吏も多くて、見たままの序列じゃない)
序列といえば、マーリカの実家のエスター=テッヘン家は、高位貴族といっても王宮とは疎遠で特にすごい権力を持っているとか、莫大な資力で金に物を言わせるとかいった家ではない。
ただ一点、オトマルク王国成立よりはるか昔、古代の帝国が大陸の大半を支配していた頃まで遡れる歴史と由緒正しさで王家から蔑ろにされていない地方の弱小伯爵家だと、デニスは下級貴族の官吏から聞いた。
平民のデニスにはまったく理解できないが、貴族にとってその歴史は無視することができないものだという。
(よくわからんが、世が世なら下手すりゃ王家も敬意を払うやんごとなきお姫様って感じか? 格だけ高くて力も金もなく序列も大したことないって、それはそれで馬鹿にされてもいそうだけど)
なんにせよ、デニスからしたら十分、雲の上にいる部類の貴族だ。
働かなくても贅沢な暮らしをしていける、こうして王宮の廊下を一緒に歩くことなどないお嬢様であることにかわりない。
どうして官吏になんてなったのだろう。
(それにしても……迷宮って言われる王城内の通路に迷う様子がまったくないな)
この王城左翼棟にある、文官組織の部局の位置をもう覚えたのだろうか。
着任挨拶の時に、ずっと領地にいて色々と不慣れだから迷惑をかけないよう努力するとは言っていたが、各部署を回って戻ってくるのもやたら早い。
毎日、各部局へ連絡事項を伝え、要請事項の承諾を取りに回る。
三人がかりでやっていたのを、いまはマーリカ一人でやっているというのに。
そう、一人で。
一人で……立場上、彼女から一歩下がって廊下を進みながら、だんだんデニスは顔が引きつってくるのがわかった。
(よく考えたら、誰もなにも教えていないのにおかしくないか? 各部局の誰と話すとかどうやって……あれか、過去の書類?)
彼女が文官組織の記録保管庫から借りてきた、綴じた書類の分厚い束。
たしかにあの書類には関係者についての記載もあれば、変更事項などの経緯なども記録されている。
しかし、王宮や王都の行事や催事が一体何件あるのか、関係する部署は異なりそれも複数ある。
それぞれの担当者など、過去の書類を読んだだけで覚え切れたものではない。
しかし、各所で尋ねて回っていたらもっと時間がかかるはずで、彼女の悪口にその非難も出てくるはずだがそれはない。
(もしかして……切ったら駄目な人を切ろうとしてないか?)
この時、デニスが考えたことはまったくもってその通りであったが、それが判明するのは残念ながら一年七ヶ月後の、先のことである。
*****
他の官吏の手前、表立ってマーリカの味方はできないデニスであったが、一見、彼女を馬鹿にするように彼の知る文官組織のあれやこれを見せるたび、彼女はそれを理解していった。
あっという間に二年の月日が流れ、マーリカがやってきた頃と比べて各所との軋轢も少なくなり、特に文官組織の下層にいる官吏や王宮使用人の間で彼女の評価が好転し始めた頃。
突然、これまた異例の辞令が下って、マーリカはデニスのいる部署を去った。
よせばいいのに、第二王子のところへ物申しに言ってなにかあったらしいのは知っていたが、その後もマーリカは普段通り仕事をしていた。
問題なかったのだろうと思っていたが違ったようだ。
(末端現場から、いきなり王族付って……)
生半可なことでは彼女は辞めないと、人事院も気がついたらしい。
二年も調整官として問題なく一人でやっているのにまだマーリカを認めないのか、いや認めたからこそなのか。
第二王子付筆頭秘書官――文官組織の官吏の間で最も激務と噂され、過去に上級官吏が何人も辞めている職だ。
いずれ王宮で彼女の姿を見かけることもなくなるだろう……もはや大抵のことでは腹も立たなくなっているデニスであったが、この時ばかりは理不尽さに身が震えた。
マーリカ自身はいつも通り、冷静な様子でいただけに。
ところがだ。
王宮から彼女の姿が消えることはなく、むしろこれまで見かけることもなかった第二王子の側に控えて廊下を歩いているところを、デニスのような部署からあまり出ない王宮使用人でも時折見るようになった。
第二王子が文官組織中を彼女を連れ回しているのじゃないかと思うくらいに。
いつの頃からか“文官組織の女神”なんて彼女を呼ぶ声が耳に入るようになって、それからさらにしばらくして……マーリカが部署を去って一年と少し過ぎたくらいだろうか。
彼女が第二王子妃になる話が王宮中に広まり、本当に雲の上の人だったのだとデニスはその時はじめて実感した。
「なんていうか、夢に出てきた人みたいなお嬢様だったな」
だが、たしかに二年間、彼女はデニスと同じ場所で働いていた。
彼は今日も書類を作る。
三年前と変わりなく。
それが事務官である彼の仕事である。






