挿話11.兄は弟を愛す
オトマルク王国、王都リントン。
活気ある街を高台から見下ろす王城の、中央棟の三階の廊下をヴィルヘルムは歩いていた。
向かう先は子供部屋。七歳を迎える前の子供はこの部屋で一日の大半を過ごす。
乳母や女官など子供の世話を任せられた女性達からごく基本的な身の回りのことや礼儀作法を教わり、子供によっては早くから教師がついて学ぶ。
五歳くらいから、同じ年頃の高位貴族から選ばれた遊び相手も共に過ごすこともある。
ヴィルヘルムは四歳で教師が付き、歳の近い五公爵家や大臣の令息などが出入りしていた。
彼にとって子供部屋は賑やかな場所であった。もう部屋を出て七年が経つ。
十四歳の少年なりに懐かしく思いながら、今は四歳の弟の第二王子が過ごすその場所に到着して、衛兵が開けた扉をくぐり……記憶とあまりに異なる静けさと雰囲気に入室してすぐ足を止めた。
(なんだ……これは? 三歳から教師もついていると聞いているのに、それより乳母も何故誰もいない?)
背中のすぐ後ろで静かに扉が閉まるのを感じながら、呆然とヴィルヘルムは部屋の中央付近にいる子供を見る。
子供向けの高さに作られた円テーブルに向かい、踏み台付きの椅子に掛けて床につかない足をぶらぶらさせて、熱心にテーブルの上に白い小枝のようなものを並べている。
「フリードリヒ……?」
広い子供部屋に一人ぽつんと、まるで放置されているように見える弟にヴィルヘルムは声をかけた。
兄弟といえどこれまで会ったのは数えるほどしかない。歳が十離れているため、弟が生まれた時にはもうヴィルヘルムの王子教育は本格的に始まっており、将来王太子となる彼の学ぶべきことは多くまだ少年といえども忙しい。
それでも彼にとっては大事な弟であった。
母である王妃が祖母の王太后にどれほど苦しめられ、実の母親の過干渉に父である王が苦脳しているかを知るヴィルヘルムにとって、直接会う時間は少なくても家族は非常に大切な守るべきものである。
「どうして一人なんだ?」
少し彼に近づけば、ゆっくりと首を傾げるようにフリードリヒがヴィルヘルムへと顔を向けた。
「兄上、ごきげんよう」
ぴょんと飛び降りるように椅子から降りて、フリードリヒは目上の者への礼を四歳と思えない慣れた仕草で見せた。
にっこりと微笑んだその様は、まるで神の使いのように美しく愛らしい。
彼が手に持ち、テーブルの上に恐ろしいような几帳面さで並べている白い小枝のように見えたものが、どうやらばらばらにした小動物の骨だと気が付かなければ。
「……乳母は、どうしたんだ?」
「ん? んー、そういえばいないね。おやつかな?」
そんなはずがあるかとヴィルヘルムは思ったが、フリードリヒの様子を見るに特に珍しいことではないらしい。
それに女官や侍女の姿が見えないのは、なんとなく察するところもある。
(一ヶ月程前の、飼っていた小鳥の番の一匹が死んだ件だろうな)
世話していた侍女に寂しいのなら、生き残った小鳥と共に病気にし死んだ小鳥と同じ空に送ろうかとフリードリヒが無邪気に尋ねたと聞いている。
皆一緒が幸せならと善意で言ったとしても王子の発言だ。
尋ねられた侍女は、その理由と共にさぞ恐ろしかっただろう。その日の内に暇乞いするほどに。
(そんなこともあったというのに、なんだ……これは? なにかの儀式か?)
テーブルの真ん中付近に小さな鳥の頭部の骨が、その下に華奢で長い首の骨、盾の形に似た胸骨らしきものが一列になっている。その左右に別の列を成して並べられているものは、おそらく翼の部分であろう。
「あ、これ? 兄上も見る?」
あまりにじっとテーブルの上を凝視していたためだろう。
ヴィルヘルムの視線に気がつくと、ててっと小さな歩みで近づいてきたフリードリヒに袖口を引っ張られて、テーブルの側へと連れていかれた。
「なかなか上手く出来たんだよ」
「出来た……?」
「うん、飼っていた小鳥が死んじゃって。教師が惜しむなら剥製にしようかって言ってくれたのだけど、折角だから骨格標本にしようと思って。模型はもう出来上がってしまっているから、つまらなくて」
(どう答えるべきなんだ……これは。弟の言うことがなにからなにまでわからない)
惜しむなら剥製というのは、勧めた教師もどうかと思うが百歩譲って生きていた頃の姿を残してはということだろう。しかし、折角だから骨格標本? 模型は教材だろうが、つまらないとはどういう意味なのか?
いや、それよりも……上手く出来たというのは。
「まさか、お前が作ったのか?」
「うん。模型よりずっと解体しがいがあった。羽の仕組みとか、なにがどう繋がっているのとか」
「学問的な……興味なの、か?」
「んーん、どういう仕組みで動いたり鳴いたり生きていたのかなあって。動いたり鳴く仕組みはわかったかな」
(小鳥の件だけでなく、乳母や女官達がいないはずだ……また何人か辞めたいと言い出すなこれは)
「教師はどこにいる?」
「大学の職に戻るって辞めた。辞める前に作り方は教えてもらったから、困ってはないよ」
「いや、困るだろう……」
「そう? あとの勉強は王子教育からでいいって。解剖学の実践まで子供に教える気はなかったって言ってたけど」
(当たり前のように私と会話しているが、四歳だよな?)
父である国王ゲオルクから、一度、兄の目で弟を見てくれと頼まれて訪ねてみたが、ヴィルヘルムの理解の範疇を超えすぎている。どう接したらいいのかもよくわからない。
下手をすれば自分の知識も上回ってくるかもしれない。少なくともヴィルヘルムは骨格標本の作り方など知らない。
(しかし……見事なまでに骨のみだ。清廉な美しさすら覚える)
一体、どうやってこの幼い弟が……狩りの獲物を捌いてもらうように厨房の料理人か下男にやらせたのだろうか。
しかしそれでは、これほどまでに綺麗なものにはならない。
気になる、しかし聞くのが怖い……絶対に四歳児というか大人もその道の者しかやらぬようなことをやっている。
結局、ヴィルヘルムは好奇心に負けた。フリードリヒは懇切丁寧に説明してくれた。
それこそその道の教師の如く。なんでも重曹で根気よく煮るらしい。その後も実に細かい作業をやっていた。
一番大変だったところを聞いてくるとはさすがは兄上、と。
何故か目をきらきらさせて褒められ感心されたが、弟が何に喜んでいるのかもわからない。
(だが、小鳥の件もこの骨も悪意はない。少々変わっているが弟は善良だ)
「そうだ。ねえ、兄上」
「なんだ?」
「王子教育まで、どれくらいの勉強をやればいい?」
「まだ四歳なのに偉いな。フリードリヒは勉強が好きなのか」
ふむ、これなら答えられる。
なんといっても経験してきたことだとヴィルヘルムがフリードリヒに応じれば、またも彼を混乱させる言葉が天真爛漫な笑顔と共に返ってきた。
「ううん、全然」
「ん?」
「むしろなにもしたくない」
「んん?」
「だからさっさと終わらせて、王子教育まで好きにしたい」
「……」
(本当に、弟の考えが……なにを言っているのかがわからない)
「勉強は、理解できたら次に進むものだぞ」
「えー」
「体を使うようなことは、まだ小さ過ぎるだろうし」
「そういう疲れそうなのはもっといやだ」
(まだ四歳ではあるが、怠惰すぎないか……弟よ……)
いやしかし、普通の子供と比べて進みすぎているからいいのかと、ヴィルヘルムは少々頭が痛くなるくらいあれこれと考えていた。国王の父に、兄として弟を見極めよと言われたも同然なのだ。
少なくとも善良である。おまけに神童の評価に違わぬ賢さなのは間違いない。
年齢的に王太子はヴィルヘルムでほぼ確定しているものの、まだ父ゲオルクの治世は長く続く。
その間に、フリードリヒがより相応しい才覚を持つのであれば、ヴィルヘルムとしては弟が王太子になっても構わない。王家の厄介な外戚の影響を排するためには、父ゲオルクを助け、父の築いた体制を継ぎ諸侯を従えられる者でなければならないと考えている。
十四歳にして、すでに極めて真面目なヴィルヘルムである。
ヴィルヘルムは中腰になって、フリードリヒと目線を合わせ彼に静かに語りかけた。
「フリードリヒ、お前は王子だ。私と共にこの国と父を支え、母を守り、臣民の範となり導ける者でなければいけない」
「それ……兄上いるし、他の人じゃだめ?」
「私だって病や不幸な事故にあわないとは限らない。その時はたった一人の弟のお前だけが頼りになる!」
幼いとはいえ、王族としてあまりに情けないと思えることを言うフリードリヒに、思わずその小さな両肩に手を置いてヴィルヘルムは彼を諭した。
そう、オトマルク王国の王子は自分たち二人だけ。
これも祖母である王太后が、ヴィルヘルムを産んだ彼の母の食事に薬物を混ぜたり、手駒の者を使って狙わせたりしたためである。
当時まだ十六、七歳の若さであった王妃はすっかり憔悴し、父と大祖母の配慮で十年近く離宮に療養の形で庇護されることになった。ヴィルヘルムとフリードリヒの歳が離れている理由だ。
「そうか……」
「わかってくれたか?」
「はあ……面倒だな。けど大人になるまで少し時間あるし、解体しようかな」
「んんん?」
小さな手で顎先を掴んで、なにかぶつぶつ呟きだしたフリードリヒの表情を見て、ヴィルヘルムは戦慄した。
光を失った空色の瞳は人が持つ情の欠片も感じられず、子供がする目ではない。
一体なにを考えているのか想像もつかない。しかし、弟が王族としてものすごくよろしくない方向へ踏み出そうとしているのはわかる。
「フリー……ド、リヒ……?」
「……とりあえず数を減らして、動きを見ようか」
「フリードリヒ! 減らすってなに……っ、いや、言うな! 聞いたが最後、王家が色々ダメになる気がする!」
「兄上?」
こてんと首を傾けて不思議そうにヴィルヘルムを見る、弟の眼差しにはやはり邪気や悪意はない。
ヴィルヘルムは思わず頭を抱えて唸ってしまった。
これは、この弟は。
(むしろ悪人であるより、難しい!!)
「すまない。悪かった。幼いお前に重すぎた……私がなんとかするから安心してくれ。なにか父上もびっくりなことを考えていたようなのは忘れてくれないか、な?」
「そう?」
「ああ」
「わかった。ありがとう、兄上」
何故お礼を言われたのかもさっぱりわからないけれど、にこにこヴィルヘルムに微笑むフリードリヒは、やはり天が使わした聖なる存在のように無垢で愛らしい。
危ない方向へいくと本気で危なそうだが、いやもう四歳児でそう人に思わせる時点で王子として素晴らしい才覚の持ち主なのではないかとも思える。
(そうだ、私は兄なのだ。この弟も守れず正しく導けずしてなにが王太子だ!)
ヴィルヘルムは極めて真面目であった。
真面目で常識的すぎて、それゆえにその枠から外れたことへの理解は、まだ人生経験の浅い少年なこともあって非常に大雑把であった。
一方、フリードリヒは恐るべき頭脳と人の思考を惑わせる美しさを持つ、天真爛漫で怠惰な幼児であった。
どうも大人達にとって、自分の言動はよろしくないところがあるようだと朧げながら察してはいるが、幼さと独特の感性ゆえになにがよろしくないのかがわからない。しかし、観察すればそれなりにダメはわかりそうだと考えた。
「フリードリヒ、近く父上や母上に会いにいこう」
フリードリヒは賢いが、まだ幼すぎるがゆえに善悪がよくわからないのに違いない。
そこへ怠惰な性質が合わさって、なにやら極端な……よろしくない方向へ踏み出す危うさとなる。
きっと弟に必要なのは勉学ではなく、道徳や優しさや愛情などの人の心に違いない。
こんなに賢く兄の言うことを素直に聞き入れる、いい子なのだから。
父ゲオルクに早急に相談しなければと、これ以上とない兄バカぶりを発揮してヴィルヘルムは心に決めた。
兄たるもの、弟を守るものであると。
「うん、いいよ」
後に第三王子のアルブレヒトが生まれて成長し、この話を怠惰な次兄の隠された真実の話の一つとしてヴィルヘルムから聞かされた際、彼はこう思った。
ああ、兄二人のそれぞれの方向性が完全に定まった瞬間か、と。






