挿話10.王宮へお引越し
長い休暇もあと二日、三日後には復帰である。秘書官は解任されるが引き継ぎなどの仕事はある。
隣国の公国貴族の差金で馬車の事故にあい、その療養のために滞在していた郊外の離宮から王城に戻ったマーリカは、官舎の食堂兼談話室で穏やかな午後を満喫していた――はずだった。
「はい?」
前触れなくやってきた武官に一体何事と、マーリカがお茶のカップを片手に持ち上げたまま呆気にとられて掛けていた椅子から相手を見上げれば、ばっと書類を目の前に広げて突きつけられた。
突然武官がやってきて書面付きで口上をのべられるとは、まるで悪事がばれて引っ立てられるお偉い立場の人のようである。もちろんマーリカにそんな心当たりはない。
そもそも一ヶ月以上も郊外の離宮にいて、昨夕戻ってきたばかりだ。
臙脂色の制服は見慣れた近衛騎士のもの。
彼等の主な任務は王族の警護である。
初対面の人であるため、フリードリヒ付きの班の者ではないのだろう。
文書には国王陛下の署名に印が押してあるが、武官の側に緊迫感や殺気もないため、何事かとは思ったがマーリカも特に慌てることはなかった。
礼儀に厚い近衛騎士ではあるが、武官が凄んだ際の恐ろしさなら、一度王族に危害を加えた現行犯として取り押さえられ拘束された経験があるマーリカは身をもって知っている。
超繁忙期に無茶を言い出したフリードリヒに物申そうとして、激務の疲労と彼の言動への怒りで理性が飛び、説教しながら往復で平手打ちしたのが彼とマーリカとの出会いである。
(知らなくてよかった経験ではあるけれど……それはそれとして)
文書には、マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘンと、彼女が由緒ある伯爵令嬢であることも表している長い正式な名前が記されている。
国王の署名も印もあるはずである。
文書は王宮の部屋の使用許可証だった。しかし、復帰してから王宮内配達で届けてくれてもいいものでもある。
何故、休暇中に?
わざわざ若手の中級下級官吏向けの独身者が住まう官舎まで?
王家直属の近衛騎士がこんな文書を持って?
マーリカの頭の中は疑問符で一杯であったが、続く武官の言葉で疑問は氷解した。
「第二王子フリードリヒ殿下のご婚約者、エスター=テッヘン伯爵令嬢のお部屋が調いましたので、すみやかに居を移すようにとのこと――小官は護衛の任で参りました」
なるほど。
たしかにマーリカは、このオトマルク王国の第二王子、文官組織の長であるフリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルクと婚約した。
十日程前に正式に国王陛下の認めと父親からの許可の書面も得て、書類上の手続きも済み、すでに公示も出ている。
王子の婚約者が、女性は食堂の調理補助と管理人夫人以外はいない独身寮にいるのは外聞的によろしくない。
エスター・テッヘン家の王都屋敷が慈善施設と化していて住居として使えない事情から、王宮に部屋が用意されることは彼女も聞いていた。
しかし、それ以上のことはなにも知らない。
「王家のご配慮は確かに拝受いたしました。しかしながら、なにも詳細を聞いておらずなんの用意も出来ておりません」
直ちに王宮へ移れといわれても、どこへ移ればいいのかもわからない。
大体、いまのいままで王都情報誌の前の号などぺらぺらめくって暢気に過ごしていたのである。
荷物など当然まとめていない。まあ官舎の部屋は広くもないし大した荷物はないけれど、王宮に移るとなるとそれなりの支度を実家から取り寄せる必要もあるだろう。
それに官舎を退去する手続きもある。
「とはいえ、そのようにわたしに言われたところで貴官もお困りになるだけでしょう。向かう先はご存知ですか?」
近衛騎士は頷いた。ひとまず行く先は困らなそうだ。
国王より直ちにとの命である。
ひとまずマーリカのために用意された部屋へ向かうだけ向かうしかないだろう。
荷物のことは、その後で考えるしかない。
それにしても休みだったからいいものの、人の都合ももう少し考えて欲しいものである。
近衛騎士から文書を受け取って、仕方ないと立ち上がった彼女の表情は、休日に召喚命令を受けて出勤する時と同じだった。
(外聞もあるけれど、一度狙われて怪我を負って療養してもいる。正式に婚約者となった以上は、それなりに警備体制のあるところへ移れということだろう)
案内くださいと近衛騎士にマーリカは言って、官舎の管理人に退去することになるからあらためて手続きする旨を伝え、約三年住んだ官舎を出た。
「……なんといいますか、噂に聞く以上ですね」
近衛騎士がぽつりと呟き、ろくな噂ではなさそうだなとマーリカは思う。
淑女はいかなるときも感情露わに取り乱すことなく、余裕の笑みを浮かべているものと教育される。
マーリカは感情露わに取り乱さないことは修得したが、淑女らしい微笑みを浮かべることは苦手であった。
結果、自分でも冷たい感じの無表情に近い顔になる。
官吏の職には向いているかもしれないけれど、若輩の女のくせに可愛げのない、冷血、怖いなどなど……フリードリヒに取り立てられる前、調整官の頃は各部署の方々から言いたい放題であった。
表面そう見えることは事実なので反論する気もなく、またそんなことにいちいち取り合っていられるほど暇でもなかった。そう、文官組織の人手不足は深刻なのである。
(しかし……)
近衛騎士に案内されるまま、かなりの距離を歩いてマーリカはなんだかおかしいと気がついた。
王城の主棟の一画、王宮に頻繁に出入りする貴族や高官が借りられる部屋の区画も通り過ぎようとしている。
(どこまで行くのだろう。もうこの先に官吏が借りられるような部屋はないはずだけど)
それなのに、案内の近衛騎士はさらに建物の東の奥へとずんずん進んでいく。
マーリカにとっては馴染み深い廊下が見えてきて、思わず彼女は声を掛けた。
「あのっ」
「はい」
「この先は、王族の方々の私的区画かと思うのですが」
「はい」
いや、はいじゃなくて……と、マーリカは眉間を軽く押さえかけて堪えた。
わずかに俯きかけた顔を持ち上げて、彼女としては出来るだけ穏やかに微笑む。
部下の主任秘書官から、「あー気遣いはありがたいですが、むしろ逆に詰められてる気がしてくるので無理せず」と、遠回しに注意される笑みであった自覚はマーリカにはない。
「私の部屋へ案内いただいているのですよね?」
マーリカはまだ婚約者で第二王子妃候補というだけで、王家の一員でもなんでもない。
それなのに何故かびくっと肩を跳ね上がらせ、再び「はい!」と声高らかに近衛騎士は答えた。
「そうですか」
近衛騎士の返答を聞いて、マーリカはひっそりと息を吐いた。
やはりこの見慣れた廊下の先、フリードリヒの私室もある王族の私的区画にマーリカの部屋はあるということだ。
「少しお待ちいただけますか?」
「あの、なにか……」
「え?」
「いえ、なんでもありませんっ」
マーリカは、丸めて手に持っていた文書をいまさらながら開いてみた。
記されている内容は目録兼使用許諾に関する詳細な条件である。
第二王子妃候補として王宮の一室を与える旨と、侍女五人と衛兵三人が部屋付で手配される旨、室内の家財は王家所有で万一の破損等における弁済は免れること、与えられる部屋の維持管理費、部屋付の者達の人件費、その他支給される食事等の生活全般の費用は王家持ちと記してある。
ご丁寧に怪我や体調不良時の医療保障付き。
文面を見る限り、マーリカもといエスター=テッヘン家側の費用負担は一切ない破格の条件である。
(嫌な予感しかしない……)
昔から言うではないか、ただより怖いものはないと――。
マーリカは、ほぼ同じ背丈の近衛騎士を見た。
官舎はマーリカ以外は男性ばかりなこともあり、普段着でもスカートは悪目立ちするため、休みの日も概ねマーリカは普段と変わらない文官の男装でいる。
休日でも王族付である以上いつ呼び出しがかかるかもわからないため、着替える手間がないのもある。
それでもまだ若い騎士にとっては、女性から不躾な視線を向けられるのは気詰まりだったのか、彼は少しばかり狼狽したようにマーリカから顔をそむけた。
「わたしを案内するにあたり、なにか聞いていますか?」
「……その、エスター=テッヘン殿の部屋は警備上……こちらが望ましいとのことで聞いておりますっ」
「参りましょう」
マーリカは近衛騎士の若者の制服に縫い止められている階級章を確認していた。
若いからそうだとは思ったが、役付きではない。
(わたしの護衛と案内を任されただけで、詳しい説明は受けていない……聞いても詳しく答えられない人を寄越している点でますます怪しい)
前触れもなければ事前の相談もなく、「王宮内に部屋を与えるから即座に移れ」などといった命令。
国王陛下の署名付きでこの破格の条件を簡単に取り付けられ、なにかと人を振り回す人をマーリカはよく知っている。嫌な予感とはよく当たるもので、案内された部屋はマーリカが彼女の仕事のために頻繁に出入りしている部屋――第二王子の私室の、廊下を挟んで斜め向かいであった。
(結婚してもいないのに、近すぎるっ!)
とはいえ国王によってこの部屋を与えると一筆書かれていては、異議を唱えることは難しい。
案内兼ここまでの護衛の任を受けた近衛騎士には、丁重にお礼を言った。
本当に……仕事以外のことには手回しがいいのが腹立つと、マーリカは与えられた部屋に入る。
すでに控えていた部屋付の侍女や衛兵と挨拶をかわし、そのまま何故か湯浴みを促され用意されていた室内着に着替えさせられ、肌と髪までお手入れされては呆れるしかない。
「フリードリヒ殿下は夕刻にいらっしゃいます」
ハンナと名乗った侍女頭ににこやかにそう伝えられて、いやいやいやお待ちなさいとマーリカは胸の内で思った。
半月程前に婚約成立したばかりで、すでに婚儀も挙げたあとのような対応をされても困る。
「ええと。まだ婚前でもあり、わたしは第二王子妃候補でしかないのですが?」
「はい、承知しております」
「独身女性の私室に通すのはよろしくないと思いますから、別室の手配を……」
「ご安心ください。正式な面会手続きをいただいております。それにこちらのお部屋には応接間もございます」
「あ、はい」
(いくら婚約者でも、臣下に与える部屋として広すぎるのでは?)
浴室と衣装部屋付きの寝室・居間・応接室がひと続きになっている。
部屋を与えるというよりは、生活を営む場所として一区画を与えられているに等しい。
「大事なことなのでもう一度言いますが、まだ婚前でもあり、わたしは第二王子妃候補でしかないのですが?」
「はい、ですので王家の客間しかご用意できず申し訳ないと陛下のお言葉です」
「……どうぞお気遣いなくとお伝えくださいませ」
(だめだ、これは完全に陛下を丸め込んでいる)
抵抗しても無駄と悟ってマーリカは、無の境地で淡々と侍女頭のハンナに伝えた。
侍女といっても王家が選んで手配した人達である。
身分もそれなりの方々だろうが、それ以上に王家への忠誠心に厚い人選なのは間違いない。
所作に一分の隙もないし、なによりにこにこと丁寧かつ揺るぎない対応である。
「お付けになられていたリボン素敵ですね。刺繍がとても繊細で」
「よく知りませんが、おそらく相当の職人の手によるものかと……殿下にいただいたものなので」
「左様ですか」
香油でつるつるさらさらになった髪を、軽く左右を編み込んでリボンで結えて、後ろ髪はおろした形に整えられと至れり尽くせり。
こういった貴族令嬢なら当たり前な感じは久しい。
「昨日郊外からお戻りで、すぐお部屋を移られてお疲れでしょう。居間でお寛ぎください」
「ありがとうございます」
居間は大変居心地のよい部屋に整えられていた。
燻んだ金と淡いベージュの濃淡でダマスク柄を織り出した布が貼られた壁。
天井の漆喰細工はリボンと小花を楕円に巡らせ、凝っているが上品で可愛らしい。
釣り下がるシャンデリアも小ぶりで威圧感はないものである。小さなカットグラスが無数に連なっているため灯せば明るいだろう。富が成せる明るさだ。
暖炉の前に設られた、淡いバラ色のソファと深みのある飴色のローテーブル。
窓辺にある四角い小テーブルは貴石象嵌で可愛らしい鳥と花が描かれ、マーリカの実家で彼女の部屋にあったものと少し似ている。
マントルピースの上に飾られている銀細工が施された煙水晶の水差しも、ああいうのあったなあと目を細めかけて、いやおかしいとマーリカは眉を顰めた。
(なんだろう……そこかしこに実家のような懐かしさの調度が……)
エスター=テッヘン家の屋敷でマーリカが気に入っていたものに似た、王宮仕様なものが違和感なく設らえられている。
(待って待ってなにこれ怖い……たしかに殿下はわたしの実家を一度訪問されているし、領地のご当地土産をも把握されているけれど。王族の婚約者なんてあらためて身辺調査するとも思うけど)
「偶然……そう偶然。貴石象嵌のテーブルなんて親類の家にも昔からあったし、煙水晶の細工物なんてわたしの家に対であるようなものだし。王家にとってはそこらに置く物なのでしょう」
あまり深く考えないでおこうと、マーリカは用意されたお茶を飲んだ。
さすが王宮、大変おいしい。添えられたミルクや砂糖までもお茶に合わせた風味豊かなものである。
飲食費も素晴らしいものになりそうだ……と、つい考えてしまう。
まあ大半仕事に出ているから、部屋を与えられても寝る場所と朝食どころくらいにしかならなさそうだけれど。あとは不定期の休み。それはそれでもったいないような気もする。
テーブルにはお茶だけでなく、マーリカが取り寄せようかなと思っていた本まであった。
最近出たばかりの、古代ラティウム帝国の衰退を分析した本である。
(殿下に話した覚えはないけど、何故、わかった……)
さりげなく十日後くらいに発刊予定の王都情報誌の最新号もある。
まったくどういう自己主張なのだかとぼやきながら、マーリカはまだ世に出ていない王都情報誌の最新号をぱらぱらとめくった。
“美食王子の下町美味紀行”といった題名で、フリードリヒが執筆している連載コラムを見つけて手を止める。
(本当に本物の王子なのだけど……って、工房通り!? 下町でも安酒場が並ぶ場所に近くて治安もよくないのに)
城外へ知らぬ間に抜け出しているフリードリヒの行動範囲がわかるコラムでもある。
それに認めたくはないけれど……紹介されているお店も品も間違いない。
フリードリヒは、いまや王都で最も信頼のおける“人気案内人”の評価を得つつある。
「“マルレ姐さんの野うさぎ煮込み”は、工房通りの職人達にとって、春を待つ間の楽しみ――」
フリードリヒの下町美味紹介は、単においしいものを紹介しているだけではない。
おいしいものを巡る人々のささやかな楽しみ、街の生活の一部も描写されている。
城外に出た彼が街中の人々の様子を眺め、あの空色の瞳を細めて楽しんでいる姿が浮かぶ文章。
(本当に、あの方は……)
完全に彼の趣味と楽しみでフリードリヒは抜け出しているけれど、彼は城外の街をよく見てもいる。
視察中の彼の我儘の一部は、その後、城下の問題解決にもつながることもある。
例の運や引きの強さで、そうなっているのかもしれないけれど。
怒るに怒れない……いや城を抜け出すことや行った場所には怒るけれどとマーリカはため息を吐く。
「後から人を心配させて……今回もおいしそうなのが、また腹立つ」
春になる前に、エスター=テッヘン家の王都屋敷の様子見ついでに食べに行こうとマーリカは心に決める。
なんだかんだで、紹介された店のメニューはすべて制覇している彼女であった。
「しかし、今年一押しの復活祭式典特集とは……これは武官に渡した方がいいのでは?」
復活祭期間、街の人出の多さで事故など起きないようにするのも武官組織の仕事の内である。
マーリカのものではないので後で持ち主に尋ねようと、彼女は雑誌をテーブルに置いて本を手に取った。
話してもいないのに、読みたかったものが用意されているのは不気味だが本に罪はない。
こうしてゆっくり読書など久しぶりである。療養中は怪我の不都合よりも体調不良が続いて辛かった。
いつしか集中し始めて、気がつけば窓の外はすっかり夕暮れ時になっている。
侍女が応接間への来客を告げにきて、マーリカはソファから立ち上がると侍女の案内に従って部屋を移った。
*****
「やあ、マーリカ。不便はない?」
「特にありません。むしろなさすぎて不審です。怖いくらいのお気遣い……ええ本当に、身の危険すら感じます」
婚約者である第二王子の第一声に、マーリカはこれ以上ない冷めた目を向けた。
応接間のテーブルを挟んで向かいあう相手は、優美な椅子に足を組んで座り、にこやかに無駄にきらきらしている。
「王子を危ない変質者のような目で見ない! でも気に入ってもらえたようでなによりだ」
「はい……ありがとうございます」
屈託なくうれしそうにほっとしたような表情を向けられると、色々と思うところはあるもののそれ以上なにか言う気も削がれる。
ずるい、とマーリカは胸の内で呟く。
フリードリヒのこういった真っ直ぐ人に好意を向けて来るところは、マーリカの官吏ではない部分を戸惑わせる。
「殿下……わたしの実家で、わたしの部屋まで見たのですか?」
だが今後のためにも、はっきりさせておきたいところは確認しておきたい。
彼は第二王子、所望すれば伯爵家の屋敷の中を案内させ、そんなことをする人とはマーリカも思っていないがごく私的な部屋を見せろと理由つけて命じることもできなくはない。
「そこは耐えた」
「耐えるな」
「え、見てよかった?」
「ダメです」
「うん、そうだろうと思って。本人の許可なく覗き見はよくないからね」
テーブルには侍女がお茶とお菓子を用意してくれている。
お茶のカップを軽く持ち上げ、目を輝かせてフリードリヒはマーリカを見つめた。
壁際に控えている侍女達から見れば、婚約者と会ってうれしげな眼差しを向ける王子に見えるかもしれないが、残念ながらそうではない。
「期待に満ちた目を向けられても、許可しませんよ。未来永劫許可しません」
えー、と不満を漏らしてカップに口をつけるフリードリヒに、まったくとぼやいて彼女は焼菓子を自分のために皿に取り分けた。
本に集中していたので、少々頭が疲れて甘いものが欲しい。
薄く切ったパウンドケーキは、細かく刻んだ柑橘類の皮の砂糖漬けが生地に混ぜてあり、お酒も使った濃い甘みの中に酸味とほろ苦さが美味しい。
味の深みや生地の風味は王家で出される菓子と考えても、少しばかり段違いに感じる。
(たぶん、殿下が手配したものかな……予定していたようだし)
「マーリカだけ、私の私室や子供の頃の肖像画まで見ててずるくない?」
「殿下がごねずに定刻内にお仕事してくだされば、私室にまで伺う必要はないのですが? それに中央棟の大廊下にかけてある肖像画を見ているのは、わたしだけではありません」
「……まあいいけど。君の親類から、君の子供の頃の話を沢山聞かされたし」
「え?」
「それはもう、自慢げに」
(そういえば……離宮でもそんなことを。おにい様達、なにを話した!)
聞きたいけれど、聞くのが怖い。
それにマーリカを“甘やかしたい欲”などといった、妙な対抗意識を親類達に持っているようなので尋ねると藪蛇になりそうな気もして、彼女はフリードリヒの言葉を聞き流すことにした。
「それで、フリードリヒ殿下はこちらに何用でいらしたのですか? まさか、気に入ったかどうか確認のために?」
「婚約者に会うのに理由がいる? しかも私の部屋とは目と鼻の先なのに」
「そうですね。まだ婚姻前なのに何故かこの場所ですね」
無感情に、紙に書いた台詞を棒読みしたような調子でマーリカが応じれば、意外にも、決めたのは彼の父親である国王ゲオルクで自分は関与していないとフリードリヒは訴えた。
「え、そうなのですか? てっきり殿下が陛下を丸め込みでもしたのかと」
「マーリカ、君にしては珍しくきょとんとかわいい顔しているけれど言葉に悪意がある。近いのはうれしいけれど、絶対マーリカは抵抗するから段階的にと私は言ったのに……」
「段階的ニト、私ハ言ッタノニ……?」
「婚約者を殺気を込めた目で見ない! 決まってからだよ。むしろ私は進言したのだよ? 王家の区画でももう少し目立たない部屋に一旦来てもらってはと。ゆくゆくは私とまとめて護衛した方が安全だからと理由をつけて、私の部屋の隣へ移そうと……」
「まったく段階的ではないですね。むしろ陛下のお考えの深さと理解しました」
フリードリヒの部屋の隣など、それは普通に夫婦の寝室である。
警護面でいえば、廊下を挟んで向かい側ならフリードリヒとまとめてできる。
納得はいかないが、婚前の節度に配慮してのこの部屋の位置かとマーリカは嘆息した。
第一王女のシャルロッテから、王族男子は婚約したとなったら手が早いと聞いたけれど、王のゲオルクが配慮してくれるのなら、王家として推奨しているわけではないこともはっきりした。
王族は一般の貴族以上に世継ぎは重要事項だから覚悟が必要かと、シャルロッテの話を聞いてマーリカは思ったけれど、よく考えたら王太子ヴィルヘルムの息子の王子も二人育っている。
王太子とその息子二人も失い、フリードリヒにまで継承位が回ってくるようなら、はっきり言って王家か内政の危機にも等しい。
「単刀直入にお聞きしますが……殿下は婚前交渉をお望みなのでしょうか」
「正面切って聞いてきたね」
「真意を確認しておこうかと」
「そういうわけではないけれど、“私の側にいてほしい、ずっと”って言わなかった?」
たしかに言われた。だが、それは人生を共に歩む意味ではとマーリカは頭を抱えたくなる。
もちろんそういった意味が大きい言葉でこの婚約だろうけれど、そこに本当にずっと、物理的な距離の意味も含めて側にいろが混ざっているとは普通は思わない。
(薄々わかってはいるけれど、執着が重い……いつからどうしてこうなったの?)
「……“私の目の届く範囲から出してあげない”とも言った」
テーブルに頬杖をついて、ぼそりとぼやいてフリードリヒは空いている手をマーリカの手元に伸ばし、彼女の皿にまだ残っているパウンドケーキの欠片を摘んで口に運ぶと、粉砂糖のついた指を軽く咥えて舐める。
行儀悪い上に親密も過ぎて節度もない、マーリカが婚約者でここが私室でなければ許されない振る舞いだ。
「なんですか。そのロマンス小説にでも出てきそうな、病んだ情念っぽい言動は……」
「独占したいだけで病んでないよ。ところで、マーリカもそういったの読むのだねえ」
「人並みには。職務上、専門書の方が優先度は高いです。そもそも、秘書官になった時からわたし以上に、殿下はわたしの時間を独占していますが?」
「そうかな」
「はい。とにかく、そういったつもりはないのなら、婚前の節度は守ってくださるわけですね?」
「いいよ、マーリカの事は尊重する」
不意打ちのように甘い声音で承知したフリードリヒに、こほん、と小さく咳払いしてマーリカはお茶をお飲む。
フリードリヒも昨日王宮に戻り今日は休暇のはずだが、なにをしていたかは尋ねるまでもない。
(わたしを迎える手配を細々としてから、少し休んでここに来た……)
部屋や調度についてはマーリカが療養している間に意見や指示していたのだろう、おそらく侍女などにも教育とまではいかないが事前にある程度マーリカのことを伝えてもくれている。
書類仕事以外にそんなこともしていたのかと思う。
マーリカが部屋に入ってから、侍女の距離感、使われた香油や出されるお茶など……今日いま来たばかりですべてに引っ掛かりが一つもないのは異常である。
ここまで徹底するのは直接、事細かに指示しないと無理だ。
(若干、怖いけれど……仕える側では当然やることではある。殿下は主の側だけど、たしかにお茶やお菓子や身の回りのものなど、この王宮でわたしの好みを殿下以上に知る人はいない)
「私はこれから夕食なのだけれど、こちらに運ばせよう。来てくれたマーリカを歓迎したい」
「なにからなにまで、十分、歓迎いただいてると思いますが」
「私がそうしたいのだよ」
ほとんど毎日のように、廊下を挟んで向かいの彼の部屋に仕事のためにマーリカはいたけれど違うらしい。
「たとえ私の部屋を出ても、今後は向かいのこの部屋にいるのだねえ」
「殿下、お気持ちはうれしいので、そういうことは口にしないでいただけますか」
色々と思うところはあるけれど、歓迎してくれる気持ちは素直に受け取りたくはあるマーリカであった。
またそんなマーリカの様子とフリードリヒへの対応を見て、部屋付きの侍女も衛兵も「陛下に命じられるまでもなく絶対逃してはいけないご令嬢。この人逃したら後はない」と頷きあったのだった。






