挿話8.婚約者の時間
怠惰で色惚けてはいるけれど、手順は踏んでくれるとマーリカは思う。
触れていいか、どこまで触れてもいいか。
髪や指先や手の甲、そして頬や唇へと……。
突然、不意打ちでくる時もあるけれど、眼差しやマーリカの頬や顎に触れる手の予告は忘れない。
それがなんだか、手慣れていると感じてしまうのは、うがった見方だろうか――と、すらりと長い人差し指の先で下唇をなぞられながら、長いまつげに縁取られた空色の瞳を覗き込むようにマーリカは見る。
「ふむ、なにか物申したいって顔をしているね」
この人は顔と運と、勘がいいから時に嫌になると。
知らず、マーリカはごくわずかばかり眉間に皺を寄せてしまった。
そんな彼女を見て、フリードリヒは、「うーん」と、逡巡するようにうなって、彼の唇の進行方向を変更した。
几帳面に結い上げているマーリカの黒髪に埋めるように、彼女の右こめかみ付近にフリードリヒは顔を伏せる。
「婚前の節度?」
「そういったわけでは……」
この雰囲気でそれを持ち出す気はさすがのマーリカにもないし、双方協議交渉の上でハグとキスまでを節度の境界線とする取り決めを結んでいる。
王家の力で揉み消しはなしですからねと念押ししたマーリカに対し、フリードリヒからの提案で破った際の補償事項までも書面に記して取り交わしまでしている。彼としても抑止力は多い方がよく、安心であるらしい。
マーリカの頭に鼻先を埋めたままでいる彼女の婚約者は、この国、オトマルク王国の第二王子。
フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。
深謀遠慮を要求される文官組織の長であり、マーリカは彼を補佐する文官組織専属王族公務補佐官である。
こと公務などの務めを果たすことに関して、フリードリヒは著しくやる気がない。
しかも、それを公言して憚らない。
おまけに考えがあるのかないのか、よくわからない気まぐれな言動で周囲を振り回す。
現場の文官達から“無能殿下”などと呼ばれている人である。
そんな彼に“仕事をさせること”が仕事であるマーリカなので、それこそ「おはよう」から「おやすみ」まで彼と一緒にいようと、婚約者同士の甘やかな雰囲気など皆無だ。
フリードリヒがぐずぐずと、彼の仕事を片付けるのを後回しにするのでそれどころではないのもあるが、マーリカが彼に仕える臣下としての自分と彼に恋愛感情を抱いている自分を切り替えるのに不慣れなこともある。
ほぼ毎日、四六時中一緒にいるが、互いの立場と役目と職務上、普段は仕事が最優先。
そんな彼等にとっていまは非常に珍しい、仕事も終えてただ思い通じ合って婚約を結んでいる二人の時間だ。
「じゃあなに?」
「いえ、その……」
低くくぐもったフリードリヒの追求する声は、日頃あまり考えない異性としての彼をマーリカに意識させる。
あまりに婚約者同士としての甘やかさが無いためなのか、王族の私的区画で立ち働く王宮使用人達はちょっと危機意識がなさすぎるのではとマーリカはよく思う。
本来なら婚前の過ぎた接触は避けるよう気を回すはずの彼等であるのに、「お仕事の邪魔になってはいけませんから」と、私室にフリードリヒとマーリカの二人だけを残してどこかへ行ってしまうのだ。
仰る通りに、フリードリヒの私室にマーリカがいるのは完全に仕事のためではあるのだが、仕事が終わって「はいではお疲れ様でした」とならない時だってたまにはあるのだ。
実を言えばいまも、まだ婚前であることを考えればかなり際どい状況である。
もう深夜と言ってもいい時間帯。
つい十五分ほど前に、フリードリヒが本日処理しなければならない書類を回収し終えたばかり。
フリードリヒの寝室の立派なソファに並んで座っていたはずが、いまは半ば彼がマーリカに被さるような形になっている。
「不敬に問いませんか?」
「マーリカ、王子の私に対する普段の塩対応を考えたらいまさらだよ。問わないから言ってみて」
では、とマーリカはこほんと小さく咳払いをして、少しばかり口にするのを恥じらいながらもこの手の疑問は早々にすっきりさせておくべきだろうと、フリードリに思うところを述べることにした。
「慎重を欠くことは出来ない王族とはいえ、やはりこの手の経験は色々とおありのようだと思いまして」
「ん?」
「あ、えっと、けして非難するつもりではありません! ただの感想と言いますか! その、殿下が御年二十六の立派な成年男性ではあることは理解しているつもりです。むしろ五つ年下とはいえ、わたしがあまりに疎くて……」
「待って待って待って、マーリカ!」
「はい」
急に声を上げて両肩を掴んできたフリードリヒに、きょとんとマーリカは黒い瞳で彼を上目に見る。
令嬢としては背が高い彼女は大抵の男性と同じ目線の高さになるけれど、フリードリヒは長身なのでそうなる。
「濡れ衣だっ」
マーリカの両肩を掴んだまま、ものすごく不服そうに言ってがっくり首を落として項垂れた彼に、彼女は呆気にとられた思いでぱちぱちと二度まばたきをした。
「令嬢達の間では『いいお友達でいましょうリスト』の筆頭なのだけど……」
「ですが人気はおありかと。話に聞いてはいましたが、先日夜会に初めて赴き実感しました」
「君以外とは踊ってもいないのに? というより、令嬢達への手紙の代筆をしたことも一度や二度ではないよね? なのにいまさら?」
「その、手慣れていると……思いまして」
成程、そう来るものなのか……難しいねえ……と、マーリカの肩から離した右手は口元に、左手はその肘を支えるようにして、ぶつぶつと口の中でなにか呟いているフリードリヒの様子をただ彼女は眺める。
「残念ながらというべきか、幸いというべきか、マーリカの他にないよ」
「王族男子はその手の教育もしっかりあるとお聞きしてもいます」
「誰から聞いたの、そんなこと。あるけど知識だけで手解きとかもないからっ」
「……それはそれで、実践機会とされているように思えますね」
手順を踏み、反応を見られてもいるように思えていたのはそういうことだったのかと、マーリカが納得したように小さく頷けば、フリードリヒは今度はあからさまに顔を顰めた。
「なにか勝手にあまりうれしくない解釈と納得をしているね?」
「節度のなさが透けて見えますが、一応気遣っていただいているとは思っています」
「正直、節度はどうでもいいけれど。マーリカのことは尊重したいし、徐々に懐柔したいとも思っている」
「懐柔……」
「そ、懐柔策が功しての条約改定はあるものだ」
マーリカは再びまばたきして、フリードリヒをじっと見つめた。
彼もマーリカを見つめているが、節度はどうでもいいと言うのにその眼差しは穏やかで凪いでいる。
冗談なのだろうか、考えがあるのかないのかよくわからない第二王子と言われているだけあって、どれだけマーリカが見つめても彼の精神の奥底はよくわからない。
「殿下?」
「これは……マーリカが悪い」
マーリカが呼びかけるのを待っていたかのように、下唇からすくうように重ねられる。
何度か啄ばまれて、開いてしまった口元の隙間から入り込んできた彼の感触にまだ彼女は慣れない。
びくっとマーリカが肩から身を引くより早くフリードリヒの唇が一度退却し、今度は頬に触れて頬骨を辿るように小刻みに口付けながら上へと昇って、逃げないでと耳打ちされる。
執務室や外出先など、彼のお茶の誘いとともに供されるどんなお菓子より、甘くて背筋が痺れるような声音だ。
ただでさえ耳馴染みのいい声音であるのに、密やかさを含む甘さはマーリカの心臓に悪い。
「み、耳元で囁かず普通にお話しください……っ」
「じゃあ、逃げないで」
逃げる気なんてない、マーリカはただ慣れないだけだ。
けれど、だんだん逃げられなくなってきている……気がする。
王立学園での一件が一段落してから、マーリカの基準でこうした時間がかなり増えたと思う。
「……まだ続くのでしょうか? “甘やかしたい欲”とやらは」
「まあね、当面。一度知ってしまったものはそう簡単に無しにもできないしね」
甘い微笑みを向けてくる彼の顔を見るのも、これ以上こうして構われるのも限界だと、マーリカはフリードリヒの肩口に額をつけて俯いた。逃げてはいないがこれ以上の接触は回避するささやかな抵抗である。
マーリカが思うほど、フリードリヒにとっては抵抗になっていないのだが。
彼の腕が彼女の腰に回り、抱き寄せられた。
いまの季節は夏であり、抵抗もしておいて、それなのに伝わってくる彼の体温が心地良く、とても落ち着くと思ってしまうマーリカは仕事も終わっていることもあって眠くなってくる。
「マーリカ……妙なことに気を留めて尋ねてきたなと思ったけれど、さては君、眠いね?」
「誰のせいだと……」
フリードリヒのおかげでマーリカは度々睡眠不足に陥っている。
もちろん片付かない仕事を片付けさせるためであったり、時々宵っぱりになるフリードリヒのボードゲームの誘いに付き合ってのことで、やましいことや色っぽいことでは一切ない。
「申し訳ありません、どうやら限界なので今日はこちらで……」
彼の側を辞す断りをマーリカがいれれば、軽く背中を押されて頬が彼の胸元にぺたりとひっつく。
殿下……と、非難を含んだ声でマーリカは抵抗したが、すでに強い眠気に支配されつつあってフリードリヒからしてみれば軽くみじろぎした程度だった。
(さすがに寝落ちるのは……まずい……)
寝ぐずりをみせる幼な子のように身を捩るマーリカに、フリードリヒが肩を震わせて苦笑している振動が伝わってくる。
「婚前の節度は守るし、運んであげよう」
第二王子妃候補が官舎暮らしなのはよろしくないと、王宮に用意された部屋はフリードリヒの部屋の廊下を挟んで斜め向かい。まだ結婚前なのに近すぎる。しかし国王がそこがよかろうと決めたとあっては異議を唱えるのは難しい。
侍女五人と衛兵が常時三人までつけられてはなおさらである。
半分夢の中で抵抗したり反論していたマーリカだったが、言葉になっていない反論はやがて寝息にかわった。
しばらくして、フリードリヒはよいしょっと彼女を彼の膝の上に抱え直し、胡乱げに部屋の扉を見る。
「気遣いはありがたいけど……様子をうかがわれていてはね。それにマーリカとの約束を反故にする気もないから」
はあっと、ため息をついて、フリードリヒは彼女の頬を指先で軽くくすぐる。
閉じた扉の向こうで、王宮使用人達が今回も駄目かっ……とひそひそ言い合っているのが見なくてもわかる。
「私はマーリカの全部が欲しいからね」
くすりと笑んで、マーリカがフリードリヒの執着を感じるもはや特級品の呪物だとぼやきつつも髪に結んでくれているリボンの縁に彼はそっと口付けマーリカを抱えて立ち上がった。






