挿話7. それはなにかの萌芽なのかもしれない
「――夏の休暇は王都に戻られるのでしょうか。その際はまたお話ししたいですね、か」
届けられたばかりの手紙を早速読み終えて、ヨハンは貴族女性らしい美しい文字というより、一言一句間違いは許されず読みやすさが要求される公式文書のごとき流麗な筆跡で近況が綴られた便箋を机の上にそっと置いた。
(未来の義姉上……)
はあ、と感無量といった表情で両手を胸に当ててヨハンは、王立学園の生徒会室の天井を仰いだ。
春先に起きた、公国貴族によるオトマルク王族襲撃事件。
襲いかかる男に怯まず、勇猛果敢にヨハンを庇って逃した次兄の婚約者に、彼はすっかり将来の義弟として心酔していた。
次兄が婚約した当初の反発心などどこへやら、いまや彼女の他に思慮深さがことの他要求される第二王子妃が務まる者などいるものかといった考えを、機会あれば表している。
国の将来を担う優秀な人材の育成と確保をその目的としている、王立学園の生徒会長の言で態度であるからそれは徐々に次世代の若者達へと浸透しつつあった。
「よかったですねえ。怪我の痕そんなに酷くなさそうで」
「――っ! ロッテ君!?」
突然、彼の肩口からひょっこり顔を出して話しかけてきた少女に、びくっと驚いてヨハンは声を上げた。
「目立つ傷痕なんて残ったら、ヨハン殿下は罪悪感どころじゃないですもんね。嫁入り前のご令嬢の顔に傷ですもんねえ」
「……何故、人の手紙を背後から読んで勝手なコメントをしているのだ。君は」
「読んでませんよー、失礼な。ヨハン殿下が声に出して読むのを聞いていただけですー。ええっ、まさか無自覚? 王族って機密文書多いのにやばくないですか? 大丈夫ですか?」
うるさい、と。
ヨハンは彼の左隣で執務机に手をついて、脚の形をよくする運動などといって中腰になって屈伸したり、反対に片足ずつ伸ばしたりしているロッテをぎろりと睨んだ。
ロッテ・グレルマン。生徒会会計。
ピンクブロンドの髪色も珍しい、喋らなければ可憐な美少女に見える彼女は、この王国最難関と誉高い王立学園において入学試験から首席独走している平民特待生である。
そして、ヨハンの心を抉る天才である――。
「たとえ傷が残っても名誉の負傷だ。誰に文句を言われるものではない、第四王子である私が許さん!」
「そう思わないとやってられませんよねー。だってヨハン殿下を庇ってマーリカ様は怪我を負ったのですから」
「うぐっ……」
反論できない事実にヨハンは黙って、机に両肘を立てるとその手に額を乗せて嘆息した。
ロッテの言う通り、彼の未来の姉であるマーリカが額の端とはいえ顔に怪我を負ったのは事実である。
貴族令嬢であれば、普通なら貴族社会でまともな扱いなど受けられなくなる大きな疵瑕となりかねない。
しかし、幸いと言っていいのかどうか、ヨハンの未来の義姉上は普通の貴族令嬢ではない。
武官組織を束ねる大兄である王太子と対になる、文官組織の長にしてオトマルクの外交公務の要を担う第二王子に仕える、王家に仕えし臣下の上級官吏。
一般的に王家に忠誠を捧げる、高位貴族の当主もしくはその嫡男に与えられる、その立場を国王より認められた伯爵令嬢。王族公務補佐官のマーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン。
その高い実務能力と聡明さで膨大な公務を担う第二王子を支え、文官組織内部おいては“文官組織の女神”、外交の場においては諸外国の者から“オトマルクの黒い宝石”と称されている、黒髪黒目の麗しき男装の文官令嬢。
あの毅然とした美しさと国に対する貢献を考えれば、髪に隠れる額の小さな疵など問題にもならない。
問題にもならないが、ヨハンの心情としては別である。
次兄の婚約者に怪我を負わせ、危険な目に合わせたのは間違いなく己の未熟さであるのだから。
「本当に……人の心を抉ってくるな、君は」
「誰もヨハン殿下を責めないだろうから、ロッテさんが責めてあげているんです」
柔らかい、容姿相当に可憐な声の言葉。
うっかり感じ入りそうになってしまったヨハンだったが、その直後、ぶんぶんと後ろへ左脚を蹴り上げる運動に勤しみながらの言葉でもあることもあらためて認識し直し、彼は砂を噛んだような表情になる。
「……その運動はいつ終わるのだ」
「あと三セットです!」
「そうか」
ヨハンがどれほど努力しても勝てない学年主席の頭脳も持ち合わせているというのに、本当に残念な美少女だと彼は胸の内でひとりごち、ひっそりと笑った。
残念美少女ではあるが、それぞれの優秀さを発揮する三人の兄と比較し、可もなく不可もな自分への劣等感で自己評価の低いヨハンにとって、彼女の身も蓋もない言動が心を軽くしてくれているのは事実である。
「ヘルミーネが見たら、なんてはしたないって怒るぞ」
「ヘルミーネ様は近頃恋する乙女なので、他人のことなど気にならないと思いますよ」
「恋する乙女……? なんの冗談だそれは」
五大公爵筆頭のメクレンブルク家の次女。
学園を卒業して社交界へ復帰すれば、南の辺境伯家の跡取りとの結婚が決まった姉に代わり、上位貴族令嬢達を統率する立場であり、いまでも学園に通う子弟のあらゆる相談に乗っては、様々な家の弱みを握っているあの公爵令嬢が恋などと。
「ロッテさんもびっくりなんですけどね。結構本気っぽいですよ」
執務机から離れ、茶葉と茶菓子をしまっている棚へと向かいながら、ヨハンは眉を顰めた。
権謀術数のかぎりを尽くすと恐れられているメクレンブルク家の者達は、一方で、これと定めた相手を絶対にモノにすることでも有名である。
なにしろ当主のメクレンブルク公自体、妻を手に入れるために宰相の地位についた男である。
妻は前の法務大臣の一人娘である。自分より地位も名誉も金もある男にしか娘はやらぬと公言して憚らなかった大臣相手に、当時はまだ次期公爵というだけの若者でしかなかった彼は王宮主催の夜会の場で彼に言い放った。
つまり、貴殿より地位も名誉も金もあればよいのだな――と。
その数年後に本当に全部揃えて、再び王宮主催の夜会の場で正々堂々求婚した話は有名である。
「一体、誰があの気位が大時計塔の屋根よりも尖って高い、公爵令嬢を落とした?」
「それが教えてくれなくて。ヨハン殿下でもそんな俗っぽいこと言うんですねー。あ、やっぱり婚約者になる人が取られるって思っちゃう?」
「順当にいけば最有力候補だろうが、私はヘルミーネにそういった感情は持っていない。あの恐ろしい姉ほど腹黒くはないが十分怖いからな」
「ヘルミーネ様のお姉さんってどんな人なんですか……」
「初恋相手の騎士の息子でしかない男を、辺境伯家の跡取りにまで押し上げて婚約するような人だ」
「ふうん」
「ふうんじゃ済まない話だぞ」
ロッテは平民だからわからないのかもしれないが、ほとんど平民同然の使用人を侯爵に匹敵する高位貴族の跡取りにしたのである。どうしたらそんなことが出来るのかヨハンにもよくわからない。
次兄である、第二王子のフリードリヒの婚約者候補でもあったが、そうではなくなってよかったと思う。
付き合える気がしない。
「よくわかりませんけど、それだけ一途で恋の力は偉大ってことでしょう。いいなあ」
「意外だな……君のような者でもそういったことは考えるのか?」
「まあ多少は? お貴族様との結婚も人生一発逆転手段の一つですし?」
以前から即物的な感性の少女であるとは思っていたが、ここまで正直だといっそ清々しい。
平民は貴族と違い、恋愛結婚も多いと聞くがむしろそこらの貴族の娘よりも割り切っているのではないかと思える。
「……聞いた私が間違っていた。兄上がくれたおすすめ銘菓リストの十番目、『猫の寝床亭のレモンシャルロット』を仕入れてみたのだが」
「はーい、はーい! ロッテさん爽やか風味なお茶がいいです!」
「いい加減、君は自分で茶葉を選んではどうだ?」
「ヨハン殿下は間違いないじゃないですかー。フリードリヒ殿下のおすすめお菓子との組み合わせなんて最強! 最の高です!」
「上級官吏の学内推薦考査が近いのに、そのよくわからん言葉遣いは直した方がいいと思うぞ」
「あーあれ、書類落ちです」
「はぁ? 馬鹿なことを、あれほどの成績で」
本当にありえない。ロッテはただ首席独走というだけではない。
生徒会会計で校内活動実績も問題なく、ヨハンや親しい間柄の生徒に対してはこんな調子であるが、平民にとっては学業よりも難しいとされる、礼儀作法や所作についても公爵令嬢ヘルミーネの指導を受けて申し分ない。
身分が影響するのなら、そもそも平民特待生の枠を作ることが無意味である。
書類落ちなどありえない。
「成績の前に、男の子でないとダメっぽいです。だから“一筆、推薦書いてくださいよー旦那ぁ”ってロッテさんは言ったじゃないですかー」
「王族が特定の者を贔屓など出来ない。選考委員の教授連中は馬鹿なのか? そんな理由、兄上なら認めるはずがない」
「フリードリヒ殿下は雲の上、文官組織で一番偉い人ですよ。ぜいぜい最終候補者リストくらいしか目にしませんよ。それすら怪しいです」
学園卒なら高等教育修了相当で公募の登用試験の受験資格はあるから、そっちで頑張るしかないですねと話すロッテに、王立学園の学内選抜でその調子であるのなら公募などもっと難しいと、ヨハンは渋面を隠せなかった。
「そういえば、そもそも君はどうして文官になりたいのだ? 人生逆転がどうのというが、王宮に出仕せずとも君なら学園出の箔があれば、それなりに高給の職にも就けると思うが?」
「んーまあ、ほら平民色々大変ですし……そういうのもうちょっとなんとかっていうのと、それに王宮勤めの文官にでもならないと一生会えなくなるようなお友達もできたので」
「友人……まあたしかにそれは」
王立学園の生徒の大半が貴族、それも高位貴族の子女が多い。
本来なら、平民のロッテは言葉を交わすどころか出会うことすらなかったっだろう。
学園は研鑽の場であるため、身分や階級問わず、生徒は建前ではなく対等とされているが、卒業後はそういったわけにはいかない。
王宮勤めの上級官吏であれば社交界への出入りも許される。交友関係を維持したいのであれば、ロッテにはその選択肢しかない。
貴族に雇われて接点を持つ手もあるが、雇用関係で使役される立場ではやはり交友は難しい。
「一番気掛かりな友達なんて、本当、雲の上の人になっちゃいますから」
「ん?」
「根暗で超悲観的で、ロッテさんのお悩み相談なしでは生きていけなさそうなのに」
「誰が生きていけないだ……」
「ええ、一人だと泣いちゃうのじゃないですかぁ?」
泣くか、とヨハンはむっすりしながら、渋みが少なく涼やかな香気を放つ茶葉の缶を選んで手に取る。
そもそも悩み相談というより、人をからかって遊ぶの間違いだろうとぼやきながらも、彼は生徒会室の棚にずらりと並んだ茶葉の缶に目を留める。
おいしいおいしい、ヨハンが選ぶ茶に間違いはない、今度はどんなのを仕入れてくるのだといった調子のいい言葉に乗せられてつい増やしてしまった。
毎度屈託なく喜ぶから、取り合わせの菓子もよさそうな情報が入れば、なんとなく取り寄せてしまう。
(そうか、卒業すればこういったのはなくなるか)
王族であるヨハンにとって茶会といえば、高位貴族や令嬢達との交流というのは表向き、動向確認や情報交換の場である。親しく信頼できる者であってもここまで気安く寛いだ場にはならない。
ヨハンは第四王子であり、王族である以上、貴族の範となる態度でなければならない。
相手もそうだ、ロッテのように忌憚なく接する者など珍しい。
(学生という子供であるから許されている時間なのだな……けれど)
ロッテが話す通り。
彼女が上級官吏であったなら。文官組織の中で頭角を表し、実績を着実に積んでいったなら。
(私は大兄上の武官組織の補佐に入るが、文官組織との連携は多い。元学友で顔見知りの優秀な官吏を労うために声をかけることは不自然ではないし、迷惑にもならぬだろう。いずれは自分の手駒となる人材も集めねばならぬし)
「ヨハン殿下?」
「私は、君のお悩み相談などなくてもやっていける」
「なに本気でむすっとしてるんですか、冗談ですよ」
脚の形をよくする運動とやらは終えたらしい。
肩をすくめながら、ヨハンを手伝おうと近づいてきた少女に、はあっと小さくヨハンはため息をついた。
(これは王族が特定の者を贔屓するわけではない、あくまで友人に耳寄り情報を伝えるまでのことだ)
「だが、茶会に誘いたい友人が王宮に入る資格がないというのも困るからな」
女性官吏の育成制度が新しく立ち上がる、とヨハンはロッテに言った。
見習い官吏として最短二年、基準に達しているとされれば上級官吏に正式登用される。
まずはその選抜を試験的に、この王立学園で行うことになっている。
新しい制度であり、その発案者はマーリカである。
最も深刻な人手不足を補うことも兼ねているため、配属は第二王子付だ。
(すでに人選募集は始まっているはずだが、彼女の話を聞くに首席であっても話が回ってきていない……こちらはおそらく身分の問題だろうな。くだらない)
「見習い官吏……」
「同時期に登用試験で登用される者と比べ、官吏としては二年は遅れをとることになる。しかし、女性官吏の登用枠としては受かるかどうかわからない登用試験よりは確実だ」
「確実……」
「ちなみに見習いとはいえ配属先だけでいえば一足跳びに王族付き。基準に達したかを見極める最終試験は宰相による口頭試問で生半可なことでは続かないぞ」
「えーそれはなんだか……」
「いやなら別にいい。だがそれでも希望するというのなら……まあ、君の成績や活動実績が申し分ないのは皆が認めるところであるし、信頼のおける教授に申し込みを差し込む程度なら……できないことも……ない……」
こほん、と咳払いをしてヨハンはロッテからそっぽを向いて、茶器に茶葉を量り入れる。
そんな彼に回り込んで、ふーん、とロッテは身を屈めて下からヨハンの顔を覗き込むように見上げた。
「王族が特定の者を贔屓など出来ない、じゃないんですかぁ?」
「あ、あくまで友人の助力の範囲だっ……!」
「仕方がないですねえ。やっぱりロッテさんがいないと心細いんですねーヨハン殿下は」
「違う! 言っておくが兄上のところは、それこそベテラン官吏も震えて泣き出す激務部署と有名だぞっ!」
「――望むところです」
にっ、と閉じた口元を釣り上げて、榛色の瞳が真っ直ぐにヨハンをとらえた。
「マーリカ様も顔負けな文官になって、ロッテさんが暗い部屋の隅で震えるヨハン殿下を支えてあげます」
「……君の中で、私はどういう人間になっているのだ」
えーいつもそんな感じじゃないですかあ、おおっこれが『猫の寝床亭のレモンシャルロット』神々しいっと、騒がしいロッテに、もうどうでも好きにしろとヨハンは呆れながら、作業机へロッテを茶菓子と共に追いやってお茶を入れる。
(彼女のような才知を持つ者が好きにできる環境をつくるのも、一つの役目ではあるか……それに)
自分に仕える者を助けるのは、贔屓ではなく主として当然のこと――作業机の席に座ってヨハンのお茶を待ちながら機嫌良くピンクブロンドの頭を左右に動かしているロッテを眺め、ヨハンは知らず密やかな笑みを浮かべていた。
もしかすると、それはなにかの萌芽なのかもしれない。
その笑みが、執着心の強い次兄が彼の婚約者に知られずに向ける笑みと、兄弟だけにそっくりであることにヨハン自身はまだ気がついてはいなかった。






