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2-14.後始末をしても仕事だけが増えていく(1)

 天空の城とは、山頂付近、春や秋の頃に発生する雲海に古城が浮かぶ様をいう。

 王国三名景と呼ばれる風景の一つだ。

 本来はこの王立学園を遠目に見渡せる別の山から眺める景色らしいけれど、天空の城の側から雲の海を眺めるのも十分絶景だとマーリカは思う。

 虹色に輝く雲がまさに大海原の如く果てなく続いている。


 囚われていた古い倉庫の地下室から救出され、緊張の糸が切れて気を失ったマーリカが目を覚ました場所はフリードリヒの客間であった。

 もう夜も明けた薄明かりの中、ゆったり広い寝台の真ん中に一人寝かされていることに気がついて、彼女は慌てて身を起こした。全身清められて清潔な麻の寝巻きを着て、怪我の手当もされている。

 部屋を見回せば、ソファの上で毛布に包まって眠るフリードリヒの姿を見つけた。

 背もたれにいい加減に引っ掛けた、刺繍を全面に施す室内着のガウンが半ばずり落ちているのが先に目に入って、そのすぐ下に彼は寝転んでいた。

 主をソファに追いやりその寝台を使っていたことと、すやすや安眠しているフリードリヒの様子にマーリカはなんとも形容し難い気分で顔を顰めた。

 朝の光がやけにまぶしく感じて寝台を降り、窓に近づいて外を見てみたら、雲の大海原が広がっていた次第である。


 掃き出し窓からバルコニーに出て、近づいたフェンスの縁に乗せた両腕を枕にマーリカは頭を伏せた。

 すぐ下を見ても雲に阻まれて地面はうっすらとしか見えなかったので、遠目に光る雲をただ眺める。

 頭がぼんやりしていてなにも考えられない。

 一日で色々なことがあり過ぎた。出来事の一つ一つを思い出して振り返るのもなんだか億劫である。

 しばらくの間ぼんやりしていたら、少し肌寒くなってきたけれど意識はうとうとと夢現(ゆめうつつ)で動く気になれない。

 どうしたものかと迷っていたら、肩から毛布と毛布を運んできた人の体温に包まれた。


「危ないし冷えるよ」


 優しげに囁いてきた声に答えたくなくて、マーリカはうとうとした微睡みから覚めることを拒否した。

 下ろした髪に顔を埋めてきた人の吐息が軽く首筋を撫でても、やっぱり彼女は拒否した。

 覚めたくないし、答えたくもない。

 一言でも答えれば、きっと怒涛の勢いで溢れ出す文句とも怒りともつかないものをそのままぶつけてしまう。

 日頃から不敬極まりないことを散々言っているけれど、仕事を進めるためもあってわかっていて言うのとは違う。

 そんなことはしたくない。

 ましてこんな美しい雲の海が広がっているというのに、マーリカは首を振った。


「マーリカ」


 とうとう名前を呼ばれた。

 マーリカは伏せていた顔を上げて、振り返る。

 呼ばれてしまっては答えるしかない。だってマーリカの名前を呼ぶ人は、彼女が仕えるこの国の第二王子である。

 フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。

 マーリカを映す、空色の瞳を見たらもう駄目だった。

 言葉よりも先に、手が出てしまう。

 力の入らない手で何度も、その白く滑らかな頬を叩きながらマーリカはひっ、うっく、と小さく嗚咽を漏らしてしまう。

 全部に怒っている。本当に全部に。

 少し困ったように彼女にされるがままになっている彼は、誰よりもマーリカを理解してくれている人ではあるけれど絶対にわかっていない。


「ごめん、わからない」


 頭ごと両腕に抱き込まれて、マーリカは決壊した。

 幼い少女が泣き出した時のような声を上げた後、ぐすぐすと鼻を鳴らしてしゃくりあげる合間で「殿下が……」とか「この無能っ」とか「絶対締める」とか、およそいままで言ったことがある誹謗の言葉は全部言った気がする。


「コロス……」

「私が色々と駄目となったらね」


 しゃくりあげている間、何度も目元や頬をなぞっては頷く言葉を囁いてくる唇に、こんなに怒っているのにどうして怒っている相手に宥められているのだろう理不尽だとマーリカは思う。


「言えばもっと怒りそうな気がするけれど、とにかく巻き込んだ全員許す気は絶対なかったのだから仕方がない」


 動いて泣いて、少しばかり力が込められるようになってきた拳を握って、清潔な絹のシャツを着た肩を一殴りすれば、痛いと苦情の声が出たがマーリカは無視した。

 頭を抱えられていた腕が解かれて、彼女は少しだけ身を引く。


「マーリカは意外に手が出るよね。私を悪様にいう言葉のバリエーション豊かなのに」

「怒らせることばかりっ……言ったり、やったり……なにもしなかったりっ、話してくれなかったりするから……っ、ですっ」

「そう」

「はい」


 ぐすんっ、と涙声を取り繕うように鼻を鳴らして返事をし、目元を手の指先で拭ってマーリカはフリードリヒを見た。彼は寝巻きには着替えなかったようで、室内着のシャツとトラウザーズに、ソファの上で包まっていた毛布をマントのように被っている。

 そういえば、ソファの背もたれに掛けてあったあのガウン。

 私用の来客応対もできそうな豪華な刺繍の入ったあれを、寝る前までは羽織っていたのだろう。

 おそらくは彼の部屋に休ませていたマーリカに対する一定の配慮で、あんな事件の後に休むのには適さない寛ぎ過ぎない印象の室内着を選んだのだろう。妙なところで細やかに気を遣う。

 きっとマーリカの頭の怪我を見て、彼女が眠っている夜の間、側について様子を見てくれていた。


「……ずっと王子でいたいものだね」


 不意にぽつりと呟かれた言葉が、雲の海に吸い込まれていくようにマーリカには聞こえた。


「その間、ずっと怒られるのだろうけれど」


 苦笑の微笑みに、マーリカは僅かに俯いた。

 あの時、フリードリヒは挑発でもなんでもなく、公国貴族に撃たせようとしていた。

 

「ああいったのは、止してください」

「大した腕じゃないことは最初の威嚇でわかったし、至近距離でもぐらぐら震えていては撃っても当たるものじゃないよ……公国も文句言えないし、バーデン家も王家を非難できなくて面倒がない」

「殿下」

「仮に私に当たってもあの距離なら相手も道連れに出来る。いい加減、アンハルトも来る頃合いだったし、憂いはなにもない。あとは兄上やマーリカが上手くやってくれる……なんて、少しばかり考えたけれど。生憎、私は痛いのと苦しいのは嫌なのだよ」

「嫌?」

「そっ。なのに、拘束されている身でいまにも銃を撃とうとしている相手に飛びかかるなんて、危ないにも程がある」

「もういいです、殿下」

「マーリカは偉いね……あの状況でずっと臣でいた。まったく、弁えすぎて人質として振る舞ってもくれない」

「……当然です」


 フリードリヒの手がマーリカの頬に触れて、はあっ、と彼女は息を吐いた。

 

「なんのために、わたしが好き好んで(・・・・・)側にいるとお思いですか?」

「弁えすぎているけれど、マーリカって結構私のこと好きだよね」

「ですから、何度でも第二王子の仕事に連れ戻します――フリードリヒ殿下」


 これまで溜めに溜めてきたものを全部流れ落としたような気分でマーリカは顔を上げて、少し腫れぼったくなった目でフリードリヒを見た。


「この美しい景色を前に仕事だなんて、どうかしている」

「殿下、人が真面目に……」

「真面目だよ。私にしては珍しく大真面目に、マーリカでないと色々だめだと思っている」


 フリードリヒの親指の先がマーリカの下唇に軽く触れて、彼女を見つめる空色の瞳が細まった。

 マーリカの目元や頬を宥めていた唇がさらに下へとおりて……重なろうとした寸前、華奢な指先が彼を止めた。


「マーリカ……」

「その……外、で……人に見られてはなので」

「いまさら?」


 フリードリヒの言う通りではあるものの、怒り任せに泣いて文句を言っている最中に宥められるのと、恋人や婚約者としてのそれは、同じ距離で接していてもマーリカのなかで少し違うのである。


「室内……なら……」

「いいけどさ、バルコニー(ここ)と違って自制できる気がしない」


 だから、とフリードリヒの顎先を押さえるマーリカの指先を彼は掴んだ。

 頬から、口元の端から、下唇の先を少し食まれる。


「逃す気ないけど、選んでくれるというのなら逃げないで」


 囁かれた言葉と、ただ重ねるだけではなく何度も味わうように唇を啄まれ、深くなっていく口付けにマーリカは目を閉じる。掴まれている手の指をフリードリヒの指に絡めて彼に委ねた。


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