2-13.今度こそ本当にわたしの文官人生終わる気がする
頭が痛い、ずくずくずくずくと後頭部と右のこめかみが疼いている。
けれど、それ以上にこの状況がより頭が痛い――と、椅子に縛り付けられ横倒しになった格好でマーリカは首を曲げて唸った。
「殿下……どうして……」
これが舞台で演じられるお芝居であるならば、なかなかいい場面になるのかもしれない。
悪漢に攫われた令嬢が危機一髪というところで姿を現した王子といった……場所と人物配置と立場だけ見ればそうなる。だが、残念ながら現実は大いに違う。
「二時間待ちの焼菓子があってさ、待っている間にロッテ嬢達とはぐれてしまってね」
薄暗い地下室がしんっと困惑を帯びて静かになり、誰も彼もがフリードリヒを見て呆けたように停止している。
呆気に取られる気持ちはマーリカもわかる。
これが普通の人の反応であるとも思う。
呼び出そうとしていた人が、呼び出す前に自らのこのこやってきただけでも驚きだろう。その上、室内の状況など完全に無視して学園祭の出店を回っていた話を友人知人に聞かせるように話し出したのだから。
(殿下の有り得ない振る舞いに、皆が思考停止している……)
それに彼の見た目がまた、現実感のなさに拍車をかける。
美の女神に愛されたなどと言われているフリードリヒである。
薄暗い地下室の中にいて、彼の周辺だけ何故かほのかな光が当たってでもいるかのようにきらきらして見えるのは、淡い金髪で金糸の刺繍がされた艶やかな絹地のコートを着ているからというわけではないだろう。
マーリカを攫い、フリードリヒを害そうと企んでいた者達は公国貴族で犯罪の素人である。
こんな状況、とっさに反応できるわけがない。
「目当てのものを入手して大時計塔に行ったけど誰もいないしさあ。ロッテ嬢から、今日の夕方は生徒会室に彼女もへルミーネ嬢も集まる予定だと聞いていたから、そっちに誘われたのかなあって立ち寄ってみたけれどやっぱり誰もいないし」
「……殿下」
「マーリカどこにいるのかなあって、他の修繕箇所でまだ報告受けてないところを辿ってもいないしさ。崩れた倉庫かなと来てみたら、なにか引きずったような跡と倉庫の中の石畳の間にマーリカにあげたリボンが挟まっていた」
どうやら、マーリカの捜索に動くだろう人々とフリードリヒは互いにすれ違っていたようだ。
それにここはあの明らかに怪しい崩れ方をしていた倉庫の地下であるらしい。
(何故、崩れた倉庫かなと思ったのかお聞きしたい)
そう考えた理由があるはずだ。
頭痛の煩わしさもあって顔を顰めたマーリカの心の中を読んだように、フリードリヒはその理由を話した。
「砂袋一つ担いでよろけるなんて、明らかに労働に慣れた者の動きじゃない職人が集まっていたからね……私は下町に時折出かけているから彼等との違いはすぐにわかる」
得意げな顔して言うことかと、マーリカは胸の内で毒づく。
そもそもそんな重要事項どうして黙っていたのだと怒りたいが、頭を床に打ちつけた衝撃がまだ残っていて怒る力が出ない。
「それで。マーリカ、どういう状況?」
「……最悪な状況です。殿下が一人でいらして」
マーリカの言葉に、はっと周囲の公国貴族達が我に返ったように身構えた。
反応が遅い、と彼女は思う。
そもそも六人もいて何故この部屋に皆固まっているのだろう、もし自分であればここまで来る前、階段を降りきるところで下りてきた者をまずは仕留めるように人を配置するのにとマーリカは考える。
「なにかまた剣呑なこと考えているね」
「どうして崩れた建物の石の床の隙間にリボンなんて怪しさで……いらっしゃるのかと」
「中のクリームが温かいうちが美味しいやつだから。怪しいから入口に置いてきたけれど」
「配慮の方向を間違えるにも程がありますっ」
あくまで差し入れなのか、とマーリカは横倒しになったまま小さくため息を吐いた。
あらためて室内にいる男達の様子を彼女は確認する。
暢気に話す殿下に却って慄いて動けなくなっていたけれど……だが、もうそろそろそうでもなくなるに違いない。
「殿下、お逃げください」
「――フリードリヒ殿下、ですね?」
何故なら、人は状況に慣れる。
マーリカのすぐ側にいる、大時計塔で彼女に襲いかかった男の問いかけを合図に剣を抜く音がして、室内の男達が各々長さもまちまちな刃物をフリードリヒに向けた。
フリードリヒはなにも頓着せずに部屋の真ん中付近まで進み出ていたから、完全に五人の男達に囲まれた形になる。
「あまりこういうのはおすすめしないよ。手を組む相手もよろしくない。バーデン家がヨハンに接触するなら、私狙いだろうけれど……らしくもない」
軽く肩をすくめてフリードリヒも、彼に切先を向ける男達を見回すように首を動かした。
これでもう穏便な処理はできないと、マーリカは嘆息する。
他国の王子に剣を向けた瞬間、彼等は終わりだ。
たとえこの場を逃れても追われていずれは捕えられ、処刑を待つ身となるだろう。
フリードリヒの言葉で彼がなにかを掴んだ上か、考えるところがあって動いているのは明らかである。
(本当に、こうなることは避けたかったけれど……、っ!)
再び髪を掴まれて、マーリカは彼女の顔を上げさせた首領格の男を横目に睨んだ。
「わたしは人質になりえませんよ」
「婚約者のはずだ」
「だからです」
マーリカはフリードリヒのコートの腰を見た。帯刀はしている。
どれほど扱えるのかはわからないけれど。
「黙れ!」
マーリカを起こすのを手伝った男が一番に動いた。
フリードリヒに向かって踏み込み剣で突こうとしたが、寸前で大きく一歩横に避けた彼に的が外れて、前のめりによろける。そこへフリードリヒの足先がもつれかけた男の足首を軽く引っ掛けて倒す。
「あ、あ……ぐぁぁ……っ、がぁっ……」
床に倒れたにしては大袈裟な苦悶の悲鳴を男が上げたのに、なにが起きたとマーリカは目を凝らす。
男は、フリードリヒの片足に頭を押さえつけられ、床にねじ伏せられていた。
柄を握っていた手を、フリードリヒの両手に包むように掴まれ、床から天井に向けて上に腕を伸ばしている。
その剣の切先は、フリードリヒを背後から狙ったまた別の男の左目に刺さる寸前だった。片目を失う難を逃れたもう一人の男は後ずさる。
床に伏せた男は狂ったように叫びながら激しく身悶えているが、片腕は自由なはずなのに起き上がれずにいる。
(な……に……? これ……)
再び床から苦悶の声が上がる。大の男でも悲鳴を上げるはずである。握っている輪状の柄ごと指を捩じ切るようにフリードリヒが関節が曲がらない方向へと捻り上げているのだから。
地味なやり方だがあれは痛い……それに起きあがろうにも頭を押さえつけられ、もがくしか出来ないでいる様子である。指の痛みに悶え、石の床に擦り付ける顔面はきっと傷だらけになっているだろう。
ふとフリードリヒと目が合って、空色の瞳が細まったのにマーリカは思わず顔を顰めてしまった。
「貸して」
指を捻じ折った男の剣をフリードリヒは取り上げると、踏みつけていた男の頭から足を外した。反射的に男の肩が持ち上がり、浮き上がった男の喉をフリードリヒは蹴り上げると、そのまま後ろへ体を捻り、奪った剣を背後で目を庇い後ずさった男の剣を持つ腕の付け根に突き下ろす。
呻きながら背中から床に倒れ込んだ男を、顔を上向けたままフリードリは鼻先から見下ろし、突き立てている剣を捻った。カシャンと床に手放された剣が転がる音に重なって、上がった叫び声が地下室に響き渡る。
そんな声など聞こえていないような様子で、フリードリヒは見る間に赤黒く染まっていく床に転がった剣を拾い上げ、倒れた男の左右の膝へそうするのが当然とばかりにまるで肉にフォークを突き立てるが如き動作で順番に刺した。
「な、なん、な……」
マーリカの髪を掴んでいる男が意味をなさない声を発し、フリードリヒを囲む残る三人が各々の剣を構えたまま彼を凝視し、戦慄の表情を浮かべて固まっている。
(殿下が執務室や王城から抜け出しても、クリスティアン子爵が暢気そうでいたのは……剣を持たせた方が危ないって!)
あっという間に、己の剣に手をかけることもなく二人である。
平然と顔色一つ変えず、相手を動けなくすることだけに特化した動きで躊躇いもなく。
正当防衛とはいええげつない――と、マーリカは胸の内で呟いた。
「君たち……公国貴族でしょう。バーデン家も大雑把なやり方を取ったものだ」
息を一つ吐いて、フリードリヒはマーリカのいる方向へと足を進める。
止まれ……と、マリーカの耳元で震える低い声がして、椅子の背もたれの後ろでガチャリと重さのある嫌な音がした。
聞こえた音がなにか気がついたマーリカが声を上げるより早く、ダンッ……ダンッ……と狭くも広くない部屋に耳を塞ぐような銃声が響いて、ばらばらと天井を固める漆喰が砕けた粒と粉が降ってくる。
その粉塵と火薬の匂いにマーリカは首を振ってくしゃみをした。
「止まれ」
ごりっと、右耳の上に押しつけられた銃口の熱を感じて、マーリカは顔を顰めた。
本当に今日はマーリカにとって厄日としか言えない日である。
それにマーリカの髪を掴んだまま離さないでいる男はことごとく選択を間違えている。
(この男は、馬鹿だ)
フリードリヒを止めたいのなら、銃はマーリカではなく彼に向けるべきであるというのに。
とはいえ、若干錯乱しかかっている男に銃を押し当てられては、さすがのマーリカも冷静さは保っていられない。いや、いまのいままでだって冷静ではなかった。冷静そうに思えることを考え続けることで、取り乱すのを抑えていただけである。
「殿下、どうしてさっきの間にここを出なかったのですっ!」
男が銃を出したことで、動けずにいた男達の表情から怯えが抜けつつある。
なんて単純なとマーリカは思うが、その単純さがマーリカとフリードリヒの状況のまずさを表してもいた。
「少し考えはしたけれど、天井の穴が私の背中に移るだけだろうから」
「明らかに不審な所に一人で来るからですっ!」
「いま怒ってもしかたないよ。リボンは持ってきてしまったし。アンハルトが差し入れに気がついてくれるといいけれど。さっきの音は聞こえただろうし……、っ」
突然、間合いを詰めてきた一人にまだ持っていた剣を棒の如く振り下ろし、フリードリヒは相手の腕を打ち据えて手放し、空いた両手で殴った腕を掴んで右に薙ぎ払う。
フリードリヒを横から突こうとしていた別の男の左肩から右肩が一直線に切り裂かれ、赤が飛び散る。
(人の腕ごと剣の柄にするって!)
「動くなっ!」
マーリカに銃を押し当てている男が、再び声を荒げた時にはもう。
フリードリヒに掴まれた腕の肘を曲がる方向とは真逆に折り曲げられ、取り落とした十字柄の細身の剣を奪われた男は額を切られて床にうずくまっていて、マーリカの目にはひどく億劫そうな様子でフリードリヒは奪った十字柄の剣を槍のように最後の一人に向かって投げていた。
真っ直ぐな刀身が、正確に右肩の腱を切って残っていた一人の肩を貫く。
(たしかにこれは剣技じゃない……)
けれど、相手を鎮圧することにかけては正しい。
あらかじめ決められていた一連の流れのように、男達が呻き、倒れていった。
フリードリヒが彼の剣を抜こうとしないのは、彼が倒した者達と同じ隙を作らないためなのか。しかし、心配しなくても誰も彼のような攻撃も防御もしないとマーリカは思う。
マーリカに銃を突きつけていた男は脅しすら忘れ、フリードリヒ以外に立っている者がいなくなった部屋に茫然としている。
「アンハルトが遅い……」
ぼそりと呟いたフリードリヒに、なに癇癪を起こしかけて……と思いながら、マーリカは体を震わせていた。
震えが止まらない。
限界だった。
目に映っている情景は凄惨過ぎて、その上まだ銃はマーリカの頭に押し当てられている。
マーリカか、フリードリヒか、最終的にどちらに向けられるかはわからない。
だが、マーリカのところにフリードリヒが辿り着くより、弾丸の方が速いのは明らかである。
後処理で文官人生が今度こそ終わりそうだと暗澹とした気持ちでいたマーリカだったが、その前に人生が終わってしまうかもしれない。
「殿下、戻れるかと……」
緊張に掠れた声でマーリカは呟く。
正直、非力な令嬢らしく気を失えるものなら失ってしまいたい。
だがそうなれば、銃は間違いなくフリードリヒへと向けられることになる。
彼の臣下としても、婚約者としても気を失うなんてことはマーリカには出来ない。
「さっきと大して変わらない。それに生存率が高いの、こちらでは?」
真っ直ぐにマーリカに近づいて来るフリードリヒに、たしかにそうだと彼女は目を細める。
マーリカを人質として脅している間、フリードリヒは安全である。
「止まれ!」
マーリカの髪を掴み直し、銃を押し当て直しながら男が叫ぶが、フリードリヒは小さく肩をすくめただけだった。
いつも肌が滑らかで羨ましいとマーリカが思っている彼の白い頬を返り血の赤が点々と濡らし、なまじ美貌であるだけに言い知れぬ凄みのようなものがあった。
あっという間に数人の男達を倒しておきながら、その表情は静かで猛々しい様子もないのがかえって人を畏怖させる。
「いいのかっ!」
「投降してください」
手を震わせている男に、マーリカは繰り返す。
「人質にはなりえないと言ったはずです」
「うるさいっ!」
男が撃鉄を起こし、思わずマーリカは首をすくめるがしかし、フリードリヒに銃を向けさせるわけにはいけない。
マーリカが先の場合は、次を撃つ間でフリードリヒは背後を気にせず逃げられる可能性がある。
けれど彼が先に撃たれれば、取り返しがつかない。
その後に残されるマーリカもまず助からない。
すらりとフリードリヒの剣が鞘から抜かれ、その先が男の鼻先より少し上を捉える。
ガチっと男の手元で音がして、マーリカのこめかみの圧迫がふと軽くなった。
「止まれと言っているっ!!」
「殿下っ!」
マーリカの髪から手を離し、両手でフリードリヒに銃を向けた男に彼女は声を上げた。
椅子を背負う形で前屈みに床に膝をつき、ぶるぶると震える男の腕を見てマーリカは首を横に振る。
どうすればいいのかと焦る彼女の耳に、信じられない言葉が聞こえた。
「撃つなら撃てばいいのに」
「殿、下……?」
「結構、倒してしまったからねえ……これはちょっとよろしくない」
フリードリヒの言葉の意味を捉え損ねて、マーリカは眉根を寄せた。
なにを言っているのだろう、この人は。
「なにしろ君たちとバーデン公との繋がりは、ヨハンの証言にほぼ限られるだろうし。名を騙られたと主張されるとねえ……バーデン公がそこまで私を廃したいというのならそれも民意というものだ」
まあどのみち君は処されると、フリードリヒは僅かに笑みを滲ませた声音で男に語りかけた。
「撃たれてもすぐ死ぬわけじゃない。ここで私に斬られるか、拘束されて処されるかなら……君がすべきは自明では?」
本当に、なにを言っているのだろう……この人は。
殿下と、震える声でマーリカは呼びかける。
しかしまるでその声が届いていないように、フリードリヒは男に切先を突きつけて彼を促すように見下ろしている。
「君もマーリカと同じなのだろう?」
塔の中で襲われた時よりも、目を覚まして囚われていると認識した時よりも、銃を押し当てられた時よりも、マーリカは狼狽していた。
止めなければならない。
そんな言葉だけが頭に浮かぶ。
フリードリヒを、止めなければならない――。
「間もなくアンハルトも来るだろうけど、引き金にかけた指を曲げるくらいの時間はある」
マーリカは、彼女のすぐ側で屈んで銃を構える男を見た。
魔にでも魅入られたような表情でフリードリヒを凝視し慄いている男と、マーリカの背丈はほぼ同じ。
令嬢としては高すぎる背丈を気にしていたけれど、今日ばかりはそれでよかったと彼女は思った。
はあっと、息を吐いて腹の底に力を込める。
肩を大きく揺らして反動をつけ、縛りつけられた椅子の角で男の頭部を狙って、マーリカは男を押し潰すように彼に向かって倒れ込む。
ダン――ッ!
銃声が地下室に響いて、しんと静まりかえる。
「殿下……殿下っ!」
いつの間にか閉じていた目を開けてマーリカは叫び、床に伏せの姿勢をとっているフリードリヒの頭がもぞっと動いたのを見て安堵の息を吐きだした。
マーリカに倒れ込まれ床に頭を打ちつけたらしい、椅子に括り付けられた彼女の下で男は伸びている。
すべてが終わったところで、バタバタと慌ただしい複数の足音がこちらへ向かってくるのが聞こえて、マーリカはぐったりと脱力した。まだかろうじて薄目を開けてはいる視界に、血濡れた手袋が床に投げ捨てられたのが見えた。
「……危ない」
乗っかっている男の体から床へ、顔から落下しそうになってマーリカは、滑らかな濃紺色の絹のコートに受け止められる。
ぷつっ、と縄が切られた音がして、痺れかけていた手の手首の圧迫が緩んだと同時にマーリカの視界がぐらりと傾いだ。ちらりと映った赤髪の近衛騎士に「あとは任せる」と命じる声が聞こえ、横抱きに体を抱えられた感覚にマーリカは緊張の糸が切れて、散々だと呟きながら意識を失った。






