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2-12.最悪な状況になっている(1)

 どうしてこんなことになった――。

 夕方の閉門を知らせる鐘が鳴り響く中、無我夢中で走りながらヨハンは呟いた。

 バーデン家の使者が兄フリードリヒの婚約者への疑念を彼に吹きこもうとしたのは、フリードリヒに対しなにか企んでいたからだろう。

 あの家は王家の厄介な外戚で、フリードリヒとも三年前に確執と言えるものがあるからヨハンも半信半疑であった。

 「外戚の公爵家でも裁こうとする若い王子の気概に当主も心動かされた」などと言っていたが、そんな調子のいい言葉をまさか鵜呑みにするほどヨハンも愚かではない。

 だが一方で、兄の婚約者に対する不信感もあった。

 婚約の話を聞く以前から、敬愛する兄が突然抜擢した秘書官を調べないヨハンではない。

 エスター=テッヘン家は王宮と疎遠で資力も取るに足らない地方のただ古くから続くだけの伯爵家。

 何故こんな家の娘が突然、兄の目に留まって筆頭秘書官になったのかわからない。

 おまけに婚約者になるにあたっては、宰相に騎士団総長、大臣達がこぞって推挙し、高位令嬢達もそれを認めている。いくら秘書官として献身的にフリードリヒの公務を支えていたからといっても、秘書官一人の働きなどたかがしれている。

 ヨハンには、どう考えても異常としか思えなかった。

 おまけにその家系、大陸の主だった国に広がる縁者とその所領を地図と重ねてみれば、これは飛び地の大国だと愕然とした。

 それぞれの家はただの一諸侯に過ぎず、なかには爵位を失ったものもいるがだからこそ不気味であった。

 これだけの広がりがあるのにすべての家が権力の中枢と距離を置いている。

 一族が掲げる家訓だという言葉に辿りついた時、ヨハンは背筋に嫌な震えが走ったのをよく覚えている。


 ――諍いなど他家に任せ、一族和合と相互扶助の下、我らは栄える。


 なんなのだろう、このエスター=テッヘンという一族は。

 取るにたらない本家の伯爵家も、どんな戦乱や混乱の世も乗り越えて細々と生き延びている家だと考えるとなんとも不気味に感じられる。

 ヨハンがマーリカに言った、バーデン家の使者から聞いた話が信じられるだけの材料もあったのである。

 もっともそんな家であれば、姉二人の結婚くらいで傾かないなどといった、そのような家の恥のようなことを話していいのかといったマーリカの説明で否定されたわけだが。


「たしかに……私が考えたような家であればそれは有り得んな……」


 それに彼女は身を挺してヨハンを逃した。まさに王家に仕えし臣下であることを体現したわけである。

 ヨハンと三つしか違わない女性であるというのに。

 あの判断力と胆力でフリードリヒを支えているのだとしたら、どんな理由を重ねても彼女を否定できない。

 あのような貴族令嬢は、フリードリヒの側近は他にいない。


「私が……兄上が選んだのだというヘルミーネの話を信じていれば……」


 どうせ王宮や社交界の適当に美化された話に違いないと思っていた。そんな噂でも広げなければ第二王子の婚約者など到底なれないような弱小伯爵家の娘なのだから。

 認めるほかなく、失うわけにはいかない。

 本校舎を抜け正門に行けば衛兵がいるはずだ。教員寮にはフリードリヒに随行する近衛騎士もいるはずだが距離がある。


「あれ? ヨハン殿下―! そんな血相変えてどうしたんですか?」


 中庭を抜けようとした時、前方から聞こえたあまりに暢気そうな少女の声にヨハンははっとした。日が暮れかけているなかでも、その珍しい髪色は目立つ。


「ロッテ君っ!」


 ヨハンは走る速度を上げて、深緑色の学園の制服を着た小柄な少女へ近づく。彼女のそばには兄のフリードリヒとその護衛騎士もいるはずである。

 息が切れて倒れそうに苦しかったが、ロッテのところに辿り着けば、思った通りに近衛騎士の制服を着た者がいた。


「ちょっ、どうしたんですか⁉︎ 本当に!」

「あ……あ、にッ……あにう、っ……えっ、はッ……」


 地面に膝と手をついて倒れ込み、四つ這いの格好で肩で息をするヨハンに狼狽するロッテに、途切れ途切れにフリードリヒの所在を尋ね、ヨハンは咳き込んで、地面に頬の奥から垂れてきた唾液を吐くように溢す。


「どうされました」


 王子にあるまじき醜態を晒すヨハンに即座になにか起きたと察したのだろう。ロッテの側にいた赤髪の近衛騎士が抱え起こしてくれたのに、ヨハンは取り縋ってぱくぱくと口を動かす。


「っ、時計……」

「時計?」

「……っぐ、だぃ……大時計塔だっ。エスタッ、テッへン……補佐官がッ――」


 げほげほっとヨハンは再び咳き込んだ。

 襲われかけた動揺と酸欠でくらくらするが、ヨハンを逃してくれた人はもっと酷い状態のはずである。

 頭から流れる血で顔半分を染め朦朧としながら、信じられない力でヨハンを突き飛ばして逃げろと叫んだマーリカの姿を思い出し、ヨハンは奥歯を食い締め顔を上げた。


「エスター=テッへン公務補佐官が襲われた! 大時計塔の機械室で私を庇って!」

「なっ……!」

「――マーリカが?」


 背後からの聞き覚えのあまりない声にヨハンは振り返った。

 夕闇深まるなかで長い銀色の髪が光っているように見える。

 公国の特使である長身の男が見下ろしていたのにヨハンは頷いた。


「クリスティアン子爵」


 固く鋭い声と、彼が連れていたらしい護衛騎士に指示する声が聞こえて、赤髪の騎士の腕から華奢な四本の腕にヨハンは体を支え直される。


「ヨハン殿下、お怪我は?」

「私はない」

「とにかく、生徒会室へ行きましょうっ」


 ヘルミーネとロッテに寄りかかり、ヨハンは立ち上がる。

 学生三人を任せられたらしい護衛騎士がこちらへと誘導するのに従って、ヨハンは足を動かした。


*****


 大時計塔から生徒会室にやってきた赤髪の近衛騎士アンハルトと、公国の特使クラウスによると、大時計塔には誰もいなかったという。


「床にわずかな血痕と、引きずったような跡は残されていましたが」

「あの塔の上から引きずってまで運んだとしたら、なにか目的があるのだろう。ただ殺す気なら運ぶ必要はない」


 作業用の大机の椅子に落ち着き、ヘルミーネが入れたお茶を飲んで、ひとまず平常心を取り戻していたヨハンは二人の報告を聞いて、安堵とも焦燥ともつかない深いため息を吐いた。

 マーリカが生きているらしいのはよかったが、悪い状況であることには変わりない。

 兄フリードリヒの姿もないらしい。

 一緒にいたはずのロッテの話では、ほんの一瞬彼から余所へと視線を移した間でもういなくなっていたということだった。

 護衛騎士のアンハルトによると、フリードリヒの逃亡癖は幼い頃からの筋金入りで、要人警護の訓練を受けた護衛騎士であっても簡単に巻かれてしまうとのことだった。

 マーリカによる説明といい、まったく知らなかった兄のとんでもなく迷惑な一面にヨハンは再びため息を吐く。

 たしかに、現場の官吏から“無能”などと言われてしまうのも無理はない。


「こんな時に兄上は一体どこへ……」

「ヨハン殿下、それについては申し上げにくいが経験上ものすごく嫌な予感しかしない」

「ん?」


 大時計塔にマーリカがいなかったと報告した時以上の渋面を見せたアンハルトの言葉に、ヨハンは眉間に皺寄せた。


「そうだな……あのよくわからない洞察力と行動力のある第二王子ならたしかに」


 アンハルトの言葉を聞いて黙考していたクラウスの同意するような呟きに、ヨハンの側に並んで座っていたヘルミーネとロッテが首を傾げる。


「なんですの」

「嫌な予感って?」


 少女二人の疑問には答えず、クラウスはヨハンへと目をやると、次にアンハルトの顔を見た。


「初日から、誰よりも早く気がついていた」

「変なところであの方は目敏い」

「気がつく? 何の話だ、フェルデン卿?」

「落雷で崩れたらしき倉庫、正確には修理をしていた職人。あの者達はおそらく労働階級の者ではない。手や体つきがそういった者達とは異なる違和感に、私も検分で何度か通りかかるうちに気がついた」

「知っていて、黙っていたのか!」

「手配したのはヨハン殿下では? 明らかに怪しい者達を手配した相手に尋ねるとでも?」


 どこの者かもわからず怪しい動きをしないうちは泳がせていたと、平然と話すクラウスにぐっとヨハンは言葉を詰まらせた。

 クラウスの側からすればそうするのが妥当だろう。ヨハンでもそうする。


「たしかに、だが手配したのは……違う」

「そういえば、ヨハン殿下は近隣領地の伝手だと仰っていましたね」


 アンハルトがヨハンに尋ねるのに彼は頷いた。

 特に慌てた様子も見せないからどうやら彼も、クラウス同様に察してはいたらしい。

 これが経験の差なのだろうか……ヨハンはいまのいままでまったく気にも留めていなかった。


「あいつだ……エスター=テッヘン公務補佐官と私に襲いかかったバーデン家の使者」

「バーデン家……?」

「学園祭の時期にあのような建物を放置していては危ないがこの時期職人を急に手配できない。こんな陸の孤島ではなおさらだと話したら公爵家の伝手があると」

「そう言えば聞いていなかった、マーリカを襲った男は王国の貴族なのか?」


 ヨハンがアンハルトに話す言葉を聞いて、今度はクラウスが尋ねる。

 再びヨハンは頷いて、おそらくはとクラウスに答える。


「公爵家から多額の寄付金を学園に届けにきた使者だと言い、私のところに王宮から届いた文書についても知っていたから彼の家に仕える貴族ではあると思うが……だが確たる証拠は」

「……どういうことだ?」


 考え込む様子を見せたクラウスに、アンハルトが目を細める。


「フェルデン卿は、エスター=テッヘン殿を襲った者に心当たりがあるようだな」

「いや……」

「悪いがそのようなやり取りをしている時間はない。心当たりや知っていることがあるなら直ぐにでも話すことをおすすめする。嫌な予感だと言ったはずだ」

「何の話だ?」

「貴殿も言っただろう、初日から気づいていたようだと。ただでさえ凶悪なまでの引きと運の強さであるのに、わかって動いているなら絶対最悪な状況になるに決まっている……」


 頭を抱えだしたアンハルトに、その場にいる全員の怪訝そうな眼差しは彼に集まる。

 最も不可解をその表情に浮かべてクラウスが他国の王族の心配をする義理はないと言えば、まったくわかっていないなとアンハルトは唸った。


「どういう意味だ? エスター=テッヘン公務補佐官は!? それに兄上もっ」


 まさか、その者たちにもう……と、呟いたヨハンにそれはないとアンハルトは顔を上げた。


「エスター=テッヘン殿はおそらく人質でしょう。経緯から考えて最初はヨハン殿下の予定でいた。護衛が常に付き人目も引く視察の同行者より、学園の生徒として自由な行動がとれるヨハン殿下の方が狙いやすいですから」

「私が……まさか兄上が視察に来るのを狙って?」

「もしバーデン家が噛んでいるなら殿下の詳細な予定は知り得る情報です。用意はそれなりに周到ですから、動けなくする以上の危害を加える可能性は低いでしょう。しかし、これ程あからさまなことをするのは少々疑問です」


 色々と不可解な点もあり頭が痛い……と、額を押さえるアンハルトにヨハンは正直腹が立った。

 武官として冷静さを保ち動じないにしても、いささかのんびりとしすぎるのではないかと。

 そのような苛立ちが伝わったのだろうか、アンハルトがヨハンを再び見た。

 

「恐れながら、フリードリヒ殿下の心配なら無用です。剣など基本の型すら怪しい上にご幼少の頃から鍛錬と名のつくものは怠けに怠けておりますが。怠けたいがために相手を瞬時に行動不能にする特殊な戦闘術をお持ちです」

「え?」

「私が最悪だと申しましたのは相手の側です。経験上、余程の手練れを揃えても仕留める(・・・・)のは難しい方だというのに……ヨハン殿下の話を聞くにどう考えても素人」


(仕留めるのは難しいとは……貴殿は兄上の護衛ではないのか……)


 いくら侯爵家嫡男でフリードリヒ付の近衛騎士班長であるといっても、その言葉は不敬どころではないとヨハンは思ったが、いままで知らずにいた完璧だと思っていた兄のまったく完璧ではない情報が多すぎて処理が追いつかない。


「公国にとって不都合がなければよいが……」


 ちらりとアンハルトがクラウスへと目を向ける。

 まるで、武官組織を管轄する王太子である大兄上直属の精鋭のような、妙な迫力のある目をする。

 父親は騎士団総長を務めているとはいえ、この男は護衛の近衛騎士班長なはずなのにと、そんなことをヨハンは思った。

 

「詳しくは話せないが……クリスティアン子爵」


 んっと、クラウスが軽い咳払いをし、マーリカにはかえられないと話す。

 公国より親類を優先させるような言葉にヨハンは驚いたが、なにか話してくれるのなら余計なことは言わない方がいいだろうと口を挟むのは控えた。


「人事交流制度と合わせて、私は公国外へ逃亡した不穏分子の調査の命も受け特使としてきている。クリスティアン子爵、もし貴殿のいう最悪な状況の線が濃厚であるのなら捕縛……もしくは保護を要請したい」

「あいにく私にその権限はない。ただの近衛騎士班長だ。この場でその権限を暫定的にでも持つとすれば……」


 ヨハンへ視線を戻したアンハルトが、生徒会室の床に跪いた。


「ヨハン殿下。事態収束のための行動許可を」


 ――重い、そうヨハンは思った。

 こんな国家間の関係を左右しかねない判断を迫られることになるなんて、マーリカと話していた朝には想像もしていなかった。

 いま思えば公国との人事交流制度のきっかけとなった条約締結も、王宮からの知らせにそんな話が突然出てきたと思ったら翌月にはもう締結の目処が立っていた。

 あれもこのような突発的な出来事だったに違いない。


「……許す」

「ありがとうございます。後は我々と――エスター=テッヘン殿にお任せください」

「彼女は人質で救出される側だろう。なにを言っている」

「エスター=テッヘン殿ほど、フリードリヒ殿下の方向修正と事後処理に長ける官吏はおりません」

「兄上は一体これまでなにをしてきたのだ……」


 第二王子を支えるなど官吏であれば誰でも出来ると言ったが撤回する。

 兄フリードリヒの側近が実質大臣であるのも納得である。

 これまで耳にしてきたフリードリヒの功績の影に、こんな事態が頻繁に隠れているというのなら、護衛騎士はもちろんとてもじゃないが並の官吏の能力や覚悟では務まらない。


「私は、卒業したら予定通りに大兄上の下につく……」


 そうヨハンは体の底からの疲労感を覚えながら、力無く呟いた。

 

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