2-11.大詰めを迎えるには早すぎる
マーリカが外に出れば、昼の光は黄昏時の光になりつつあった。
まだ暗くなるには間はあるものの明かりを持っていないから、それほどゆっくりともしていられない。
早足で大時計塔へ戻り、通った場所を辿ってリボンを探す。
一階から二階へ登ったところで、吹き抜けの上部、振り子や時計の重りが吊り下がる隙間からちらりと見慣れた淡い金色が見えた気がして、マーリカはさらに上階を見上げた。
(もしかして、フリードリヒ殿下……?)
フェルミーネは、彼女やヨハンの予定をロッテから聞いてフリードリヒは生徒会室へ向かうだろうと言っていたが、やはり大時計塔に来たのだろうか。
マーリカが下の階にいるのに気がついていないのかもしれないと、彼女は塔の螺旋階段を上の階へと昇る、時計機械室のある階まで来て、薄く開いた扉の隙間から見えたフリードリヒに呼びかけようとして慌てて口を閉じた。
淡い金色は見慣れた短く波打つ髪ではなく、それより長くまっ直ぐだった。
(何故、ヨハン殿下がこちらに!?)
小声で話す、彼の他に中年男性の声まで聞こえてきてはますます声などかけられない。
なにか密談めいた気配である。
マーリカは戻ろうと判断し、踵を返しかけて、薄く開いた扉の影に彼女の探し物を見つけた。
(あった!)
しかし、薄くとはいえ開いている扉の外側である。
前を通れば気づかれてしまうかもしれない。
(……ん? 気づかれても別に問題ないか)
別にヨハンの後を追ってきたわけでもない、彼と話す誰かを詮索する気もなければ立ち聞きするつもりも毛頭ない。
マーリカはただ落としたリボンを探しに来ただけなのだから。
とはいえなんとなく忍び足でマーリカは時計機械室の扉へと近づき、床の音を立てないようにそっと屈んで扉の影へと腕を伸ばしリボンを拾い上げると、素早く伸ばした腕を引っ込めた。
そして扉の隙間から見えた、ヨハンと向かい合う黒っぽい地味な服にくすんだオリーブ色のマントを羽織った人物の顔にあれと思う。
(どこかで、見た覚えが……)
おまけに低くざらりとした声が「エスター=テッヘン家……」とヨハンに話す声が聞こえて、マーリカは身を屈めたまま動けなくなった。
(え、なに……?)
続けて、「どうにも腑に落ちない」とぼやくようなヨハンの声が聞こえ、マーリカはリボンを拾った手を胸元に引き寄せて上着の内ポケットへ収めると屈んでいた場所、開いた隙間すぐ横の壁に屈めた身を潜める。
立ち聞きするつもりはないけれど、下手に動いてここにいると気づかれてはまずいことになりそうな気がする。
扉の隙間からカチカチと規則的な時計機械の歯車の音に紛れて、中にいる二人の会話が聞こえてくる。
「貴殿等の話では……彼女が人を雇い事故を自作自演したということだったが」
「ええ、お疑いなら逃げた一味の者の一人を捕らえてあります。引き合わせることもできますが?」
「はっ、私を見くびってもらっては困る。その者が貴殿等の用意した者でないと一体どうしてわかる」
「それはヨハン殿下がご自身の目で確かめていただくとしか……」
「怪しいものだな……」
「お疑いと?」
「悪いがバーデン家だからな。若輩の私に殊勝なふりを見せ謀ろうとしてもおかしくはないと考える程度の頭はある」
「まったくもって、オトマルク王家は聡明な王子ばかりで安泰ですな」
「世辞は結構。彼女は私が何を言っているのかわからないといった様子だった。王宮と疎遠な伯爵家の三女など兄上の婚約者として認める気はないが、だからといってその必要もないのに陥れる気もない」
「実に高潔だ。さすがは王家の外戚の公爵すら裁く、フリードリヒ殿下の弟君だけはある」
壁際に身を潜め、聞こえてくる会話にこれは一体どういうこととマーリカはにわかに混乱する。
誰かがヨハンに嘘の疑惑を吹き込み、マーリカを陥れようとしている。
それにやはりヨハンと話している人物に見覚えがある。
(誰……少なくとも文官組織の人ではない)
マーリカが仕事で関わる人々は、直接言葉は交わすことなくただその場にいただけの人も含めれば大変な数になる。
けれど文官組織の官吏の顔なら全員とまではさすがに言わないが大抵はわかる。まして王族であるヨハンと接触できて、あの事故の話を出来るような立場であるなら絶対にわかる。
マーリカが休暇を取って帰省し、実家から王宮へ戻る途中の林道で乗っていた馬車の車輪が外れてそのまま暴走し、湖に突っ込む形で転倒した事故は、故意に引き起こされたものだった。
強硬派で鉄道利権の条約が不都合だった、メルメーレ公国の第一公子一派の貴族の逆恨みで。
途中の駅で馬を替える際に馬車に細工され、人に見つかりにくい林道を走るために御者もすり替えられていた。
公国は当時後継者争いの最中で、この件がきっかけで穏健派の第二公子が後継者に決まり、事故を指示したわけではなかったらしいが第一公子は離宮に軟禁同然と聞いている。
そのような背景事情と主犯がメルメーレ公国の貴族であったため、国家間の関係を考慮して王太子のヴィルヘルムの指揮する諜報部隊によって公には情報は隠蔽され処理されたはずである。
(知っているとしたら間違いなく高官職以上。副官や補佐官を含めても顔がわからない人なんていない)
だとしたらどこで見た誰なのだろう、とマーリカが記憶を辿ろうとした時、細く開いていた扉の蝶番が軋む音を立て、はっと息を呑んで彼女はその場を離れようとしたが遅かった。
「そこでなにをしている!」
ヨハンの声でこの言葉を聞いたのは、今日二度目である。
「エスター=テッヘン公務補佐官……?」
名前まで呼ばれてしまってはどうしようもない。
マーリカは、はいと答えて立ち上がった。
「……何故ここにいるのかは知らないが丁度いい、入れ」
ヨハンに命じられ、マーリカは時計機械室に入る。
カチカチと規則的な音が鳴っている中で、ヨハンと彼と向き合う人物へと目を向けたがやはり誰か思い当たらない。
「大時計塔の検分途中に落し物をし、探しに戻っただけです。今朝はヨハン殿下の仰っていることがよくわかりませんでしたが、そちらの方からわたしについてお聞きしたことを言っていたのですね」
努めて冷静にマーリカが言えば、そうだとヨハンは答えた。
「だとしたら、その方のお話は事実無根です」
「私は、どちらの側もその言い分も怪しいと思っている」
「では、申し上げますけれど……」
マーリカは軽く息を吸って、ヨハンの顔を真っ直ぐに見た。
「な、なんだ」
「誰がっ、あの“無能”の気を引くために! 死にかける真似などするものですか!」
「なっ……!?」
本当にまったく冗談ではない。
何の陰謀か知らないけれど、人を陥れるというのならもっとましな話をしてほしいし、王族ならそんな話で簡単に惑わされないでほしい。
「人が四十七連勤後にやっと取れた長期休暇で帰省しようというのに、どう調べ上げたのか領主の娘であるわたしも知らないご当地土産を所望するような方ですよ」
「……其方、なにを言っている?」
「ヨハン殿下が仰っていることが、いかに有り得ないことかをご説明しようと」
冷め切った半眼をヨハンに向けて、マーリカが抑揚の消えた調子でやや早口に言えば、気圧されたようにヨハンは半歩後ずさった。
冷めた表情と令嬢にしてはやや低く落ちついた声音で話すマーリカが他者の目からどう見えるかを一言で表せば、非常に怖い。元々男装の麗人と誰もが認める黒髪黒目の美人で、凍りつくような冷ややかな迫力がある。
そんな彼女に叱られて嬉しがるのはフリードリヒくらいであり、彼と違ってヨハンはごくごく常識的な感性の持ち主である。
「おまけにわたしの家族への気遣いを装い、勿忘草の刺繍をしたハンカチまで事前に用意して“忘れるな”、と。上官が休暇中まで精神的束縛をするのは明らかに強制事案です。しかも一見気遣いな証拠にならないところが本当に狡いというか抜け目がないというか……っ」
「そ、それは……其方が兄上をあまりに曲解しているのではないだろうか?」
あまりにそれは気の毒な……とヨハンが呟いたのに、そうでしょうかとマーリカは口元に軽く握った手を添えて少し考えるように彼から視線を外す。
「ご当地土産の日持ちと王都に戻る日数を計算し頼んでくるような方ですよ。大体、才覚の無駄遣いが多過ぎるのです」
「う、うむ」
「ドレスを贈られたのですが……」
「兄上も……そういうものを贈ろうと考えるのだな」
「周囲の物の大きさとの比率で、わたしの寸法を目算で割り出して。仮縫い段階でほとんど直す必要ないほど精緻になんてもはや破廉恥事案。第一、そんな計算能力があるのなら、財務書類の確認なんてすぐです! それをぐずぐずぐずぐずと七日も渋ってっ」
「怒りどころはそこなのか、噂に違わぬ仕事熱心さではある……」
ああ、思い出したら腹が立ってきたと、マーリカは胸の内でひとりごちる。
七日の間にどれだけ財務局から嫌味を言われたか。嫌味だけならマーリカの仕事の内であるから構わないが、部下の、秘書官詰所の、設備費を削ると言われては話は別である。
最終的に第二王子執務室予算を増やし補ったけれど。
「ヨハン殿下、これでもわたしがフリードリヒ殿下の気を引くために事故を自作自演すると思われますか?」
「説明というよりは業務上の愚痴だが、むしろ説得力はある……」
「まだお疑いでしたらわたしの家についてお調べください。ヨハン殿下の仰る通りの影響力を持つ家なら、姉二人の結婚支度金で危うく傾きかけたりなどしません。親類を通じて家財を放出してなんとか。余ったお金も治水事業に全額回しています」
帳簿も金銭のやり取りを示す証書もすべて提出できる。治水事業で依頼した職人も人足達への支払いもすべて記録されているはずだ。
田舎はすぐ誰それさんの口利きや調子の良い口約束で後から揉め事になりやすいため、エスター=テッヘン家はその手の記録だけは完璧なのである。
「もっと取り澄ました説明なら違っていただろうが……わかった」
ご理解いただけたようだと、マーリカはほっと息を吐き出した。
まさか誰かに陥れかけていたとは知らなかったから、朝、ヨハンに詰め寄られた際はわけもわからず狼狽えてしまったけれど、誰かの悪意によってのことなら放置しておくわけにはいかない。
それは間違いなく彼女を王子妃にとした、フリードリヒをも傷つけようとする悪意でもある。
「ところで、ヨハン殿下」
マーリカは、ヨハンに説明している間にじりじりと二人から距離を取り、時計の針を動かす軸を回す歯車のすぐ前に立っている黒っぽい服をきた男を顧みた。
やはり見覚えがある。
「わたしが事故を自作自演し、エスター=テッヘン家がまるで大陸の影の支配者でもあるかのような疑念を殿下に植え付けようとした、こちらの方はどなたでしょうか?」
尋ねて、マーリカは自分が口にした言葉に引っ掛かりを覚えた。
(事故……?)
マーリカの視線から顔をそむける男の顔を、じっと彼女は見つめる。
(そうだ、事故だ……馬を替えた時の……見なりがあまりに違うからわからなかった)
「その男は、バーデン家の者で……」
「貴方、あの時の……」
ヨハンとマーリカが同時に口を開いた刹那――。
ダンっと床を強く踏む音がして、男が物凄い勢いで正面から二人に向かって飛びかかってきた。
(なにか、持ってる――!)
ひらりと幅広なマントの袖の中に黒光りするものが見えて、マーリカは考えるより先に動いていた。
突然の男の行動に驚いて身を引いて固まっているヨハンの腕を掴んで、マーリカは部屋の扉へ向かって力任せに引き倒すように引っ張り男からヨハンを遠ざけて庇う。
「うっ……!」
額の左端を鈍器で打たれた強い衝撃に襲われ、マーリカは呻きよろめいた。
左側の視界がさっと赤く染まる。
ヨハンは無事かと目を忙しなく動かし、扉の側で尻餅をついているヨハンを見つける。
「おいっ! エスター……っ!」
彼の叫びで、再び後ろから襲いかかってきた男に気がついたマーリカは振り返って、男の両肩に取り縋るようにしてその動き止めて叫んだ。
「ヨハン殿下、立ってくださいっ!」
男の両肩を力一杯押し退け、しかしすぐまた工具かなにか鈍色に光る物を振り上げて向かってくる男の手首を掴み抵抗しながら、マーリカはヨハンに向かって立つように叫ぶ。
「逃げ……て……っ!」
「馬鹿を言うなっ!」
マーリカの言葉に突き動かされるように立ち上がって助けようと足を踏み出すヨハンに彼女は首を振り、男を抑えながら声を上げる。
「馬鹿はっ……殿下ですっ!」
男の攻撃を寸でのところで避けて、よろけながら男を部屋の奥にある時計機械の方向へと投げ払い、マーリカはすぐさまヨハンを部屋の外へと押しやった。
「この人だけでなかったらどうするんですっ!」
マーリカの言葉にヨハンがはっとしたように目を見開き、慌てて階段下を見たのに彼女は頷いた。
ここは塔の上階だ、もし他にも仲間がいて下からきたら逃げ場はない。
「先に……逃げてください……」
ふらつきながらヨハンを追って部屋を出たマーリカは扉を閉め、その背で扉を押さえて床に滑り落ちる。
荒い息を吐きながら血が流れる額の傷を押さえてうずくまり、まだ躊躇っているヨハンに朦朧としてきた意識の中で彼女は声を振り絞った。
「早くっ‼︎」
「――っ!」
バタバタと慌ただしく駆け降りていく足音を聞いてマーリカが安堵の息を吐いたと同時に扉が開く。
後ろから殴られ、衝撃を感じるより先に内側に響いた鈍い音に彼女は床に倒れた。
――第二王子……だったはずがっ。
遠のく意識の中で忌々しげに呟かれる言葉を聞いて、男の狙いがヨハンでないことを知ったマーリカだったがそれ以上はなにもできなかった。
――まあ、だがむしろこっちのが……大詰めはこれからだ…。
足先で仰向けになるよう転がされて、彼の名を紡ごうと口元を動かそうとした途中でマーリカは意識を失った。






