2-8.戸惑いと王立学園(1)
ザアーッ――。
タタン、タタン、タタン、タタン……。
耳を塞ぐようなトンネルを過ぎる音が止んで規則的な走行音が戻れば、列車の中も少しばかり明るさを増す。
夜になり、外は真っ暗ではあるものの、月や星の光があるのとないのとでは違うなどと窓側の席から木々の影が流れていく外を眺めながらマーリカは思う。
公用列車は食堂車、サロン車、王族賓客用寝台車、護衛や側仕え用二等客車、貨物車の五両編成。
サロン車の中はオイルランプの火がそこかしこに灯され、黄色味の強い明かりが公用列車を彩る艶やかな木の壁やテーブルの木目を照らしている。
マーリカのいる席から、通路の向こう岸。
「なるほど、私の愛弟子が苦戦するわけだ」
小さなテーブルに置いた盤の上に、黒い石を表に置いてマティアスが呟く。彼に相対するフリードリヒは、摘んだ石の白い面を見せて機嫌が良さそうである。楽しいらしい。
「もういい時間だな」
元はマティアスと背中合わせの席にいて、彼とフリードリヒの勝負が始まってからマーリカのところへやってきて、向かい合う席で静かに本を読んでいたクラウスが本を閉じる。
マーリカが上着の中から時計を取り出して時間を見れば、時計の短針は十一の文字を指し、長針は頂点を幾らか過ぎている。
クラウス兄様の就寝時間だとマーリカは時計をしまった。
長く伸びた銀髪と灰色の瞳がどこか気怠げな色香を醸しだし、放蕩貴族のようにも思わせる容貌のクラウスであるが、品行方正と几帳面さで出来ているような彼の生活はエスター=テッヘン家の屋敷にいても規則正しく、列車の旅においても変わりないらしい。
「おやすみですか、フェルデン卿」
「ああ」
フリードリヒから親類二人に対して、道中、身内の呼び方で構わないと言われたマーリカであったが、ここにいるのはアンハルト率いる彼付の護衛騎士だけではない。
この点、クラウスは理解して対応してくれるが、マティアスは二人とも頑なだと言って彼は彼の好きにしている。
フリードリヒが他者の振る舞いに寛大だからいいもの、困った従兄である。
「まだいるのか?」
「フリードリヒ殿下がおやすみになるまでは」
マーリカが肩をすくめれば、なかなかに激務だなとクラウスはぼやいて彼女に手を伸ばしてきた。左頬を軽くつままれ、伯爵令嬢としてあるまじき肌だぞと顔を顰められる。
「フェルデン卿……っ。余計なお世話です」
あまりに自然に再従兄の態度で接してこられて、マーリカもつい彼の妹のように構われている時の調子で彼の手を振り払った。
「時々、宵っ張りなられるのです」
「迷惑な主だな……」
「なにかあれば室内の呼び鈴を、係の者が対応します」
クラウスの言葉を肯定も否定もせず聞き流し、マーリカが列車に乗りこんだ時にした説明を彼に繰り返せば、それ以上は言っても無駄だと判断したのだろう。
今度はマティアスに適当に切り上げろと忠告して、クラウスは列車の揺れに注意しながら立ち上がるとサロン車を出ていった。
「マーリカ、今日は書類仕事もない。休んでいいよ。君の師はなかなかに手強い」
サロン車と寝台車両とを隔てるドアが閉まる音に重なって、フリードリヒの声を聞いたマーリカは通路の向こう側へと顔を向けた。
「そういったわけには参りません」
すると、彼はすっきりとした輪郭を描く顎先をつまんで、ふむと盤上を見下ろし、マーリカが聞き捨てならないことを口にした。
「でも二連続で負けて二百フロリンだから、取り返すには少々時間がかかると思うよ」
(は? 二百フロリン……?)
「……って! まさか賭けているのですか⁉︎ しかもそんな大金!」
この国の通貨で下級事務官の年俸に匹敵する額である。フリードリヒのことだから私財を賭けているだろうけれど、だからいいといったものでもない。
テーブルに頬杖ついてにやにや緑の目を細めているマティアスに、マーリカはテーブルに両手をついて立ち上がった。
「クラッセン教授!」
「聞けば可愛い弟子が百回以上挑んで半分負けているとか。これは師として看過できない」
なんでもない様子で彼女の方も見ず、石を置きながらのマティアスの言葉に、うっと、マーリカは立った背を軽く仰け反らして唸る。
「まあ五回勝負だから、残り三回勝てばいい」
「二回負けた人の言葉ではないよ。殿下」
二人の会話に、もおおっこの放蕩者共はと胸の内で叫んでマーリカは天井を仰ぐ。
(ということは、一勝負につき百フロリン……なんて勝負をしているの)
平民が一年食べていける金額だ。信じられない。
「マーリカは師にも勝てたと言っていたけど?」
「私の弟子は賢い子だからそういう時もある。少なくともクラウスよりは余程筋がいい。そういう殿下も半分は負かされている」
(……ん?)
「勝負に主従は関係なしとしたら、主を本気で刺しにくる真っ直ぐさだからねえ。その師である人は彼女ほど真っ直ぐではないようだけれど」
「それはまた、臣下に随分と寛大が過ぎるのでは?」
にこにこと微笑み合っている二人の応酬に、まさかと思い至ってマーリカは眉間に深く皺を刻んだ。
「殿下……マティアス兄様……」
「大丈夫だから、下がっていいよ」
「殿下もこう仰ってくれている、私達に構わずおやすみ」
今度は二人から促されて、上向けていた頭を今度は下へ向け、手をついたテーブルを見つめながら、「いいえ」とマーリカは低く呻くような声で答える。
「お二人がどれ程巧みな勝負をされるのか、見届けさせていただきます」
(手加減されていた……!)
「ほら殿下、我々の“姫”は誇り高い。怒らせると私も謝るしかなくなる」
「それは困った。なにしろ王族が簡単に謝るなと、私の “臣下”はよく怒るのだよ」
「おやおや」
「怒られそうなことは、一つでも少ないに越したことはない――」
*****
この視察の行程は、まず日暮前に王城から乗車駅へ。
警備上、公用列車は他の列車と並ぶこともすれ違うことも、また追い越すのも追われるのも避けなければならない。平生の運行に支障をきたさず、そんな運行は不可能である。
まして、ほとんどフリードリヒの趣味のための視察なら尚更。
そのため、最終便の後、万一の配慮で先導列車を走らせてからの出発であった。
列車移動は数時間。補給や点検のための途中停車は夜中に二度。
朝のうちには降車駅に着く。
「――そのような予定ですので、寝坊は出来ませんよ」
フリードリヒの個室で明日の予定を説明して、マーリカは念押しした。
彼の着替えなどを待ち、結局いつもと変わらない深夜になっている。マティアスとの勝負は二勝二敗一引分で、賭け金も相殺となった。
「まだ怒っている」
「わたしを一年以上も弄んで……さぞ殿下は楽しかったでしょうね」
「マーリカ、その言い方は大いに誤解を生む!」
「知りません。失礼します」
下がろうとすれば待ってと右手首を取られて、なんですかとマーリカはフリードリヒを振り返って、思いの他、至近距離に彼がいたことに驚く。
いつもは執務室や彼の広い私室であるから、寝台車両の部屋とは距離感が違っていた。
マーリカが立っているフリードリヒの客室の入口から、三歩も歩けばもう彼の寝台の枕元である。
その途中にある一人掛けソファにフリードリヒは腰掛けていて、マーリカに腕を伸ばしていた。
「いや、こうも狭い部屋にいるのは新鮮で」
「それでこの手は? 廊下の衛兵でも呼びますか」
「呼んでもいいけどさ……」
むすっ、とした表情と共に腕を少しばかり強く引っ張られる。
なにが起きたのかわからない――気づけば間近にマーリカを見る昼の空の色と、それを囲む陽光のような淡い金色のまつ毛の先があった。
「あのっ」
「ん?」
座っている場所に温かみがある。これは人の体温でマーリカはフリードリヒの膝の上にいる。それ以上、彼女は状況を正確に把握することを放棄した。
とても堪えられそうにない。
「フリー、っ」
咎めるために彼の名を呼ぼうとして、唇に人差し指の先を押し当てられマーリカは発しかけた声を飲み込む。瞬きして彼女はフリードリの顔を見て、彼の個室の壁や窓へと視線を動かす。
侍従は壁を隔てた次室にいる。窓の景色はものすごい速さで夜の闇が流れているし、部屋の出入口は細い扉一つ。狭い廊下に衛兵は車両の端と端にいる。
「ここまで二人になる機会は、そうない」
押し当てられていた指が移動して、曲げた指の背がマーリカの左頬をくすぐる。
再従兄といい、婚約者といい、二人して同じような場所を。いくらそれなりに近しい間柄だからといって、女性の頬に気安く触り過ぎである。
「殿……」
「仕事もない。移動中だけど」
(それはそうですけど!)
少しでも話せば互いの吐息が感じられる。
あまりの近さにフリードリヒを突き飛ばしたい衝動にマーリカはかられるが、動揺で体を思うように動かせない。
ガタンガタンと列車がゆったりと揺れるたび、彼の肩に顔を預けそうになる。
「衛兵呼ぶ?」
問われて、マーリカは反射的に首を横に振る。この状態で呼べるわけがない。
「悪ふざけは……」
「そう思う?」
密やかな囁きにどきりとして、マーリカはフリードリヒをそろりと上目に見た。
タタン、タタン、タン……と。
小さな音ではないのに何故か眠気を誘う、列車が走る規則的な音が高鳴る鼓動と同じく絶え間ないのは幸いだと彼女は思う。
腰掛けている場所の体温はいつの間にか馴染んで、衣服越しに重なっている境がよくわからなくなっていた。
マーリカの左頬に意思を持って触れる手に従い、彼女は顔を傾ける。
「マーリカ」
フリードリヒが目を細め、その後を追うように彼女も目を閉じ――ガタンっと大きな揺れに揺さぶられてがくんと首を落とし、彼の顎先に額を思い切り打ちつけた。
キキ――ギィ……。
軋むような音とゴトンと低い音、シュウシュウと蒸気の音が重なって聞こえると共に列車が停止する。
はっと我に返ってマーリカは上着から銀時計を取り出した。
「ほ、補給っ、補給の停車駅です」
「〜〜っ……のようだね……」
飛び跳ねるように立ち半歩後ろに離れてマーリカは、顎先を押さえ小さく呻いているフリードリヒをうかがった。
「その……大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど、大丈夫じゃない……」
「水に浸した布かなにか」
「いらない。舌を噛まなかっただけよかったというか戒めとする……おやすみ」
「はあ、はい……お大事に」
個室を出れば、衛兵にこんな遅くまで大変ですなと声をかけられた。
「しかし、これじゃ停まるたびに皆起きてしまいますねえ」
「停まるのはあと一度ですから」
マーリカは答え、衛兵を労い、彼女の客室に入った。
閉めた扉に背を預け、床にへたりこむ。
自然重ねて合わせていた手の、右人差し指で唇に触れる。
「びっくりした……」
求婚された時も唇を許している、初めてなわけじゃない。
だから重ねてもよかったけれど、少しなにかが違っていた気がする。
はーっとすべての息を吐き出して、マーリカは目を閉じ寝ようと呟いて立ち上がる。
それ以外、道中特に何事もなく滞りもなく。
予定通りにマーリカ達は王立ツヴァイスハイト学園に到着した。






