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2-7.復活祭と視察の一行

 春、復活祭の時期である。

 ここはオトマルク王国、王都リントン。

 栄える街を高台から見下ろす王城の左翼棟、東廊下。

 フリードリヒの執務室の向かいに移った、第三王子執務室。


「兄上と喧嘩したって?」


 北壁に造り付けられている書棚から、アルブレヒトに頼まれた資料を取り出そうとしていたマーリカは手を止めて彼を振り返った。


「喧嘩などしておりませんが?」

「そうなの? 女神の廊下(ギャラリー)ですごい剣幕だったって聞いたけど?」

「いつの話ですか……もう一ヶ月以上経っています。それにあれは喧嘩ではありません」

「ふうん。まあその後いちゃついていたとも聞いた」


 くっくっと、笑いながらペン先をインク壺に浸けて笑ったアルブレヒトに、からかわれたとマーリカはむすっと眉間にわずかな皺を寄せる。


「断じてありません」


 マーリカがフリードリヒと結婚すれば、アルブレヒトは義弟ということになるけれど、同年齢で、フリードリヒの秘書官の仕事を共有していることもあり一種の同志的な友人に近い間柄になりつつある。


「一体誰がそんなくだらないことを」

「カミルから」

「バッヘム主任秘書官?」


 フリードリヒ付秘書官で、彼が公務に就いた時からいる最古参の中級官吏だ。

 下級貴族の令息が多い中級官吏の中では珍しい平民で、大変に優秀かつ下級者への指導力もある。

 マーリカがフリードリヒ付きになるまで、歴代の筆頭秘書官が次々と辞めて去っていく中、秘書官の実務を支えていたのは彼である。

 マーリカの知る彼は、撫で付けた栗色の髪と眼鏡が印象的な、やや皮肉屋ではあるが几帳面に黙々と仕事を処理していく真面目な秘書官で、噂話をするような人ではない。


「彼、王宮中の出来事を知っていて面白いね」


 彼女は一年以上接していてもカミルとは打ち解けられなかったが、アルブレヒトは良好な関係を築いているようである。


「そうなのですか」

「マーリカが心配みたいだよ。“ちゃんと食ってんですかね”とか“いつ寝てんですかって時がある”とか。兄上を“甘やかし過ぎる”だって。あ、その時にその話していたんだよ。“結局、怒っても許すから効かない”って。でも、僕に言われてもねえ」


 苦笑しながら、詰所の秘書達にすごく慕われているよねと話すアルブレヒトを、マーリカは不思議な気持ちで眺める。全然そんな覚えはない。


「そう……ですか」

「あ、資料あった?」

「はい。視察先の直近五年の財務資料です。詰所の書庫に各年の事業実績を綴じたものもありますよ。もし創設者の手記がご入用でしたら記録保管庫の手前にある資料室にあったはずです」


 フリードリヒが例年出席していた式典、回っていた視察先の一部を引き継いだばかりのアルブレヒトにマーリカが役立ちそうな資料の場所を伝えれば、アルブレヒトは彼女から資料を受け取って、なんだかさあ……と呟いた。


「兄上も超人だけど、マーリカも大概その類だよね」

「まさか」


 部屋の南隅に置いた大机を使って調べ物や式典の挨拶文や報告書を作成している、アルブレヒトを補佐する文官三人がうんうんと頷く。

 隣室の小部屋を控室にもしているが、フリードリヒの執務室を参考に備えたらしい。

 彼曰く、「兄上は完全に独占欲だけど、実際、急ぎの仕事はすぐ側で片付けてくれる方が捗る」ということで作業場所を設けたらしい。


「買い被り過ぎです」

「いやいや、エスター=テッヘン殿は経験値が飛び級ですから」

「それに先程の通り、記録保管庫が頭の中にあるような記憶力ですし」

「今度、帝国語教えてもらえませんか。古い文献は帝国語が多くて。第二王子妃になられたらこんなこと頼めませんから」


 ほらね、と。肩をすくめたアルブレヒトにマーリカは曖昧な笑みで応じる。

 それにしても、同じ王族執務室でもこうも違うものだろうか、適度な静けさの中、ペンを走らせる音や資料をめくる紙の音、適宜行われる口頭での確認や指示のやりとり。


(まともだ、これがまともな執務室の姿というもの)


「どうしたの。口元押さえて、気分でも悪い?」

「いえ、私の知る王族執務室との違いに、少々感動しまして……」

「ああ」


 マーリカの言葉の意味を、アルブレヒトは即座に理解してくれた。

 そもそも人員からして、上級官吏が何人も辞めているフリードリヒとは違う。

 アルブレヒトには年配の上級・中級官吏、王立学園時代に信頼関係を築いた高官職や議会に出る貴族を親に持つ若手官吏の側近が複数ついていて、他のそういった者達は控室としている隣室で彼等の仕事をしている。


「でも、兄上はやっぱり規格外だと思うよ。丸投げひどいけど、十八の時から僕やマーリカもなく、まともな補佐も側近もなしに文官組織や王子の仕事をやっているわけだから」

「それはアルブレヒト殿下に同意するところではありますが……」


 大臣などの高官から現場の文官まで分け隔てなく、丸投げは本当にひどいが、フリードリヒが膨大な仕事を然るべき人材に振り分けてこなしてきたのは事実だ。


「本当、兄上の視察や式典の一部を引き継いだけど、どうやってこなしていたの、これ?」

「ぶつくさ文句をいいながら、行程に概ね従っていましたね。移動中の馬車の中で、子供かといった駄々をこねてはいましたが。宥めるためのお菓子も必須で、ますます子供かと」

「うん……目に浮かぶようだよ。でもこれまで特に問題なくやっているよね」

「その場へ着いてしまえば、慣れたものですから」

「いやいや、その年の変更点とか、挨拶なんかで話す内容に盛り込んだ方がいい事柄とか、色々準備あるでしょう」

「書面など渡したところで見もしません。移動中に口頭でお伝えしていました」

「あーそれで済むのか……駄々とかこねているのに」

「毎年のことだからでしょう。アルブレヒト殿下は今年初めてなのですから、大変なのは当たり前です」


 絶対違う、と――アルブレヒトが胸の中で思っていることなど、露程も知らないマーリカが気遣えば、苦い微笑を彼は浮かべた。


「それにしたって、予定が過密過ぎる……シシィに会いたい」

「ロイエンタール侯爵令嬢ですか?」


 アルブレヒトが口にしたのは愛称で、彼の婚約者の名はエリザベートである。

 可愛らしさを意味する愛称通りに、褐色の波打つ髪と茶色の瞳が柔らかな雰囲気の、小柄で愛でたくなるような可憐な侯爵令嬢をマーリカは思い浮かべた。


「僕の唯一の癒しと言っても過言ではないからね。最近は吹っ切れたけど」

「吹っ切れた、ですか」

「兄上とマーリカの真似は無理ってね」


 そういえば、ここのところアルブレヒトの顔色は随分いい。忙しいはずだが健康状態は良さそうだ。


「けどこうも公務続きだと……シシィを補給したい」

「仲睦まじいのですね」

「まあね。シャルロッテの遊び相手として、小さな頃から度々王宮にも来ていたし」

「そういえば幼馴染でしたね。フリードリヒ殿下とメクレンブルク公爵令……」

「マーリカ、あんな怖い宰相家の令嬢とシシィは全然違うから、僕達はもっと子供らしいほのぼのしたところから育んできた関係だから」


 マーリカが最後まで言うより先に、目から光が消えた真顔でアルブレヒトから一緒にするなと言われ、はあと、彼女は相槌を打った。


「あ、ごめん。兄上の書類を届けついでに手伝わせた上に引き止めて」

「お気になさらず。わたしはお二人の補佐官です」 


 アルブレヒトの執務室を出て、マーリカは上着の中から取り出した時計で時間を見て、これからの予定に早くも疲労を感じた。

 間もなく隔週一度の定期の面会予定だ。

 メルメーレ公国との官吏交流制度の定期報告会――という名の、マーリカの再従兄(はとこ)クラウスと、従兄(いとこ)のマティアスの二人とフリードリヒのただのお喋り会である。

クラウスは公国内務書記官で官吏交流特使。マティアスは、王立科学芸術協会(アカデミー)が招聘した特別講座教授。共に国賓扱いとなっている。


(ツヴァイスハイト学園の視察もあと五日後に迫っているし、明日は王太子妃殿下とのお茶会はあるし、宰相閣下への報告書もあるし、殿下が審査に名を連ねている美術展の選評も書かせないとだし、おにいさま達と殿下のお喋り会なんて見守っている暇はないのに)


 マーリカはマーリカで文官の仕事以外に、婚礼衣装の発注先を決めるなどといったこともある。

衣装だけでなく、装身具や小物の手配先も決めなければならない。

 ただの買い物と違い、発注先は第二王子妃お抱えの商会や工房と見做されてしまうため、選択は吟味する必要がある。本当にやることばかり増えていくと、彼女はため息を吐くと第二王子執務室へ戻った。


 *****


 山の上に学園城塞都市があるらしいな――と。

 再従兄(はとこ)のクラウスの一言に、マーリカはものすごく嫌な予感がした。

 隔週一度の報告会は、第二王子執務室と続き間になっている控室兼応接室で行われている。

 部屋の中央に備えられたテーブルセットの上には、王宮使用人によってお茶とお菓子が用意され、長椅子のソファにクラウスとマティアスが並んで腰掛け、一人掛けのソファにはフリードリヒとマーリカが座る。

 官吏交流制度の、受け入れている技官の技能修習の進捗や文官の様子、現場の不都合や要望はないかの確認はものの三十分もあれば終わるが、その後にだらだらととりとめない会話が続く。

 主に喋っているのはマティアスかフリードリヒであるが、今日は珍しくクラウスの言葉であった。


「いまは王領だが、昔、かつて彼の地を治めていた領主の城をそのまま校舎に使っているのだとか」

「ああ、その城なら私も画家仲間が画題にしていたのを見たことがある。絵ではなかなか美しい城だった。どの角度から捉えても美しく、“天空の城”と呼ばれているそうだ」

「随分と贅沢な学び舎だな」


 淡い褐色に小花を織り出す布張りのソファは、腰掛ける二人のおかげでそこだけやけに華やいでいる。

 実家、エスター=テッヘン家で三年に一度親族が集まる家族行事で彼等を見慣れているマーリカであったがそう思う。王家の威信を示すため、執務室に次いで豪奢な設えである応接室にいる二人を見ていると、公国歓待の夜会での、彼女とフリードリヒの婚約お披露目の話題が霞んでしまったのも無理はないと思う。


(実家でお会いしている時と違って、宮廷服姿なこともあるけれど、おにいさま達って、これでどうして二人とも特定のお相手がいないのかしら)


 マーリカから見て、メルメーレ公国の親類二人は対照的であるが、麗しいといった形容がこれほど似合う二人もいないと思う。美の女神に愛されているなどと言われている、金髪碧眼の美貌の第二王子であるフリードリヒと比べ見ても引けを取っていない。

 紫紺の地に白銀や赤で縁取りや刺繍がされた、武官の儀礼服に似た衣服を几帳面に身につけているクラウスは、穏やかな昼の光の中で見ても、腰の長さの真っ直ぐな銀髪も灰色の瞳も艶めいた雰囲気だ。

 しかしこの、フリードリヒより一歳年上の、色香滴るような再従兄(はとこ)は、その見た目に反して堅物といっていいほど生真面目な性格である。

 それにいつもマーリカの悩みや困り事の相談に真摯に応じてくれるし、髪や瞳の色もあって冷ややかに見えるがとても優しい。


「感性瑞々しい若者達にとって素晴らしい環境ではないか」


 両手を持ち上げて話す、亜麻色の波打つ髪を後ろで一束にした三十路の従兄(いとこ)は襟周りのひらひらしたフリルで飾る絹のシャツに、鮮やかな橙色のクラバットを緩く結び、やはり橙色の糸で縁取られた、冴えた濃い青の上着を羽織っている。

 深く澄んだ緑色の瞳をした中性的な容貌で、格好いいよりは美人の形容が合っている。

 マーリカの伯母の息子で、色素は違うが目元などが似ていると幼い頃はよく言われた。

 まだ男性の特徴がはっきり現れていない少年の頃に姉の服を借り、まだ幼児だったマーリカの手を引いて姉妹を装うなど、フリードリヒとはまた違う種類の酔狂さを持つ自由人であるのは、画家と弦楽の名手といった、芸術の才に恵まれた故なのかどうかはわからない。

 しかしながら貴族の子女としてはやや不器用なマーリカとクラウスにとって、包容力のあるとても頼りになる兄のような存在ではある。


「近く、視察に出られるとか?」

「まあね。五日後の夕方に出る。途中まで公用列車を使って、馬車に乗り換えて順調にいけば五日の内に着くかな。滞在七日、行きも帰りも寄り道はなし」

「殿下」


 マーリカはフリードリヒを軽く咎めた。ある程度の予定は一定の役職者以上に公開はされているものの、無関係な者に日程の詳細を教えるのはあまりいいことではない。

 まして他国から来ている人間に。親類を疑いたくないけれど。


「どうせ日程も聞き込んだ上で話しているよ。マーリカの “おにいさま”方は随分と私の動向に興味がおありのようだからね。探りは無用。なんなら同行する?」

「殿下、なにを仰って……」

「二人くらい増えても問題ない。そのつもりで話を切り出したのでは、ね?」


 にこやかにマーリカの親類二人に微笑んだフリードリヒに、彼女は額を押さえた。

 なにを考えているのか、あるいは単純に気分で振る舞っているのか、マーリカの親類二人に対して、フリードリヒは妙に牽制めいた応対をする。


(いや、これは牽制というより……)


 フリードリヒが、春らしい軽やかな香りのお茶が入ったカップを取り上げて口元に運ぶのを目の端に見ながら、マーリカは彼に虚を突かれたような表情を見せているクラウスと、口元に指を置いて俯き苦笑するマティアスを眺める。


「本当に。本家の屋敷でお会いした時から、食えないお人だ」

(マティアス兄様……?)


 そういえば、実家から王都から戻る途中に馬車の事故にマーリカが巻き込まれ、彼女が寝込んでいる間に、フリードリヒは王子としてではなく彼女の上官の立場でエスター=テッヘン家の領地屋敷を訪れている。

 屋敷に滞在していたマティアスとクラウスを介して、非公式に公国の君主家と会談したとも。


「お祭りも楽しめるよ」

「祭?」


 怪訝そうに繰り返したクラウスに、「そっ」とフリードリヒは声を張った。


「学園祭でね。街や周辺領地から名物料理や有名菓子店などが学園内の通路に出店する! まさに美食の遊歩道(プロムナード)! それに春先は雲海が発生しやすい。運が良ければ王国三名景、輝く雲の中に聳え立つ“天空の城”な様子が目にできるかもね」

「殿下!」


(なに誘っているのです!)


 マーリカの嫌な予感が、だんだん現実に形をとって現れようとしている気がする。


「それはまた興味深い。私は乗った!」

「クラッセン教授!」

「マーリカ、すっかり文官な弟子の姿を見るのもいいものだが、その呼ばれ方は好きではない。この場は身内の呼び方で構わないと、他でもないお前の主君である第二王子殿下がお許しになっているだろう?」


 マティアスはマーリカに絵画と器楽とボードゲームの基本を教えてくれた、年の離れた兄のような師でもある。弟子は頼みこまれても取らない人であるのに、その代わりマーリカを愛弟子扱いする。


「殿下も……マティアス兄様も、勝手に話を進められては困ります」

「まあそう言わず、希望くらい聞こうよ。特使殿はどう?」


(希望くらいって……っ)


 殿下が国賓扱いの人を誘えばそれは決定事項になるのですがと、マーリカが横目にフリードリヒを睨みつけても彼はけろりとしている。


「いや、その……山頂の城塞都市の補修事業について知りたかっただけで。公国の老朽化した施設の再建計画があり技官から修繕方法を学べないかと。資料で構わなかったのだが……」


 むしろクラウスがちらちらとマーリカを気にしつつ、城塞都市のことを話に取り上げた理由を説明した。

 そんな彼も結局はマティアスが同行するならと返答し、そこはマティアスを止めるところではないのかと彼女はクラウスを睨んだ。


「クラウス兄様……恨みますよ」

「その、マーリカに迷惑かけたいとは思っていない」

「視察は修繕後の不具合はないか、確認も兼ねている」

「殿下、そちらが主目的(・・・)ですっ」


 マーリカが、視察は公務であることを強調すれば、「そうそう公務!」とフリードリヒは声を上げた。


「マーリカが講演する。貴族女性初の上級官吏にして未来の第二王子妃としてね」


(もう黙って……)


 できることならいますぐ両手でその口を塞ぎたい。

 表面は平静をかろうじて保ち、そう胸の内で嘆くマーリカの気もしらず、彼女の親類二人は顔を見合わせた。


「それは……」

「ぜひとも行かねば!」


 頷き合うクラウスとマティアスの二人に、カップをテーブルに戻してフリードリヒは両手を打った。


「じゃあ、マーリカ後はよろしく」


(五日前になって、簡単に言うな!)


 必要な荷の手配も警備も調整済なのに再確認しないといけない。

 それに二人が他国からきた国賓扱いであるだけに、色々と、色々と、大変なのである。


(とはいえ、殿下が誘って、できないとなると王国の威信に関わる)


「……承知いたしました。殿下、申し訳ありませんがわたしとクリスティアン子爵は席を外しても?」

「いいよ」

「ありがとうございます」


 若手騎士と護衛についていたクリスティアン子爵ことアンハルトに声をかけ、秘書官詰所のさらに奥にある小会議室へと彼女は移動した。


 *****


「あのっ、無能っ! 後で、絶対締めるっ!」


 ばんっ、と小会議室のテーブルに地図を広げたマーリカは、はあぁっと息を吐いて地図の上に力無く突っ伏した。

そんな彼女に同情の眼差しをむけて、アンハルトが言葉をかける。


「気の毒としか……警備に関しては元々やや厳重に過ぎるくらいにしていたから、大した労はない」

「……ありがとうございます。申し訳ありません、取り乱しました」

「いや、もっと荒れていいくらいだろう」

「申し訳ついでに、バッヘム主任秘書官を呼んできていただけますか? アルブレヒト殿下はいまの時間は会議ですので」

「承知した」


 その間に気を鎮めますと呟いて、のろりとマーリカは地図から頭を起こす。

 旅程に合わせて地図を指で辿りながら、マーリカは関係各所へ指示する変更の算段をつけていく。


(王城から鉄道の駅舎は目と鼻の先。クリスティアン子爵もああ言ってくださったし、馬車(キャリッジ)の追加で済む……)


 列車は公用列車だ。貸切りの列車に乗客が二人増えるだけ。備品類は問題ない。食材は人数分以上用意しているはずであるし、彼等を世話する者達も配置と交代を少し変える程度でなんとかなるだろう。

 正直、普通の列車旅より格段に快適で食事もいいはずだから、一泊二日の間くらい多少の不便は許して貰いたい。

 現場のこともあるが、なにより先に宰相閣下だ。万一なにかあれば国家間の問題に発展する。二人にかかる経費のこともある。財務局にも話を通しておかないと後が煩い。

 これは、現場より偉い人達の説得の方が大変そうである。


「どうして止められなかったって、絶対言われる……っ」 


 両手で顔を覆って、泣きたい気分でマーリカは項垂れた。


「殿下に話を通させよう。ご自分で言い出したことなのだから」


 王都から遠い陸の孤島であるために、準備は入念にしている。

たしかにただ二人増えただけと考えれば、フリードリヒの言う通り大きな問題はない。


「……絶対無理なことは言わないから、却って腹立つ」


 学園にも知らせておかなければと、目的地まで滑らせようとした指をマーリカは途中でぴたりと止めた。


「バーデン領……」


 ツヴァイスハイト学園のある山岳地帯の隅に、バーデン公爵家の領地の隅が引っかかっている。

 本当に隅で、王領と隣接していると言えるのはまた別の領地であるし、視察に関する調整業務はフリードリヒからバーデン家との確執を聞く前に行われていたため、いまのいままで気に留めていなかったけれど、接しているといえば接している。


「こんなに近いなんて」


 それに、北方の国境近くとは知っていたけれど、バーデン領を越えた先はメルメーレ公国の渓谷に入る。


 ――問題なくても、気が乗らない。

 ――これでも二十数年王子をやっているのだよ。一官吏のことは関係ない

 ――バーデン家の謹慎も解けたことだしね。


 ふと、ここ一、二ヶ月の内に聞いたフリードリヒの言葉がマーリカの頭の中を通り過ぎていった。何故と彼女は地図を見る黒い瞳を細める。その時々に交わした会話の中で聞いた言葉だ。会話の関連性も薄い。


(よく考えたら……殿下が特定の家の話をするなんて珍しい。それも殿下というより王家の確執みたいな話。でも、王立学園の視察は殿下の完全な気まぐれで言い出したことだし)


 復活祭の時期に催される学園祭の出店を、“美食王子”として攻略したいなどといった、完全に公私混同した楽しみだ。マーリカが貴族社会の中でこれといった支持基盤を持たないことから、第二王子妃としての基盤固めを口実に渋々承知させられた視察である。


「偶然……?」


 マーリカが呟いた時、小会議室の扉がノックされた。

 軽く頭を振って彼女が入室を許可すれば、遅くなったとアンハルトがカミルを連れて戻ってきた。

 事情はアンハルトに聞かされているようで、話す前からすでにげんなりした表情で眼鏡の奥からマーリカを責めるような目をしているカミルに申し訳なさを感じながら、彼女は彼に声を掛ける。


「ご苦労様です。バッヘム主任秘書官。事情はお聞きですね?」

「相変わらず……無茶引き受けてきますね。その忠臣ぶりと献身は尊敬しますよ」

「貴方を待つ間で確認しましたが、無理ではありません」

「左様ですか。エスター=テッヘン公務補佐官殿がそのように仰るのでしたら、そうなんでしょうね」


 カミルに指示をする筆頭秘書官はアルブレヒトである。彼との接点はほぼなくなっているマーリカはその皮肉めいた言葉の調子に懐かしさを覚えた。


「始めましょう。時間がありません。宰相閣下と高官の方々はこちらで引き受けます。クリスティアン子爵と秘書官の方々には実務面を」


 あらためてマーリカは、追加される同行者とその目的について二人に説明をする。


「護衛はもちろんですが、視察におけるあらゆる場面の再確認をお願いします」


 元々王族に対応した準備をしている。この二人ならそれほど時間はかからないだろう。あとは互いの確認事項をまとめ、マーリカは宰相へ急ぎの面会を申し込んだ。

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