2-6.公爵令嬢は忠告する
雪が溶け、春告げる雷鳴轟く嵐が去れば、間もなく復活祭である。
社交の季節の幕開けでもあり、冬になる前に領地の屋敷へ帰った貴族達がぽつぽつと王都へ舞い戻りはじめ、王城から下町まで、王都全体がそわそわと華やいでくる。
「ようやく、こうしてお庭でお茶を楽しめる季節になりましたわね」
王城にあるその庭は、小さく区切られた場所ではあるものの、よく手入れされ、年中季節の花を咲かせ欠かすことはないが、白っぽい灰色に沈む寒い冬を越えて迎えた季節はやはり格別である。
何代か前の王妃が愛した庭は、柔らかな色合いの緑が芽吹き、花々はほころび、明るい日差しの中に色彩が溢れている。
城の奥まった位置にあり、足を踏み入れることができる者は限られる王家の中庭。
「フリードリヒ殿下」
家柄、資質、容貌、立ち居振る舞い、そのどれもが貴族令嬢の頂点に立つのに相応しいとされている。
薄い紫色の瞳を柔らかな微笑みに細めた令嬢は、ほっそりとした白い指が琥珀色のお茶の香気漂うカップを淑やかな仕草で持ち上げた。
オトマルク王国の五大公爵家が筆頭、宰相メクレンブルク公の長女。
クリスティーネ・フォン・メクレンブルク嬢。
「南の辺境伯領へ移るのだってね」
明るい茶色の長い髪は毛先まで艶やかな公爵令嬢は、幼馴染で金髪碧眼の見目麗しい第二王子の言葉に「ええ、三日後に」と返事をした。
彼女の目論見が上手くいかなければ婚約者になったかもしれない相手だ。
「殿下にはきちんとご挨拶申し上げたく、お時間をいただきありがとうございます」
フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。
この国、オトマルク王国の第二王子へ向けたクリスティーネの言葉には、二重の意味が含まれる。
いまでこそ、南方の辺境伯家当主の養子となり、跡取りと定められたクリスティーネの婚約者であるが、元はなにも持たぬ公爵家に仕える騎士の息子であった。
彼女が幼かった頃に付けられた、護衛兼遊び相手。
筆頭公爵家の令嬢との大きすぎる身分差はどうにもならない。
その淡く小さな恋はたとえ想い通じ合っても、諦めるか、期限付きの甘く切ない時間を過ごし美しい思い出にするかの本来二択になるところ、見事成就させた彼女である。
そのための時間を、のらりくらりと稼いでくれたのは間違いなくフリードリヒだ。
(いずれ、誰かによってしかるべき相手が決められるだろうと変に達観しながらも、保留にし続けてくれたのですもの)
想い人が立身出世する道筋を描き、その道を整えて忠実に歩かせ、様々な試練と好機を与えて着実に実力をつけさせ、その上で、彼女の相手たるに相応しくかつ公爵家に有益となる家との縁を自然に結ばせるのに、実に十年余りの時間を要した。
「君の恋人も頑張ったよねえ。君からことあるごとに、“わたくしに相応しい騎士になりなさい”とかなんとか言われ続けてきたからって、辺境伯家の跡取りになんてなれるものではないよ」
幼馴染であるがゆえに、クリスティーネが十歳やそこらの頃から、実に緻密に執念深く、努力と苦心を重ねてきたかおおよそ察しているらしいフリードリヒは、健気といえば健気だけれどと呟いて、口元に運んだカップのお茶を啜った。
「わたくしの生まれはどうにもなりませんけれど、それで欲しいものを諦めるなんて馬鹿げていますもの。わたくしだって努力いたしましたのよ」
公爵令嬢という身分など持って生まれたものの使い方、権謀術数に磨きをかけてきた。
「君、本当に我儘というか、押しが強い人だよね」
「そんなことは。わたくしを友人と尊重してくださる殿下には感謝しております」
「君のためというわけでもないのだけれど……」
公爵令嬢として正しく腹黒いクリスティーネではあるが、恋に一途すぎるところもあるように性根はそれほど悪くない。
だから、恋が成就しないなら王妃にでもならなければ割が合わないなどと言って画策しかねない性格とフリードリヒが彼女を警戒していたことには気がついていなかった。
一緒になれば、一生隠居などできそうにない相手とされていることも。
「フリードリヒ殿下?」
「まあとにかく、幸せを掴んだのならなによりだよ。華麗なるクリスティーネ嬢がいない社交界はいささか寂しくなるだろうけど」
「あら、夏にはまた王都に戻って参りますけれど?」
「え、戻ってくるの」
頬に手を当て、小首を傾げたクリスティーネに、フリードリヒは僅かばかり口元を引き攣らせた。その表情が少しばかり癪に障って、彼女は目を細める。
父親そっくりに、人を萎縮させる目である。
「当然です。来年の春までわたくしはメクレンブルク公爵令嬢ですもの」
筆頭公爵家の令嬢として誰が高位令嬢達を束ねると思っているのだと、フリードリヒに伝えれば、忙しないことだと彼は呆れた様子で一口大の焼菓子を口に放り込んだ。
「妹もいるのに」
「ヘルミーネが王立学園を卒業して社交界に戻るのは来年です。それに、次期辺境伯領主夫人となる身としては王都との繋ぎ役も担わなければなりませんもの」
たしかにフリードリヒの言う通り、辺境伯領に落ち着き、一通り挨拶したらまたすぐ王都へ戻る忙しなさではある。
辺境だけに結構な移動距離であり、輿入れ準備も兼ねてであるから荷物も多い。クリスティーネ一人なわけもなく鉄道を使っても大掛かりな移動になるが、やるからには徹底してやる性格の彼女としては、公爵令嬢と次期辺境伯領主夫人どちらも疎かにする気はない。
「殿下も北の憂いがあるいま、南まで心配したくはないでしょうから」
テーブルの上に置いていた、白蝶貝の扇を手に広げにっこりとクリスティーネが笑むと、フリードリヒは鼻白んだ様子で頬杖をつき彼女から顔を背けた。空いている手で小さな砂糖菓子を摘んだと思ったら、その指先を目の高さに持ち上げる。
摘んでいるのは菫の砂糖菓子。その色は、メクレンブルク家の者が受け継いでいる瞳の色である。
「ほどほどにね……いくら忠臣の宰相家や南の辺境伯家でも、あまり力を持つなら王家も対処しないといけなくなる」
ぽちゃんと、小さな水音がして砂糖菓子がカップのお茶に落とされ、フリードリヒは静かにお茶を飲み干すのをクリスティーネは眺める。
「心得ております」
特に牽制しようといった様子でもない。お茶やお酒の香りづけに混ぜるものでもあるから、偶々な気もするがそうでもないかもしれない。
フリードリヒは、彼の手足となって文官組織を動かしている文官達から“無能殿下”などと呼ばれていて、王族としてもやる気に欠けるが、馬鹿ではない。
幼い頃から、考えがあるのかないのかよくわからず、その伴侶となれば「絶対そのお世話に苦労する」といった認識は高位令嬢達と同じクリスティーネではあるけれど、かといって侮ることもできない第二王子。
諸外国の者達から、“晩餐会に招かれればワインではなく条件を飲ませられる”などと噂される“オトマルクの腹黒王子”たる所以は、さっきの砂糖菓子のような妙に人の背筋をひやりとさせる振る舞いを見せるところからなのだろうとクリスティーネは考える。
「大体さぁ、君がそんなだから、私もこういった場を毎度用意するわけで」
「それがなにか」
フリードリヒとの面会の場は、大抵この立ち入る者は限られる小さな庭である。
王家の格式でもって調えられたお茶の席は、幼馴染で懇意の令嬢をもてなし語らうための彼の心遣いと誰もが思っているだろう。
このごく私的とされる場で、どんな話をしても、他へ漏れることはない。
「マーリカが君のことを気にしている。無自覚だけどね。濡れ衣もいいところだ」
むすっとぼやくように言ったフリードリヒに、砂糖菓子のこともあって、なにを言われるかと内心身構えていたクリスティーネは、知るかそんなことと扇の影で呆れた。
(やっぱり、この人よくわかりませんわ)
それに彼女も。気持ちはわからなくはないが、第二王子妃となることを選んだ以上、公爵令嬢に遠慮しているようでは先が思いやられる。
「そんなこと、お二人の甘い時間にでも説明すればよいではありませんか」
周囲がどう考えていようが、お互い有益な友人であるといった以外なく、しかもいまは互いに婚約者がいて、人払いはしていてもまったくの二人きりなわけでもない。
遠巻きに護衛もいれば、呼べばすぐ来る場所に王家の使用人もクリスティーネの侍女も控えている。
そもそも、奥まった場所とはいえ庭である。個室でもない。
(でも、わたくしを気にかけるということは意外と気持ちがありますのね。てっきり殿下ばかりがご執心で、彼に絆されたか、言いくるめられたかと思っていましたけれど)
この掴みどころもなければ、王族としてもいまひとつ旨味に欠けている、一緒になっても苦労しかないような人を。世の中、奇特な人がいたものである。
「――そういえば、少しは進展していますの?」
恋の話が楽しいのはクリスティーネも例外ではない。まして、その対象がフリードリヒであれば尚更である。
どんな令嬢もその気になれば簡単に魅了できる容貌でいて、社交上の儀礼や紳士たる態度に徹し、かつてクリスティーネが彼の婚約者候補から外れるため、どんな令嬢を紹介しても、“可愛らしいよね”と“いい子だよね”の二択の評価しかなかった彼だ。
「進展?」
「まさか相変わらず、破廉恥事案を恐れていらっしゃると」
広げていた扇を畳み、扇を持っていない手をぱしんと打って、クリスティーネは体ごと明後日の方向へとフリードリヒから背けた。
「なんて……歯痒い」
「婚前の節度を守れと言うけれど、婚後の節度は言わないのを尊重しているだけだよ」
薄っすらと際どいことを匂わせつつも、これといったことは言わずにはぐらかしたフリードリヒに、少しばかり彼をからかう気でいたクリスティーネは興が削がれて席を立つと、蔓薔薇の生垣へと近寄った。
「 “腹黒王子”らしい色惚けぶりですこと」
まだ花はついておらず、新芽が出て、柔らかい若葉の緑だけである。
「まだ、蕾は見当たりませんわね」
「もう少しばかり先だろうね。私が視察に出る頃くらいでは?」
「ヘルミーネには、マーリカ様に不便をかけぬようにと手紙を送りました」
「随分と気を遣ってくれるね」
「第二王子妃になられる方ですもの」
それにクリスティーネが既婚者になるまで無事でいてくれないと困る。彼女に万一のことがあれば、またこの第二王子の相手の選定に巻き込まれかねない。
「気になる話も耳にしましたし」
くるりとクリスティーネは生垣からフリードリヒへと向き直った。
「バーデン家が謹慎していた年の分も上乗せして、寄付金を王立学園に納めたそうです」
「君、そういう情報どこから拾ってくるの? 宰相のメクレンブルク公からとも思えないし」
「お父様は家族にも愚痴すら漏らさず沈黙を貫いていますわ。秘密です。バーデン家に他意がなければいいのですけど」
「他意?」
きょとんとした顔でクリスティーネを見上げるフリードリヒに、彼女はため息を吐きながら、彼女の妹同様に王立学園に在学中の第四王子の名を口にした。
「幼い頃からフリードリヒ殿下を過剰に慕うヨハン殿下が、マーリカ様との婚約を簡単に認めるとは思えません」
「ふむ……それは困るね。弟に祝福されないとなるとマーリカが気にする」
「色惚けるのもほどほどになさってください」
さくさくと芽吹いたばかりの草を踏んで、クリスティーネはフリードリヒへと近づいた。彼は一度しくじっているから釘を刺しておかなければいけない。
「寄付金を口実に彼の家の者がヨハン殿下に接触し、つけ込まれてはと申し上げているのです。バーデン家は殿下に敵意を持っております。マーリカ様にも目をつけるに決まっています」
「私に進言するなら、都合の悪い部分を言わないのはよろしくない。たしかに私はあの家に嫌われている。それと同じように君の家、メクレンブルク家はバーデン家を嫌っている」
マーリカなんて私に対して保身の欠片もないなどと惚気られて、クリスティーネは嘆息した。
「バーデン家は王家にとっても厄介な外戚です……わたくしが持ち込んだ彼の家の令息の詐欺事件。殿下が直接対処して下さっていれば、自ら嫡男を罰し謹慎を乞うなどといった先手を打たれず、彼の家の力を削ぐことが出来たはずです」
クリスティーネの話をフリードリヒはあまり気のない様子で聞いていたが、おもむろにティーポットへ手をかけると、手ずから彼のカップへお茶のお代わりを注ぎ、彼女にもいるかと尋ねてきた。
「フリードリヒ殿下」
「まあ座ったら。公爵家同士争うのは勝手……でもないか。それも困るけど、公爵令嬢が王子の私をけしかけるって結構危ない橋だよ。私も宰相家の陰謀なんて面倒なことに関わりたくない」
「わたくしは、それだけのためではっ……」
フリードリヒに反論しかけたクリスティーネだったが、彼が手で制したのに黙った。
座ってと、再度促されて不承不承に従う。
三つ年上の幼馴染は滅多なことでは人に干渉することはないけれど、こういった時は別だ。王族らしく有無を言わさないところがある。
「悪質極まりなく絶望に倒れた子爵令嬢もいた。君を慕っていた令嬢だ。被害額も莫大。それでも所詮は公爵家の令息の不始末。領地までどうこうできない。まして王太后の生家の公爵家ではね……まあ君はそちらではなく処刑台に送りたかったのかもだけど」
本当に君は公爵令嬢として正しく腹黒いのだからと、ぼやくフリードリヒを呆然と眺めながらクリスティーネは白蝶貝の扇をテーブルに置いた。
「フリードリヒ殿下……」
「公爵家を放逐されて、被害者とその家を敵に回し一生怯えて暮らすのもなかなか。どちらも選びたくはない。そうそう、法務大臣はあの時心労で自慢の巻き毛が束になって抜けたらしい」
「それは、その……お気の毒でしたわね」
「いまはふさふさしているけどね」
肩をすくめたフリードリヒの言葉に、くすりとクリスティーネは笑ってしまった。
(本当に……十年来の付き合いですけどなにを考えているのかさっぱりで、馬鹿ではないのが面倒臭い方なのだから。マーリカ様は大変ね)
そう、きっと彼女は大変だ。
フリードリヒは令嬢達に満遍なく親切でいたから、彼女との馴れ初めも数ある恋の内の一つが実を結んだと多くは受け止めているけれど、一部の者達には彼が唯一執着を見せている女性であるとも知られている。
フリードリヒは王子の中で、たぶん一番狙われている。
近づくことにさして旨みはない王族だけれど、彼がいることで文官組織の力関係は大臣達を中心に均衡が保たれている。それを内心よしとしない者もいる。
彼は能力のある者を重用し、不正を犯した者はどのような身分であっても法や文官組織の規定に従い厳正に処理する。現場の文官達とはまた別の意味で一部の者から融通の利かない“無能”と憎まれている。
「フリードリヒ殿下、バーデン家についてこれ以上なにも申しませんけれど、殿下と確執ある家であるのは確かです。本当にお気をつけください」
「そもそも王太后の気に食わない孫から確執ある王子になったの、君が持ち込んだ事案がきっかけだからね」
それに――と、続いたフリードリヒの言葉と見慣れた微笑みにクリスティーネは驚いて本当になにも言えなくなった。
「マーリカを心配してくれるのは嬉しいけれど、私が王子としてよろしくない時は私を諌めねばならないのだよ。一諸侯如きに黙って消される王子妃なんて私は選ばない」
一体、なにを考えての言葉なのか理解し難い。
そんな疑問だけがクリスティーネの中に残った。






