挿話2.三女神と鋏の影
オトマルク王国、王都リントン。
高台から栄える街を見下ろす王城は、今日もその栄華を象徴するかの如く壮麗な姿を見せている。
元は狩猟地であったという丘陵に建つ王城は、中央の建物の左右に南北へ伸びる両翼を持ち、その裏、両翼から回廊で東へ繋がる二棟と広大な規模の庭園と点在する二つの離宮で構成される。
城の内部は主要な廊下から分岐する通路に迷宮としばしば評され、王宮勤めの者であっても無関係な区画であれば通路に迷うこともある。
まだ、建国まもない頃、簡単に攻め落とされないためにそのように建てたという話。建築計画があまりに壮大かつ複雑なものであったために誤って図面と異なる形になった箇所がある話。現在の姿になるまでの増改築の結果など、諸説あるものの本当のところを知る者は今はいない。
しかしながら、王家の、とりわけ嫡流のみが知る通路があると噂であった。
「――もしやそういった通路をお使いだとか?」
「いや、それはあくまで噂話だ、エスター=テッヘン殿。そもそも近衛も側近も知らない通路があるなどと、本当に有事の際に誰も陛下や殿下達をお守りできない」
「それもそうですね」
第二王子付近衛班長アンハルト・フォン・クリスティアンの言葉に、ふむとすっきりした輪郭を描く自らの顎先を軽く掴んでマーリカは頷いた。
確かに、王族だけが逃げたところで守る者がいなければ意味がない。
「やはり噂は噂でしかないのですね」
王宮勤めも三年目になって、少しばかり気になっていた王城の謎の一つが解けてすっきりした。同時に、であればまったくもって厄介極まりないといった思いに、マーリカは優美な猫足の執務机を睨みつけてしまう。
窓と窓に挟まれた、オトマルク王家の紋章を掲げる壁を背に、そこに座っているはずの人物の姿がない。
マーリカは軽くため息を吐いて、赤茶色の髪を綺麗に撫で付けたアンハルトの顔を見上げる。
「であれば、王家直属の精鋭であるはずの護衛騎士が三人もいてこの状態はどういうことです?」
「う………っ、それは――」
「どういうことです? クリスティアン子爵殿」
「面目ない」
しゅんと肩を落とした十以上年上の美丈夫の騎士、それも侯爵家嫡男に頭を下げられるとなんだかマーリカの側が申し訳なくなってしまうが、今回は職務怠慢と彼等を少しばかり責めたくもなる。
マーリカが会議から戻るまで、くれぐれも目を離さないでほしいとお願いしていたのだから。
男性の上級文官のような、襟の縁を刺繍で飾った黒に近い深緑色の絹ビロードの上着から銀時計を取り出して、マーリカは時間を確認する。
次に予定している貿易商組合の重役達との懇談会まであと一時間もない。
夕暮れから夜にかけての衣装へ着替えもしなければいけないというのに。
「よりにもよって、狡猾極まりない商人連中との会合前に……あの無能殿下っ」
蓋を閉じた銀時計をぎりっと握り締めた拳を震わせ、低く呻くようなマーリカの呟きに、アンハルトの背後に控える彼の部下二名がひくりと頬を引き攣らせる。
マーリカは伯爵令嬢ながら、国王陛下の家臣の一人として王宮に仕える文官令嬢。艶やかな黒髪を引っ詰めた男装姿も麗しき、黒い瞳も涼やかな美女である。
彼女が静かに怒る様は、美しいだけに凍りつくような冷ややかさで……端的に言えば女王でも怒らせたような迫力がある。
一番若い騎士が若干青い顔色になっているのを見てとったアンハルトは、これは後で酒の一杯でも奢ってやらねばなるまいと内心嘆息した。
マーリカが口にした無能殿下こと第二王子のフリードリヒを見失ったのは彼で、大臣へちょっと用事があるからと廊下に出た彼に一瞬の隙をつかれて通路の分岐で巻かれたのである。
「……ここで問答を続けても仕方がありません」
絶対に、さぼるか気晴らしと称して執務室から抜け出すと、マーリカは朝から嫌な予感がしていたのである。
大体、会議の場へ向かうマーリカをにこにこと送り出した顔を見ればわかる。
だから念押ししておいたのに、やはりこうなったか……とマーリカはぐっと一度目を瞑って頭を切り替えた。
後に厄介な会合が控え、フリードリヒの性格を知っていながら自らの予定を調整できなかった自身の責任である、と。
深謀遠慮を要求される王国の文官組織の長、第二王子フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。
「公務へのやる気はまったくないにせよ、すっぽかすほど愚かな方ではありません。今回は王城内にいるはずです」
マーリカが最優先すべきは、第二王子付筆頭秘書官としてフリードリヒが彼の務めを果たせるように尽力することであるのだから。
「探します」
「……実際、貴女が何度も連れ戻している実績に、部下が油断しているところがあるのは否めない」
「開き直られては困ります。殿下を見失ったのはどの辺りですか?」
アンハルトの部下からフリードリヒを見失った場所を手短に聞きだすと、くるりとマーリカは踵を返して出入口の扉へと向かう。
「それほど離れた場所ではないはずです。私は南廊下側から探します、クリスティアン子爵殿達は西廊下側を。あちらは中庭も近く範囲が広いですから」
「承知した」
まったく万一があったらどうするのですとぼやきながら、令嬢にしては凛々し過ぎる後ろ姿を見せるマーリカに、大したご令嬢だとアンハルトは内心呟く。
探すと一口に言い、範囲はある程度絞られているものの王城は広く廊下には無数の部屋に細かい通路もあるというのに、事もなげに。
「正直、こちらに欲しい人材だな」
第二王子付近衛班長は表向き。本当の肩書きは公安と対諜報を担当する諜報部隊第八局長にして、武官組織を束ねる王太子の側近であるアンハルトは口の中で呟くと、彼も部下を引き連れて第二王子の執務室を出た。
おそらくフリードリヒを見つけ、その首根っこを掴んで戻ってくるのはマーリカだろうと思いながら。
(万一に関しては、まったく心配ない王子ではあるが。護衛……お目付け役として面目が立たないのはたしかだな)
アンハルトは王太子と歳の近い取り巻きの侯爵家令息として、王太子の弟であるフリードリヒと幼い頃からの付き合いである。
彼の六つ下のあの第二王子は、王族として、その性格も資質も色々と特異だ。
幼い頃は無能どころか神童めいた恐るべき王子だった。
そしていまの比ではない怠惰さの王子でもあった。剣術の稽古から早く逃れたくて、人の関節を正確に狙って剣を振り回すような……。
(若気の至りとはいえ、幼い王子と侮って自分から一本取ればなんて言うものじゃない)
年配者としてフリードリヒの練習相手となった、アンハルトにとっていまも忘れられない出来事の一つである。
いち早く気がついた剣術の教師に型が酷すぎると、すぐさま王太子や自分達王族の競争相手となる貴族の子供達から引き離され、教師のみによる訓練が組まれることになったが。
(王族や貴族が嗜むべき剣術として、まるでなっていないのは間違いないが……)
フリードリヒ自身も、剣術などぎりぎり及第点止まりで苦手と公言している。
雄々しい容姿で厳格な兄の王太子と対照的に温厚な優男であるから、周囲も本人の言を信じている。
しかし、実戦や危機的状態で身を守るといった点では、特殊訓練を受けた者顔負けであるとアンハルトは知っている。
なにしろ彼は仕方ないとなれば躊躇いがない。一度だけ、不正を犯した貴族の悪事をうっかり暴いてしまって狙われ囲まれた時、こちらが手助けする間もなく対峙した全員を再起不能にした。ああいった場合、殺さないで動けなくする方が難しいというのに。
彼が道を踏み外さないよう、構い倒して甘やかし道徳教育を徹底して行った国王陛下と王太子殿下の判断は正しい。
絶対に、あの王子だけは本気で怒らせてはいけないとアンハルトは思っている。
(それ以前に、妙な回避能力と呆れるほどの強運を持つ方でもあるし)
古代神話の、国や人の行く末を守護する昼と夜と黄昏の三女神に愛されているかの如く――。
*****
第二王子のフリードリヒ付秘書官になって半年足らずなマーリカではあったが、何故か公務をさぼって執務室を抜け出すフリードリヒの行き先を王城内であればなんとなく読み取ることができた。
前の職務が、武官組織と文官組織の間で様々な行事毎の調整事項の連携をとるために動く調整官だったこともあるかもしれない。面識もなく間接的にではあるもののフリードリヒには随分と仕事で振り回された。
「どうしてじっとしていられないのだろう……あの方は」
王族の執務室近くである。高官くらいしか行き来しない廊下は人の姿はまばらであるが、人の目がないわけではない。
そういった廊下をマーリカは選んで歩く。
普通、逃げ出そうとする者は人の目がない方を選びそうなものだが、フリードリヒは堂々と人の目がある場所を歩いて、王城にこんな場所があったのかといった部屋や場所へ逃げ込む。
「王子だけに、この広い王城も自分の家の中といった感覚なのだろうけど」
たぶん彼は、迷宮ともいわれる王城の内部を把握している。でなければこうして護衛を巻いて不意に姿を消したり、王城の要所にいる衛兵の目をかいくぐりお忍びで外に出たりできるはずがない。
「無能殿下なんて呼ばれてるくせに、愚かじゃないのが本当に腹立つ!」
むしろ素地としては王族らしくかなり優秀なのではないかと思える時すらあるのだ。例えば、マーリカが調整官といった上級官吏とは名ばかりな末端も末端の文官であった頃。彼女が席にいない時を狙ってフリードリヒ付の秘書官が置いていく依頼文書の内容を読んだ時など度々そう感じた。
本当に、関係者を振り回すようなことしか書いていない依頼文書ばかりだったし、そのためにマーリカは何度関係各所の人々から嫌味を言われ、ひどい時には罵倒され、休日を返上して深夜まで仕事する羽目に陥ったか知れない。
思い出すだけでも業腹だが、気まぐれとしか思えない視察や式典参加の道程の変更で、安全確保が難しい場所が指定されたことは一度もない。
当時の秘書官達はフリードリヒに言われるがまま右から左へ、安全確保やそのための調整は武官やマーリカの仕事として丸投げで、調べることもしていなかった。
「調整や準備期間の概念がないのは無能めと思うけれど……それはむしろ秘書官や周囲の者が諌めるところでもあるし」
たぶん、他の文官達が揶揄するような意味で、無能で愚かな王子ではない。
そんな前提があったらからだ。
昨年秋、大豊穣祭関係の調整がようやく目処がついたところに直前に差し込まれた文書に流石にこれはないと憤り、事情確認に向かった秘書官の詰所で彼らの怠慢を知り、連勤疲れもあって理性を失い、気がつけばマーリカは彼の執務室へ押し入っていた。
周囲に諌める者がいないのなら、自分がなどとと青いことも少しばかりあったような気もする。
(ああっ! 本当に! いまこうなっているからいいものの、どちらが愚かなのだか、軽率極まりない)
フリードリヒは、なにか思いがけない出会いのような言い方であの時のことを時折口にするが、その度にマーリカはわあっと叫んでその口を塞ぎにかかりたい衝動にかられる。
それくらい恥ずかしい失態だと思っているし、実際そうだ。
あまりにくだらない変更理由だったからといって、第二王子を壁際に追い詰め、胸ぐら掴んで往復で平手打ちなど、ただの暴徒や蛮族と変わりない。
はあっ、とため息を吐いた声がやけに大きく響いてマーリカは我に返って歩みを止めて廊下の先を見た。フリードリヒの執務室のある左翼の棟からいつの間にか中央の棟の境に来ていた。
けれど、人の気配がまったくない。
使用人の通路が内部に隠された厚い壁を隔てて、人が行き交う大廊下とは一つ通路が違う。
街を見下ろすのとは反対側、庭園に面している廊下だ。
円柱とアーチ天井が続くそこは、女神の廊下と呼ばれている。
庭園のある東側に大きく開いた窓が連なり、白大理石で造られている廊下であることもあって、やけに白っぽい明るさだった。
その名の通り、連なる窓三つ分に渡る壁面を使って、古代神話の三女神が描かれている。
昼と夜と黄昏、三女神は国の行く末や人の一生を見守る女神であるという。
描いた画家は不明で、しかし時を超える美しい壁画であることは間違いない。
その三女神の、真ん中に描かれた黄昏の女神の足元に、ぽつんと佇む人影を見つけてマーリカは足早に近づいた。
「殿下!」
マーリカが張り上げた声が廊下に反響し、人影がゆっくりと首を回して彼女にその顔を向けた。軽く波打つ綺麗な金髪に空色の瞳。
探していたフリードリヒその人だった。
「あれ、どうしたのマーリカ。こんなところで」
「それはこちらの台詞です。まったく護衛を巻いてなにをしているのです」
「ん? あー……そういえば。ちょっと息抜きにぶらっとしようかと思ったんだった」
「殿下。あと三十分程で貿易商組合との懇談会ですが?」
王子がちょっと息抜きに護衛を巻いてぶらっとするなと、マーリカが軽く彼を見据えて低く呟けば、慌ててフリードリヒはもう戻ろうかなと思っていたよと取り繕った。
絶対、嘘だ。
戻るつもりはあったにしても、マーリカが見つけて声をかけなければ、時間ぎりぎりまでここでぼんやりしていたに違いない。そんな様子だった。
「……急ぎ、夕刻の衣装にお召し替えを」
「はー、面倒だねえ」
その証拠に、マーリカからすぐ絵の描かれた壁へと視線を戻して動こうとしない。
フリードリヒが美しいものが好きなのは知っている。芸術方面には造詣が深い人であるらしいし、芸術家を支援する協会の理事にも王家の慈善事業の一環で名を連ねている。
たしかに三女神の壁画は美しい。王城を守護しているといった話もある。
けれどあまりに昔から当たり前にある壁画なので、王城に仕える者や住まう者にとっては見慣れた景色の一つでしかない。
「三女神の壁画がなにか?」
フリードリヒのすぐ隣の位置まで近寄って、マーリカは彼と同じように壁画を見た。三女神は一本の長い金色の糸をそれぞれの手に渡している。
それは運命だとか人の一生を象徴している糸であるという。
「黄昏の女神の足元に」
「え?」
フリードリヒの言葉に、マーリカはなんだとその足元を見たがなんでもない草花が描かれているだけだ。
「この野の花ですか?」
「違う……やっぱり、マーリカも気がつかないか」
若干落胆するような調子に、なんなのだとマーリカは眉間に皺をわずかに寄せる。戻ろうかと体の向きを変えたフリードリヒをマーリカは止めた。
問いかけておいて、気がつかないかで終わらされては不可解で気持ちが悪い。
「なにに気がついていないのでしょうか?」
「知りたいの」
「はい」
「んー、別に知ってもなんだということだけど……」
「でしたら、教えてくださってもいいでしょう」
マーリカが食い下がれば、そことフリードリヒが壁画の下部、黄昏の女神の足元を指さした。
「鋏」
「はさみ?」
「糸を切るやつ、そこに」
言われて初めて気がついた。たしかに草花の描かれた葉陰に隠れるように糸を切る鋏が描き込まれている。
「……気がつきませんでした」
そう頻繁に通る廊下ではないが、それでも何度か通っているし、壁画も何度も目にしている。王宮に出入りするようになって初めて見かけた時など見事だとしばし眺めたことだって……けれどフリードリヒの言う通り全然気がつかなかった。
「丁度、子供の背丈の目線の位置にあるのだよね」
そういって、しゃがみ込んだフリードリヒにマーリカは少々面食らう。
そりゃそうだろう。
王子が廊下の真ん中にしゃがみ込むなんて酔狂な振る舞いでしかない。
「夜中にさあ、寝所を抜け出して探検したことがあるんだよねえ。四つの頃に」
「……なにをしているんです。でもって王族のお住まいの区画からかなり離れておりますが?」
「だって探検だもん」
探検だもんではない。
幼い王子が夜中に部屋を抜け出していなくなるなど一大事だ。
それに四つの頃であれば、まだ第三王子は生まれていない。
二人しかいない王子の一人である。
「大騒ぎになるようなことです」
「見つかればね」
フリードリヒの言葉に、当時の衛兵や見回りの者はなにをしていたのかとマーリカは思う。いくら子供だからって、寝所からここまで来るのに明かりなしではなかったはずだ。
「私そういうの得意だから。配置も大体わかっていたし」
「そういった知恵の回りはあって、何故公務はああもいい加減なのです」
「さあね。で、この絵の前にきて」
「描かれた鋏に気が付いたと」
「正確には、その刃に写る影にね」
「影?」
「そう、ほらここに人影が写っている」
座り込んだまま、その位置を示すフリードリヒの指先をマーリカも身を屈めるようにして覗き込む。小さな鋏の銀色の刃の中ほどに灰色の影がさっと筆を掠めたような塗り方で描かれている。
「女神の糸を切ろうとする者が、この絵からはみ出た場所にいるのだよ」
「……」
「きっとなにかの寓意なのだろうね。あるいは戒めか。ふと思い出しちゃってね。ついぼんやり眺めていたってわけ」
マーリカは、幼い日のフリードリヒの探検の場面を想像した。
夜の闇に沈んだ廊下。手にしていたのは燭台かランプか……蝋燭の小さな光を頼りに王城の中を歩き壁画の前に立った子供。
月の薄明りに、白大理石に描かれた絵が暗い廊下に浮かび上がるように見えたかもしれない。
子供の目にこの壁画は巨大だ。
きっと明かりを目の位置まで持ち上げて。
鋏の刃に描き込まれた影は、子供だったフリードリヒの頭の影が写ったように見えたかも……そこまで考えてマーリカはどきりとした。
それ以上は、思い浮かべてはいけない情景のような気がする。
それなのに。
「手を伸ばしても、絵の中の鋏は手にとれなかったのだけどね」
その続きをなんでもないように、フリードリヒは彼女に話して聞かせたのだった。
「時間は?」
「あ、ええ……急ぎましょう」
「上着だけを、さっと取り替えるではだめ?」
「きちんとお召し替えください。衣装は揃えて、侍従も待機しております」
盛装って気分ではないのだけどねえ、とぼやきながら歩くフリードリヒに公務や儀礼に気分もなにもありませんと言いながら、マーリカはなんとも言えない感情に胸の奥がざわついていた。
幼いこの人は何故、手を伸ばしたのだろう。
三女神がそれぞれの手に渡している金色の糸は、運命だとか人の一生を象徴しているという――それを切るということは。
「たとえ子供の悪戯心であっても感心しません」
「なにが?」
「先ほどのお話です。絵の中の鋏は手に取れないのは当然です。ですが手にとろうとするような殿下を見かけたら、諌めてお部屋へ連れ帰ります」
誰かに見られていたら、幼いとはいえ王子であるだけにどんな噂が立つかもわからない。不吉が過ぎる。
誰の目に触れることもなく、抜け出したとことも見つからなくて幸いだった。
この人は、幼い頃から人を困惑させるような迷惑な振る舞いする人だったのか。そんなことを思いながら足を早めて、フリードリヒを促しマーリカは廊下を歩く。
「ふうん。それはまた……ふふ」
なにがおかしいのだろう。
笑みを漏らしたフリードリヒを、じとりと横目にマーリカは見た。
「なにがおかしいのです?」
「いや、実に頼もしいね」
「は?」
「うん、王族だからって正しいわけではないしね」
「なにを当たり前のことを。失礼ながら、殿下の周囲は少々殿下を甘やし過ぎです。大体、王子でありながら一人でぶらぶらするってなんです! 少しはご自分の立場というものを……」
子供の頃からの抜け出し癖なんて先が思いやられる。
あの近衛班長もフリードリヒとは長い付き合いのはずなのに警戒の目が緩い。
前任の右から左へな秘書官といい、側に仕える者がこの人を止めねば誰が止めるというのだ。
「あーうん、わかった。自重する!」
「約束ですよ」
「ちょっとは……少しだけは自重する」
「なに条件を緩めようとしているのです」
「だって!」
「だってじゃない!」
「首っ……首が締まるっ……マーリカああ!」
左翼の東側廊下まで来ればもう遠慮はいらない。
フリードリヒの首の後ろの襟を掴んでマーリカは、すたすたと小走りに支度部屋の前までくると彼をその中へ放り込んだ。
王子をなんだと思っているのだとフリードリヒが喚く声が聞こえたが、知ったことかとマーリカは無視した。
そういうことは第二王子としてのお務めを果たしてから言ってほしい。
まして、幼い日の出来事への恐れを口にするのなら尚更。
「マーリカ!」
「わたしは真っ当な家臣であるつもりです。それに殿下の秘書官として殿下が務めを果たせるように尽力することが最優先ですので」
そう支度部屋の扉越しに答えれば、しんと静かになった。
どうやら観念してくれたらしい。
マーリカは銀時計を取り出し残る時間を確かめると、世話の焼けると息を吐いた。






