13.人の気も知らないで
けほ、けほっと、マーリカは軽く握った手を口元に当てて咳き込んだ。
高熱が下がって目が覚めたと思ったら、翌日の午後から寒気がして喉が痛みだし咳が出始めた。
下がりかけていた熱は再び上がり、医官に感冒だと診断される。
うつらうつら微睡んでは、どろどろの雑穀粥と水薬と水を順番に飲んで、またうつらうつら微睡むを丸一日半繰り返していた。
ようやく熱は下がったもののまだ倦怠感はある。
(もういい加減、治る方へ向かって欲しい)
咳が収まって、うんざりした気分でマーリカはため息を吐く。
七日も眠り込んだ高熱は事故のショックや打身や怪我の影響、それと過労のためでもあったらしい。
怪我は左足の骨にヒビが入り、左腕も捻挫している。他にも切り傷や打身がいくつか。
幸い寝り込んでいる間に痛みは薄れ、寝ている分にはそれほど苦にならない。
たまに忘れて動かしてしまい、痛みに涙目になったりはしているけれど。
ともあれ怪我が比較的軽傷で済んだのは、寒いから帽子を被って厚着していたおかげのようだ。
目立って残りそうな傷もなさそうで、利き腕も痛めなかったし、着込んでいてよかったとマーリカは思った。
ブランケットやクッションなど、車中に積んでいたものが衝撃からマーリカを守り、湖の浅瀬に転倒して馬車が大破せずに済んだことも大きい。
ただ医官の話では、怪我や高熱より、救助直後の体が冷え切っていたことの方が大変だったらしい。
早く、適切に救助してもらっていなければ危なかったと聞かされて、マーリカは寝台の中でまだ熱があるのに背筋が冷たくなった。冬場、林道の途中で事故なんてそうそう気がついてはもらえない。
有り得ないほど運が良いと言われて、なんとなくマーリカはフリードリヒを思い浮かべた。彼の強運のおこぼれに預かったのかもしれないと、そんな馬鹿げたことまで考えてしまった。
(たまたま近くに訓練中の騎士団の一部隊がいてということだったけれど……そんな偶然ってあるものかしら)
二週間近く実家の伯爵家で令嬢として過ごし、その後も仕事から切り離されているため、令嬢としての自分が少し尾を引いている。
熱が下がっても寝ていることしかできず、あれこれと一人、寝台でとりとめなく考えに耽っていると特に。
寝具の中で右腕を動かし、マーリカは少し身を起こした。
食事は偉大だ。どろどろの雑穀粥でも食べるようになったら、日に日に動けるようになってきている。
(殿下がいたら、一瞬でそんなものは吹き飛んでしまうけれど……それはともかく、あれはずるい)
普通、大丈夫かとか、痛むところはとか。事故にあった人を訪ねたらその人に状態を尋ねるものだろう。けれど、フリードリヒはマーリカと顔を合わせて一言もそんな言葉を口にしなかった。
マーリカが七日眠っていた事実と状態を伝え、乾き切っていた喉を潤しマーリカが話す手助けをした他は、まるで普段通り。
人がこんな状態でもお構いなし。勝手気儘で無茶苦茶なことを言う、いつも通りな“無能殿下”であるだけでなく、簡単に彼の言葉に黙ったマーリカに「本調子じゃない」ように言って、つまらなそうにしたのだから呆れてしまう。
けれど同時に、彼の中では休暇前と何一つ変わらず秘書官なのかと、なんだかほっとしてしまったのも事実だ。
(それなのに、どうしてなにを言うより先に「解任ください」なんて……でも、こんな大穴開けて当面満足には務めを果たせないとなっては……殿下がそのあたり寛容なのをいいことに日頃、悪態吐いていただけに)
けれど結局、解任の件はフリードリヒにうやむやにされてしまった。眠っていた間も、約一ヶ月といった医官が見立てた療養期間も、すべて溜めに溜めていた休暇の消化で問題なしということにもされた。
文官ではなく、伯爵令嬢として仕事一切を忘れて療養に専念しろといった命令まで。
(事故は事故ではなく、鉄道利権がらみの逆恨みでとは、殿下から聞いたけれど……これもなんだか)
もう処理も終わって大丈夫、くらいのことしか聞けていない。
普段のフリードリヒならそんな迅速な対処有り得ない。王太子殿下が動いてのことと聞いてそれならと一応の納得はしたけれど。
(この高待遇な療養だって王太子殿下のお心違いということだけれど、第二王子付といってもわたしは一介の秘書官でしかないのに……)
釈然としない思いでいたらまた咳が出た。
喉の奥に不快な熱と痛みがまとわりついているのが煩わしい。
寝台の側に交代で介護についている侍女に、すみませんとマーリカは掠れた声で呼びかける。
「どうされましたか、マーリカ様」
咳込んだせいか荒れた喉が辛い。
少しでも喉がましになるようなハーブティーはないかと尋ねて、入れてもらえないかと頼む。
「そうですね。かしこまりました」
「お願いします」
「ああ、そうですわ。フリードリヒ殿下のお見舞いのバラの実を煮詰めましたから、そちらのシロップをお持ちしますね」
「……」
侍女の言葉にマーリカは一気に複雑な気分になった。
咳が出始めてすぐ、様子を見に来るフリードリヒを部屋から追い出し、マーリカは来るなと彼に言った。
当然だ。疲労や怪我の熱ならともかく、人に感染る感冒にかかって王族を近づけさせるわけにはいかない。
それなのに人が眠っている隙に様子を見にきているらしい。
先ほど侍女が言っていたバラの実もハンカチに包まれて、侍女も知らない内にいつの間にかサイドテーブルに置かれていた。他にも小さな瑪瑙のような小石が枕元に置いてあったりだとか。
(おそらく離宮の庭にあるもの? なにを考えてこんな子供みたいなこと……本当にずっと離宮にもいるし)
子供じみた見舞いの品に侍女はくすくすと笑う。それはそうだろう。金でも宝石でもいくらでも持っているような王国の第二王子なのだから。
威厳に関わらないか少々心配になる。“無能殿下”なんて文官達から揶揄されていていまさらかもしれないけれど。
(いつもながら、なにを考えているのかさっぱりわからない。心配してくださっているのか、人が困惑するのを見て面白がっているのか……というか、近づくなと言っているのに。ご自分の立場をなんだと思って……)
勘弁してほしい。いまは怒る元気がない。
侍女の笑みはなんだかマーリカにも向けられている気がして、なんとなく居心地の悪い気恥ずかしさも覚える。
再びため息を吐き、寝具の中に潜り込んで目を閉じる。
体が怠くてすぐうつらうつらしてしまう。文官になってからの睡眠不足を取り返すように眠っていると思う。
(それに心配してくれてるとしたら……それはそれで、なんだか……)
幼い頃からマーリカを構い、揶揄いながらも甘やかす従兄弟や再従兄弟のようで、懐かしみも刺激されてほんの少しうれしい気持ちもあるのは否定できない。こういった小さな贈り物は、時に、贅沢な贈り物よりうれしいものだ。
マーリカは王宮勤めの文官で、フリードリヒに仕える秘書官である。日頃から、仕事のためとはいえかなり不敬な対応もしているから、兄のような親族が自分を甘やかすのとは違うと思ってはいるけれど。
いずれ誰か第二王子妃として寄り添うことになる社交の場にいる令嬢とは違うのだから。
「第二王子妃、か……」
フリードリヒは二十六歳。王族や高位な貴族には珍しく、婚約者すら決まっていないけれど、結婚していてもおかしくない年齢ではある。立場的にもこのまま第二王子がいつまでも独り身でいるなんて有り得ない。
第二王子妃候補が確定したら、流石に秘書官は解任されることにはなるだろうなとマーリカは思う。
執務とはいえ四六時中他の女性が側にいるというのは、妃殿下からみて心安からぬことだ。
(第三王子のアルブレヒト殿下が補佐について、部下の秘書官達だけでも当面なんとかできそうなら、これを機にやはり解任してもらうのがいいのかも……引き継ぎなどもできるうちに)
実家の経済状況をいくらか助けられるなら、それこそ再従兄弟の伝手もありかもしれない。あちらは王国よりずっと貴族女性が働くことに寛容だと聞いたことだし、などと考えていたら部屋のドアが開く音が聞こえた。
「ああ、ありがとうございます」
寝具に潜り込んでいたので、もぞもぞと這い上がる。
侍女のエプロンを付けた薄灰色っぽい制服のスカートが見えるのを想定していたマーリカだったが、上等な革のブーツとそれに続く生成りのトラウザースを見て、彼女はぎゅっと眉根を寄せた。
「なにもしていないけど、なんのお礼?」
「……来てはいけませんと申し上げたはずですが?」
「言ってたね。気がついていると思うけど実は三度来ている」
「殿下……」
ごろりとマーリカが仰向けになって目を動かせば、さっきまで侍女がいた椅子に腰掛けて足を組むフリードリヒの姿が見えた。
「声が掠れているねマーリカ。喉が辛そうだ。しみるかもしれないけれど、はいこれ」
寝具から出した顔の口元に小さな赤い実を押し付けられて、仕方なく口を開く。
甘酸っぱい味と果汁が口の中に広がる。
どろどろの雑穀粥と水薬にうんざりしていた口にはうれしいが、軽く果汁が喉にしみた痛みで少しばかりマーリカは顔を顰めた。
なにがおかしいのか、フリードリヒがくすりと笑む。
「人が苦しむ様が楽しいですか……」
「いや、可愛らしいなと」
「?!……っ」
想定外の言葉に咳が出た。
慌ててマーリカはフリードリヒとは反対方向へ顔を向けて寝具の中に顔を伏せる。
「大丈夫? 咽せた?」
「いえ、咳です。殿下、本当に……」
「三度もきてたら同じだと思うよ。蜂蜜も持ってきたらよかったかな」
「殿下っ……けほっ……」
「事の発端も、感冒も、そもそも私が発生させたようなものだし。マーリカから戻ってきたところでねえ」
「なにを……ごほっ、わけのわからないことを……っ」
「それに“愚者は病にかかっても気づかない”っていうじゃない」
咳が落ち着いたところで、はいと再び赤い実を寝具の隙間へ指を差し込むように口元へ押しつけられる。
実の汁で寝具を汚してもなので、大人しく口に収めるしかない。
「……なんです? これ」
「フユイチゴ。この離宮の庭は色々なものが採取できてなかなか面白いのだよ」
「それで採れたものを見せに……、ん」
飲み込めばまた次の実が押し当てられるので、熱で消耗していて抵抗する気力が出ないマーリカは根負けし、寝具から顔を出してフリードリヒを睨みつける。
とはいえフユイチゴの実を食べさせられるばかりで、間の抜けた感じにしかならなかったけれど。
「それもあるけど、お見舞い」
七つ八つ食べさせられたところでなくなったらしい。フリードリヒの手が彼の膝からハンカチを掴んでサイドテーブルへと動く。
「お見舞いはもういいです……殿下は無能であっても、愚者ではないと思いますが?」
「アルブレヒトが本を置いていったけど、もう少し後かな」
手袋をつけない乾いた手がマーリカの額に触れて、顔が熱くなる。
どうしてこんなことになっているのか、まるで従兄弟や再従兄弟のように接してくるフリードリヒに困惑する。
「一体なんです」
「なにって?」
「先ほどから……こんな。わたしは妹君でも懇意な令嬢でも……」
「仕事も終わらせたし、お互い休暇中だし、私に最も身近なマーリカ嬢を甘やかしたい」
「……は?」
思い切り顔を歪めて、まじまじとマーリカはフリードリヒの顔を見る。
そんなマーリカの視線を黙って鷹揚に受け止めているフリードリヒは、なにか深淵な賢しいことを考えているようにも見える。見えるだけだが。
(まったく言動が意味不明なのに、なにかそうする意味でもありそうに見える、この顔っ!)
マーリカを見下ろしている瞳は、どこまで澄んだ空色で誠実さと凛々しさすら感じさせる眼差であるし。
短めに整えた、柔らかな光を放つ波打つ金髪が頬にかかっている様は、どこかもの憂げな雰囲気を醸し出してもいる。
その頬は相変わらず羨ましいまでにしみひとつなく滑らかで、通った鼻筋や引き締まった口元も……本当に、絶対なにも深い意味もなければ考えもないとわかっているはずなのに、なんだか胸の奥がざわざわしている自分が腹立たしい。
「うん、どの程度甘やかしたいかと聞かれれば、次に君が従兄弟だの再従兄弟だのに構われても物足りないと思うくらいにはかな」
「誰もそんなことは聞いてはおりませんが?」
「じゃあ聞いてよ」
「……どうしてまたそんな酔狂なことを。何故わたしの親族を引き合いに?」
我ながら律儀に聞くのはおかしいと思うものの、こういったフリードリヒの突飛な言動にはなにかしら彼なりの理屈があることも知っているので、マーリカは一応尋ねる。
「美形の家系とは聞いてたけどさ、あんな夜会の場に出て来たら男女構わず掻っ攫いそうなの二人がかりで、小さい頃からよしよしされてるって、絵面を想像しただけでもなんかもう面白くない」
「面白くない……」
「うん、面白くない」
「……絵面というのはよくわかりませんが、いくら殿下でも、人の親類付き合いをとやかく言う筋合いはないかと」
「とやかく言う気はないけど、負けたくはない!」
「なにと戦ってるんです……」
「私はちょっと近づいただけで破廉恥事案って怒られるのに、親類ってだけで撫で放題ハグし放題お菓子を手ずから食べさせ放題って……」
「な……ちょっ、ちょっと待ってくださいっ、ど、どうしてそんな事を殿下がっ……!!」
わーっと叫んでフリードリヒの言葉を遮りたいのをなんとか抑えて、マーリカは慌てて彼が話すのを止める。
羞恥で顔が熱い、絶対に真っ赤になっていると自分でもわかる。
兄同然の従兄弟や再従兄弟に小さい頃からたしかにそんなふうに構われてはいる。いるけれど、それを他人の、しかも最も身近で自分が仕えるフリードリヒの口から言われるは恥ずかし過ぎる。
「ん? 君の従兄弟だか再従兄弟だかに直接聞かされたからだけど? 事故の件で、エスター=テッヘン家を訪ねた時に」
「わたしの実家に、殿下が!?」
「あれ、言わなかった?」
「聞いていません!」
「ほら私一応マーリカの上官だから。お預かりしたお嬢さんがこんな事になったお詫びついでに彼の国との取次を……君の親族便利だねえ」
使い様によっては、お父上を介して大陸中の国と内々で接触できると呟いたフリードリヒの言葉は、彼が自分の実家を訪れていた衝撃で頭が一杯になってしまっていたマーリカの耳には入らなかった。
フリードリヒにしても便利だなとは思ったけれど、そんな面倒そうなのは兄や弟が上手いことしてくれればいい。
「こんなに弱ってるマーリカ珍しいし、甘やかされ慣れた妹みたいなところがあるなら見てみたいし、いっそ私の手でどろどろに甘やかし私がいないと駄目なマーリカにもしてみたい」
「……病床の人間で遊ぶのもいい加減にしろ」
人の気も知らないで、感冒でもなんでもそんなに感染されたいなら、感染って高熱にでも苦しめとマーリカは思ったのだった。






