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第五十二話「肉体の癒合が不完全な今が、最後の勝機」

 



 貝殻の主成分、炭酸カルシウムを加熱することで生石灰――酸化カルシウムが得られる。

 生石灰は容易に得られるが、適度な水を加えることで、1kgあたりおおよそ1.2MJの熱量を放出する。平たく言えば危険物であり、人の肌に触れたり吸入したりすると、人体の水分と反応して火傷や炎症を引き起こす。



 であるからこそ、生石灰の粉塵に晒されたとしても、服を着ている人間のほうが生身むき出しの触手よりも有利である。



 これに加えて、空気の流れで粉塵の制御を行う。

 物質の拡散に関する基本法則、フィックの方程式は、濃度C_iと拡散係数D_iで以下のように表記できる。



 ∂C_i / ∂t = D_i(∂^2 C_i / ∂x^2) ・・・ ※ 非定常拡散現象を仮定したときの式



 他の二次偏微分方程式と同様、初期条件および境界条件を与えることで、上記の式から求めるものが得られる。

 そしてここに、乱流に関する統計的手法を追加することで、汚染物質の拡散の式――サットンの式が得られる。より計算が簡便なモデルに仮定する条件は、風速は一定、というものだが、これを逆手にとって(・・・・・・)拡散させたい方向に一定の風が吹くように魔術を発動してシミュレーションを行えばいいのだ。



 服で身を守り、粉体の拡散制御で身を守り――さらに念の為、簡易な障壁魔術と治癒魔術で全身を守る。

 この生石灰の煙幕攻撃は、水分の吸収と数百℃の発熱を行う凶悪な攻撃である。表皮の乾燥と裂創、広範囲の火傷は、軽く見てはいけない。人で喩えるとこの責め苦は、眼球を吸水乾燥させて、発熱で表皮を壊死させるようなものである。



 もっと言えば――触手のように、ぬるぬる濡れていて、根っこが固定されていてその場から逃げられない間抜けな生物に大ダメージを与えるのに、まさにうってつけなのである。



 乾いて固まり、干からびて中折れした触手が、天井からぼろぼろと落ちていく。

 その身を緩やかに再生する先から、また新たな生石灰を吹き付けられては綻び――触手は徐々に、徐々にその身を小さく削っていく。最初に中心に一発ぶち込んだのが功を奏した。中心が大きく抉れたおかげで、触手は、身を丸くして防御することがほぼできなくなっている。



 いかに無限に再生すると言っても、粉の風で絶え間なく乾燥させ続ける責め苦は厳しいはずである。



(双頭のキラーアントの女王種か……本当に次から次へと災難がやってくるな)



 動きを鈍くしつつもこちらを追ってくる触手から逃れ、三つ目のオルフィレウスの輪を組み上げる。幼虫たちを蹴飛ばしながら、俺とナーシュカは荒くなった呼吸を整えた。



 わずかな均衡の揺らぎ。

 勝負の趨勢の変化。



 触手には甚大な負傷を与えた。それも魔力の消費をかなり抑えて、ほぼ道具のみを使用して、である。

 キラーアントの女王にも、珪藻土とホウ酸の粉末でほぼ致命傷を与えている。時間が経過した今、女王はすでに動きが精細を欠いており、破れかぶれになっている。まさに往生際にあるように見えた。

 次々と女王に生み出されていた幼虫たちも、数が徐々に減っている。幼虫らは群れをなして結界を破損している俺たちへと何度も押し寄せてくるが、召喚された英雄や鬼たちがそれを押し返している。

 背後から来た新たなキラーアントたちも、ユースティティアや篠宮さんを筆頭としたみんなの魔術で、次々と撃ち抜かれたり押しつぶされたりしている。触手による妨害が緩和した今、じりじりと波を押し返すことができている。



 絶望的だった状況に一筋の光明が差した。最大の障壁は、あの奇形のキラーアントの新女王の纏う、不穏な気配のみ。



 今。

 右目に宿した三重のオルフィレウスの輪を通して、ほんのわずか、双頭の新女王と目を合わせる。

 濃密になる死闘の気配。緊張感が極端に高まる。



 そして。



「! 気を付けて! 触手がまだ暴れてる!」



「! 皆下がれ、女王が腹部を破いて蟻酸をまき散らしはじめた!」



 アイリーンとアネモイの声が重なる。二方面からの襲撃。

 攻撃を回避するため一瞬視界を外した隙に、双頭の新女王は大きく跳躍した。

 強烈な衝突音。間に入った『大楯のエル・デ・テレウス』が巧みに衝撃を上に逃がしていた。

 だが、双頭の新女王は止まらない。



「っ、Sióga, déanaimis rith ar shiúl――楽式:精霊遁走曲(精霊のフーガ)!」



 苦し気につぶやくターニャを中心に淡い輝きが渦巻く。

 妖精たちの奔流。光が背中を後押ししてその場から逃がさせる。ナーシュカと俺の頭上をかすめたのは、新女王の鋭い(あぎと)だった。



(もののついでだ、一発食らっときな!)



 ほぼ無制御のアストラル体の暴走――小さな疑似アストラル・バーストを敵の顔面にぶち込んだ俺は、そのまま衝撃を利用して横に吹き飛んだ。量子重ね合わせ状態の極低温マナ・マテリアルを、急激に加熱することで引き起こされた爆発現象。

 俺の隠し切り札の一つ。腰のポーチに密かに隠し持っていた高密度マナ・マテリアル。もともとこれで触手を吹き飛ばすつもりだったが、節約できたこの切り札を切るなら今が望ましい。



 がきん、と強烈な衝撃が走る。ナーシュカの呻き声。緊急展開された障壁が粉砕される。

 見ると、今度は死にかけの古女王が、いつの間にか俺とナーシュカを壁に押しつぶさんと捨て身の体当たりをしていた。



(何てしぶとい!)



 ナーシュカが背中で耐えてる隙に、もう一つの隠し切り札、左腕の仕込みクロスボウを触角の根元にぶち込む。脳神経が詰まった、アリの弱点への一撃。死にかけの古女王が絶叫する。

 追撃で初級魔術を五月雨に放ち、俺はその場を脱出する。とどめにシールデバイスを起動し、矢に仕込んであった魔法陣から雷撃を一発放つ。



 脳を焼かれた古女王は――それでも信じられないことに、蟻酸を俺たちに向かって正確に吹き付けてきた。

 とっさにナーシュカが具現化した盾がじぶじぶと音を立てて溶ける。



 二、三歩バックステップで距離を置くと、今度は天井の触手が俺を絡めとろうと無数の腕を伸ばしてきた。



「! 薙ぎ払って、『雷鳴のクル・ハ・シャーンク』!」



 雷鳴と槍の英雄が、槍を投擲して活路を開く。

 アイリーンがとっさに作った一本筋を、緊急展開したホバーボードで一気に駆け抜ける。

 一筋の勝ち目が見つかった途端にこれだ。



「ジーニアス君! 逃げて!」



 篠宮さんの切羽詰まった声。迫る大顎。

 呪い編み人形(ウィッカーマン)の影の腕。側頭を殴打される双頭の女王。飛び散る体液。

 全ては瞬く間のこと。攻撃があまりにも俺に集中しすぎて、俺の対処能力を飽和させていた。



「早うこっちに!」と叫ぶユースティティアのもとに駆け寄る。

 引っ付き虫のようにくっついているナーシュカの肩に服をかけなおしつつ、俺は荒い息を吐きだした。



(いや、勝てる!)



 視界の端にいるアネモイを見た。二重の魔法陣の周辺に魔力が収斂し、一条、二条、三条、とアストラルの流れが重なる。竜の息吹ーーそれも術式の多重化だと気付いたときには、既に灼熱の奔流が放たれていた。



 炎竜の息吹。包み込んだものを地獄の劫火で焼き尽くす極大魔術。

 その場に伏せたユースティティア、ナーシュカ、俺の背中を超えて、猛火の颶風が一直線を押し通った。



 絶叫。

 飽和する悲鳴。



 双頭の変異種は、劫火に包まれて身悶えた。命の全てを貪り喰らうような粘つく業火が、暴れまわる双頭の魔物を捉えて離さない。



 煌々と燃え盛る女王を確認したのち、俺は残りの脅威ーー瀕死の古女王と触手に素早く目を向けた。











 否。

 一瞬だけ、双頭の女王から目を離してしまったのだ。



 数も少なくなって、最後の大一番とばかりに一気に押し寄せる幼虫たち。

 最期に、自らの腹部を噛み砕いて、腹の中から無理矢理に()を取り出した死にかけの女王。

 端から順に乾燥して身を削り、自身の()を露出させた天井の触手。

 そしてーー。



 烈火に包まれた双頭の女王が、驚く速さで跳躍して蟻酸をばら撒いた。

 煮立った蟻酸が地面を容赦なく溶かす。

 押し寄せる幼虫の援護もあって、俺たちは防御に回らざるを得なかった。



 だがその隙に、燃え盛る双頭の女王は、二つの核を大顎の中に収めていた。



 双頭の一つは、疑似アストラルバーストで四分の一ほど潰れており。

 双頭のもう一つは、影の腕で半分ほどひしゃげており。

 劫火の中の肉体は、ぐずぐずと焼け崩れて異臭を放っている。



 それでも双頭の女王は、二つの核を嚥下して、こちらを見据えていた。



 三つの核が共鳴する。



 ぎちぎちぎち、と肉体変異を起こして背中から羽を生やした女王は、焼け崩れる身体を無理矢理に押し留めたまま、それでも凄絶なる様で俺たちに向かい合っていた。



 今まさに、新たなる脅威が生まれようとしている。

 濃密な悪意と魔力の渦で、空間が歪んでいくような錯覚がやってきた。



 これ以上の時間は与えられない。

 肉体の癒合が不完全な今が、最後の勝機。



「――アルクビエレ・ドライブ起動」



 四重に重なったオルフィレウスの輪が展開する。

 無限の二次元の円で描画されるアポロニウスのギャスケットが、フラクタル構造となって、二次元ジョルダン測度を形式的に無限大へと発散させる。



『The DECISIVE-MAGIC operation systems are in standby... Activate system: Exterminate Mode』



 クローキング領域を展開し、エネルギー密度を高めてドライブ領域へと転換させる。ワープバブルの形成。

 だがそこに、飛びかかってくる影がいた。

 自害したはずの、古女王であった。



(な――)



「Namaḥ samanta-vajrāṇāṃ bandha bandhaya moṭa moṭaya vajrodbhave sarvatra apratihate svāhā.(遍く諸金剛に命ずる、縛し、縛さしめよ。粉砕し、粉砕せしめよ。金剛より生じたるものよ。害するもの一切あること能わず)――陰陽呪禁術・六壬式盤『金剛鎖・裏』」



 瞬間、六神式盤で強化された金剛鎖がキラーアントの古女王を縛る。

 禁術の反動なのか、篠宮さんは額から角のようなものを生やして血を流している。だがこれで妨害はなくなった。



 刹那の間。



 崩壊しゆく触手が、ユースティティアの影の腕と篠宮さんの金剛鎖に齧りついて、無理矢理に術式を破壊しようとする。それを、ようやく落ち着きを取り戻したナーシュカが刃の紋様で串刺しにする。死にものぐるいで押し寄せてくるキラーアントの幼虫を、アイリーンの英雄が押し返し、すっかりか細くなったアネモイの竜の息吹が一直線に掻き分ける。燃え盛る双頭の女王の胸部に、癒合しつつある三つの核が現れ、ターニャが不協和音に妨害術式を載せて癒合の阻止を図る。



 あらゆる情報が。

 引き伸ばされていく。



 猛り狂った双頭の女王が、鋭い爪を俺に差し向けた。

 そこへ大楯の英雄が間に入って一撃を防ぎ、泡となって消えた。

 大楯の裏に仕込んであった紋章がひときわ強く輝き、ナーシュカの召喚した刃が双頭の女王の土手っ腹を刺し貫いた。



 光景が形を失っていく。

 事象の地平面。閉じ込められたヌル表面。

 永久機関が輪転して、あらゆる情報伝達の限界を仮想模倣(エミュレート)する。



 劫火の中の双頭の女王が、けたたましく叫んで大顎で襲いかかってくる。

 決戦の時。俺は、正面から挑んだ。



 空間にバブル状の切り取り操作を行い、それを空間ごとスライドさせる。局所的かつシンプルな変更を施す事象改変。

 世界の解釈をプランク時間だけ騙す、法則の境界にあるゆらぎの文脈。

 理論上、宇宙空間の膨張が光速を超えるのを許容されていることを利用した、言理の妖精の記述の合間を縫う、それは恐れ知らずの類似魔術(アナロジー)







 星を渡る極大魔術、アストラル・ドライブ。







 一瞬の交錯。悲鳴。破砕音。



 遅れて、あらゆる現象が始まって反映される。

 微細化されたエキゾチック物質が空間に溶けて崩壊するとき特有の輝きと匂い。

 引き裂かれた空間に走るスパーク。

 ドライブ領域が縮退してエネルギー密度を落としていく。



 可逆な形で情報を保存された俺は、肉体の形を維持している。

 双頭の女王は、形を大きく損なって胴体を大きくひしゃげさせていた。



 バブル状に切り取られた事象の地平面を楯にした、光速を超える体当たり。

 空間をスライドさせて、空間表面を纏う潮汐力であらゆるものを轢き潰す一撃。



 戦いは決した。俺だけが立っていた。



 燃え盛る女王の二つの頭と目があった。

 瞳の光は消えつつあった。



 極大魔術の反動でほぼ動けない俺は、息を呑んだ。

 命の終わりがそこにあった。

 “死”に見つめられているような錯覚が起きた。



 最期の最期、命を失いつつある双頭の女王は、燃え崩れゆく身体で、癒合が不完全な三つの核を肉体から強引に引き剥がした。

 呆気ない、乾いた音がした。

 この核の癒合が間に合っていれば、どんな魔物が生まれたのか想像もつかない。



「……とどめを刺しそこねてしまったな」



 双頭の女王の自決を見届けた俺は、動けないままの姿で呟いた。

 まだうっすらと瞳に光を残した双頭の女王は、いよいよ業炎の中で胴体が焼け千切れて、そしてそのまま息を引き取った。




ごめんなさい、長らくおまたせしております!

感想返信遅れます! めっちゃ嬉しい感想いただいてるのできちんと返します!

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[一言] アルクビレドライブのバブルに接触して原子の霧にならない蟻さん丈夫すぎて草
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