第四十六話「ホウ酸塩の濃度が高まると、細胞は代謝反応が鈍化する。つまり、体内の栄養をエネルギーに変えることができずに、死に至るのだ」
キラーアントの巣の場所は、すでにある程度見当がついていた。
というのも、落とし穴の罠をたくさん作りながら、世界迷宮の第一階層の森内部の周辺調査を進めていたのである。
周辺の魔物の情報はある程度頭の中に入っている。アイリーンには穴を掘らせつつ違和感があったら報告することを、ターニャには周辺の魔物を調べることをお願いしていたのだ。
小柄な魔物の分布、亡骸の遺棄の有無、地形条件、そして探索者ギルドの公開情報。
さすがに地下に分布する巣穴の情報は分からないが、地面にある巣穴の入り口なら概ね絞ることができる。
無論、それだけではなく――。
「楮紙の形代が強大な魔力反応を発見しました。卜占の結果と概ね一致します。風水術の地相占いでも、淀みが予想される箇所なので、きっとこの場所が本丸でしょう」
「気休めじゃが、まあ、骨投げ占いと杖占いも引き寄せられとる。反応がちと弱いのが気になるが、ざっと千体以上の魔物がおることは間違いないの」
「私の勘もそう言ってる」
世界屈指の陰陽術師、篠宮さんが天地盤の方陣を見ながらつぶやく。凛とした顔も美しい。
黒猫の魔女、ユースティティアが薬草を噛みほぐして、手の甲の魔法円に、べえ、と草を吐き出しながら受けて答える。可愛い顔しておばあさんみたいなことしてやがる。口に入れたものは出すな。
最後のアネモイの言葉はよくわからないが、なんだか頼もしさだけは凄い。とにかくすごい自信だ。「知らんのか?竜の勘はよく当たる」とかなんとか言ってたが、こいつは小娘だろうに。なんでいちいち竜ぶるのだろうか。もしや本当に竜なのだろうか。
とまあぼんやりした感想を抱きつつも、俺は内心こみあげる高揚感を抑えきれずにいた。
ここに集結しているのは、八賢人の候補と謳われる特級指定魔術師たち。
黒猫の魔女、英雄一族の末裔、通商連合の最終兵器、公国竜騎士団の『暴風』、王立図書館司書の第一席、精霊の森の巫女。
俺がここに並び立つのも恐れ多い面々だ。これで身震いしないはずがない。
「まあ、世界迷宮の守護者狩りを、百人や二百人じゃなくこの人数で行うんじゃ。久しぶりに腕が鳴るわいの」
「はっ、前座は千体の雑魚どもか。しゃーねえ、肩慣らしに蹴散らしてやらァ」
「千体かぁ……緊張してきたぁ……きちんと英雄召喚できるかなぁ」
余裕綽綽の顔もあれば、一世一代の勝負とばかりに気負っている顔もある。だが、全員気概が削げているわけではない。闘志は十分に満ちている。
後は、待ち受ける迷宮の守護者を狩るのみ。
千体もの大群を率いる『キラーアントの女王』との遭遇は、まもなくのことであった。
「お兄様。もうすぐ到着します。心のご準備を」
「ありがとうターニャ。でも大丈夫、一度下見してるからな」
下見? ときょとんとしたターニャの耳に「こっそりおまじないしてきたのさ」と囁く。くすぐったかったのか、背筋をびくつかせたターニャは、遅れてから「おまじない?」と眉を顰めていた。
「大丈夫。ランチェスターの法則を展開した数理モデル、クープマンモデルによると、一〇〇〇対五の圧倒的な数値格差を覆すには、各個撃破で二〇〇倍、魔術戦で四〇〇〇〇倍の効率を叩き出すオペレーション技術が要求される。だけどな――俺たちには創意工夫があるだろ?」
◇◇
死屍累々という言葉がある。
キラーアントたちは道中で点々とくずおれて息絶えていた。一部、なんとか生き残っている個体に出くわすものの、そういう個体は弱点の首を狙って魔術を打ち込んでとどめを刺す。
元気な個体との遭遇は、ほとんどなかった。クイーンの住まう中心部に近づいているのに、これは異常なことである。むしろクイーンの住む中央部に近づけば近づくほど、横たわっているキラーアントの数は多くなっていった。
「(ほとんどの働きアリは女王の世話、卵と幼虫の世話、餌の運搬などの仕事に就く。よく見かけるような外で餌を探しているアリは、大抵が年老いたアリなんだ。巣の中央に近づけば近づくほど、キラーアントが手ごわくなるのは、この社会性に起因する)」
クローキング領域に隠れながら、全員でゆっくりと前進する。
俺を取り巻くみんなが、この明らかな異常事態に警戒を高めているのが伝わってくる。
だが俺は平然と前に進んだ。何故なら、この仕掛け人は俺なのだから。
手元にあるのは風魔術のスクロールの予備。昨日作った代物である。
「(実は昨日、透明化してこの巣に侵入して、コロニー中核と思しき部分に珪藻土とホウ酸をぶちまけてきたんだ)」
スクロール片手に、皆に説明する。
昨夜に行った奇襲。それは、珪藻土とホウ酸の粉末を風に乗せて拡散する化学攻撃。
キラーアント・クイーンの居室全体を包み込む飽和攻撃である。
珪藻土は油分を吸収する。
昆虫の外骨格はキチン質で構成されており、体が乾燥しないよう表面を油分が覆っている。それを珪藻土があらかた拭い去る。
剥ぎ取る、削り取るという表現のほうが近いかもしれない。珪藻のざらついた突風がまるでヤスリの如くキラーアントの外骨格表面を傷つけるのだ。
これだけでも節足動物には甚大な被害である。傷口からの絶え間ない乾燥に苦しむことなり、恐らく長くは生きられないだろう。
そこにホウ酸の風が絶え間なく浴びせかけられる。
ホウ素化合物は、外骨格であるキチン質に対して浸透性がある。腎臓機能を持たない昆虫には、ホウ酸の毒性を排泄することは非常に難しく、結果として強い毒性に苦しむことになる。
ホウ酸塩の濃度が高まると、細胞は代謝反応が鈍化する。
つまり、体内の栄養をエネルギーに変えることができずに、死に至るのだ。
「(このスクロールには、対になるスクロールから物体を召喚する術式と風魔法の術式が書かれている。分かりやすく言うと、ナーシュカの身体の刻印に格納されている、山盛りの珪藻土と、チンカルから作ったホウ酸をここに持ってきて、そして風で拡散するようにしてある)」
対になるスクロールは、ナーシュカの身体の中に格納済みである。
後はこのスクロールを巣の中に設置して、術式を発動するだけ。
ここまでの説明を聞いて、急に焦ったように自分の身体を抱いたナーシュカは、「えっ、ちょ、オレの内側を弄ったのかお前っ」と悲鳴に近い声を上げていた。なるほど内側という感覚なのか。ナーシュカの刻印魔術は従弟の俺でもあまり詳しくないが――色々と謎の多い特殊魔術である。
いずれにせよ、これで優位性は築き上げた。
きっとこれからの戦闘は何とか上手く運ぶことができるだろう。
キラーアント側にいくら数の優位があるとはいえ、向こうはほぼ全員が負傷兵。このままここでぼんやり待ち続けているだけでも、相手は戦うことなく半壊するだろう。半壊といわず、本当に半分死んでしまうかもしれない。
「(――現代魔術とは、効率と理論に裏打ちされたオペレーションズ・リサーチだ。兵法曰く、勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。先手を取って勝ちを確定させることこそが戦いの真髄)」
悶え苦しむキラーアントを始末しながら、俺はあくまで冷静にそう述べた。
無論、油断は出来ないだろう。
あくまでこれは相手を弱体化させるに留まった小細工でしかない。
相手は腐っても迷宮の守護者級の強敵なのだ、気を引き締めて戦わないといけないだろう。
いざ、戦いの幕開けである――。
そう思って、皆の顔を見た。
「(お兄様……)」「(……てめーは本当よォ)」「(むぅ)」「(ジーニアス君……)」「(お主……)」
呆れたような顔が並んでいる。やり過ぎを咎めるようなジト目。もう戦いは殆ど終わってるんだよこいつは、みたいな非難めいた感情をぶつけられている気がするが、思い過ごしだろうか。
唯一アイリーンだけが「(天才じゃん……!)」と感激してるが、もっと他の皆も感激すればいいのに。
だが、しかし。
そこに突如、張り裂けるような叫びが聞こえた。
キラーアントの怒りの鳴き声。耳をつんざく不快な音に、エルフの血を引く篠宮さんと、黒猫のユースティティアは顔をしかめていた。
我が身の苦悶と、同胞の苦しみに怒り狂っているかのように、その声はひどく猛猛しい。
「いいねぇ」と悦に入ったような低い声を漏らすのはナーシュカであった。
声の主は、この先で待ち受けている。恐らくはこの巣の絶対君主である、キラーアントの女王が。
※今後、最新話に備忘でメモを残しておきます。
また、ネタバレになるとよくないので、応用例は伏せておくことにします。
1)
ブッフベルガーのアルゴリズム:グレブナー基底の導出
限量記号消去法(QE):Fourier–Motzkin消去法など
(図形問題の証明など)
2)
クラトフスキーの定理:
グラフGが平面的であるか=グラフGを細分にしたとき、K_5、K_3,3の細分を含まない
連結単純グラフの厚みの下界値の見積もり
3)
ダイクストラ法
ベルマン-フォード法
最短経路の導出
4)
有効非巡回グラフとアーク集合
系統ネットワークと言語(方言)の系統樹
5)
非保存系(非エルミート系)
トポロジカル絶縁体の電子輸送現象
光の整流性:境界上でのみ光伝播が発現し、境界に沿って一方向に伝播する
ディラックコーン:磁場を印加すると電気抵抗が磁場に比例して変化する「線形磁気抵抗効果」
6)
(EDO-TTF)_2 PF_6
結晶の温度を上げることなく、絶縁体から金属に相転移する有機結晶
マルチフェロイクス光制御(絶縁性や導電性、強磁性、強誘電性など複数の性質への変化)
7)
C12A7エレクトライド(アルカリ金属のように電子を渡し易く、しかも窒素と反応しない)を利用したアンモニアの合成




