第三十七話「我がノタリコン、ゲマトリア、テムラーの真骨頂。音価だけでなく数価にも対応するヘブライ文字の特徴を利用した、カバラ数秘術による二重詠唱。この声は――そう、いわば心の泥棒」
花形帽章の飾りをつけられた、赤々と目立つ三角帽子。
背中のマントに書かれた模様は、【教国】を彷彿とさせる円と轡十字。
半分の仮面に赤々と書かれたるは、「怪盗智慧捨王」の文字。
その男は、聖櫃の上に座っていた。
「やあ、待っていたよ。呼びつけて悪かったね、名無しのメイドのジーニャくん」
人の気配がほとんどない闘技場の中央。
対峙するのは、架空の怪盗と架空のメイド。
「……答えて。あなたが、特級指定魔術師のルードルフ」
「へえ。面白いじゃないか、そんなに可愛い声なんだね。どうやって声を変えてるのか気になるよ」
虚を突かれたのか、一瞬驚いたような表情になったルードルフは、三角帽子を触り直しながら問い掛けに答えた。
「残念だが違うよ。ここにいるのは、あくまでも怪盗とメイドさ。故に答えはこうだ――」
メイドの足元に花札のカードが突き刺さる。いつの間に投擲されたのか見えないほどの早業であった。
「――怪盗チェスト、推参」
◇◇
「ったく、何の茶番だァ、こいつは」
「! ナーシュカも来てくれたんですね! お兄様が今、ルードルフと戦ってます」
闘技場の舞台のそばにて。そこには見慣れた影が集結していた。
精霊の森の巫女。通商連合の特使。王国の獣姫。公国の令嬢。皇国の英雄一族。魔術学院の守り人。
彼女たちは観客席ではなくこの舞台のそばを指定されていた。何かあったときに駆けつけることができるように降りてきているのだ。
「……代わり身の土人形は揃えておる。あやつらの血と名前で呪うておるから、戦いの怪我はこの人形に逃げるようになっておる。万一に備えて霊樹の薪の煙でいぶし続けにゃならんから、ちと煙たかろうが許せ」
「Oṃ visphurād rakṣa vajra-pañjara hūṃ phaṭ.――結護法の真言です。極大魔術の暴走はないとは思いますが、念のためです」
ユースティティアと篠宮百合は、既に呪術を発動していた。変わり身の術式と結界の術式は、いずれも高度な技術を要求される。咄嗟の時に発動するのでは遅くなるので今すでに展開している、ということらしい。
ここにいる面々がいつになく真剣な面持ちになっているのを見て、ナーシュカは悟った。
「……八賢人の指輪を渡すに足るか試すってのは、冗談じゃないみたいだな」
「ああ」
短く答えたのはアネモイである。竜魔術の一つとされる”生命の息吹”が、彼女の周囲をゆるやかに渦巻いていた。
難しい呪術ではないが、一部の竜族にしか使えない血魔術の一つであり、魂に刻まれた情報を遡るアストラル魔術の一つでもある。
「おそらくルードルフ殿は、八賢人の指輪を渡すに足るか、真剣に検討する価値がある、と考えたのだ」
「……」
沈黙の末、ナーシュカが選んだのは、ため息だった。
恐らく、この場にいる全員が、同じ思いを共有しているはず、という仄かな直感が働いた。
――この可能性を真剣に検討した人間は、ジーニアス本人の他にいるのか?
ナーシュカの身体に刻まれた紋様が、感情のさざ波でざわめいた。
「……八賢人なんてのは、いわば生贄や人柱のようなもんだぞ。それぞれの国が戦争兵力を平等に拠出して、大陸を魔物から守ろうなんていう古い条約の名残だ」
「迷宮に挑み続けることを、お兄様は望んでいるのです」
強い口調の断言。ターニャの口調は、しかし言葉の内容以上に迷いを秘めている。ナーシュカは、遮られた言葉の続きを矢継ぎ早に問いかけた。
「……魔力があんなに欠乏しているのにか」
「属性は帯びていなくとも、純魔力で言えば並みの成人の数人分の保有量です。子供の魔術師としては十分です」
「不利な状況を一撃でひっくり返せるような、固有の特級指定魔術を持たないのにか」
「お兄様の"現代魔術"には、十分な可能性があります。誰にでも扱える汎用的な理論であるはずなのに、あれは未知数です」
「オレたちと違って、あいつは術式を練る端からそれがほどけていく体質なのに、それでもあいつが本気で八賢人になれると思っているのか」
「それは曖昧な術式だけです。誰にでも再現性のある演算の操作であれば簡単にほどけない、ほどけてもすぐに修正できる、とお兄様は言っています」
「その体質が――その差が命を奪う可能性があるとしてもか」
「私が、させません」
ゆらりと周囲の空気が歪んだ。呼応して、小さな精霊たちがぽつぽつと周囲を飛遊しはじめた。
感情のさざめきを抱いているのは、ナーシュカだけではないらしい。
「言うておくが、篠宮の結界と妾の土人形はおぬしらにも効くようになっておる。ここで無用な争いが起きる可能性を懸念して、じゃ」
「……野良猫。お前はジーニアスを止めなかったのか」
間に入ったユースティティアに矛先が向く。「冷静に説き伏せることだって可能だったはずだ」とナーシュカは双眸を鋭く細める。もちろん、その怒りの向かっている先は、恐らくナーシュカ自身なのだが。
だがユースティティアの返事は、そんなナーシュカの虚を突いた。
「言うたぞ。誰より危険で、未知の世界を切り開く役目じゃと。そしておぬしではついて来れんじゃろう、ともな」
「……何?」
「そしたらあやつは、証明を求めた。"議論の中で導入された仮定は、別の部分で証明されるか、その議論の中で否定されなければならない"、じゃと。要はあやつ、証明されておらんと思うておるらしい」
のう、ナーシュカや――と魔女の影が半分泥のように溶けた。形のあいまいな無貌の影が、闇の底から語り掛ける。
「命がけの役目じゃ。ささやかに生きる道とは程遠い。生まれつき、その道を選べない人にとっては、ささやかな生き方が酷く羨ましいときもあろう。じゃが、あやつは、この命がけの役目こそを羨ましがっておった。妾たち特級指定の魔術師の生き方を、肯定しておったのじゃ」
「……」
「死にたがっているというより、あれは――証明したがっておる」
「……あいつは、そういうやつだよ」
だから死んでほしくないのに。
押し殺したようなナーシュカのつぶやきは、今この場にいる魔術師たちに聞こえるかどうかわからないほど小さな声であった。
◇◇
光の球体が輪を作る。回転するそれは、勝手に飛び散って十字の輝きになって爆ぜる。アストラルの光の奔流が大地と空間を焼いた。
端的に言えば、それは一方的な戦い。
怪盗はただただ櫃の上に座っており、逃げ惑うメイドは次から次に光の奔流をかいくぐって死にものぐるいで活路を見出していた。
(というか雑なんだよ!! 無尽蔵に光の連鎖攻撃が迫ってくるとかクソじゃねーか!!)
状況は極めて単純である。
"手加減のために禁忌術式を封印したルードルフに、一撃でも当てたら勝ち"という不公平なルールで始まった試合なのに、やたらと防戦一方の試合展開であった。
服が焦げる匂い。咄嗟に後ろにはね飛んで、光条を回避する。
それにしてもふざけている。光の十字架の群れに絶え間なく追い立て回されている俺に向かって「この試合ではこれしか使えない、だから今の私はとても弱くなっている」みたいなことを言っていたが、これには微塵も同意できなかった。
どう考えても、無尽蔵に攻撃をやたらめったらぶちかましてくるやつが弱いはずがない。
アネモイの竜の息吹とは流石に格や威力が劣るが、初級魔術を連発するような気軽さでこの十文字攻撃をこうも連発されては困るのだ。
「へえ、ジーニャくん。その身のこなしは、身体強化魔術だけではないね? 体全体を何か最適な動きで制御しているようにも見える」
「御明答。これは劣駆動システムの制御を応用している」
複数のナイフをまとめて放り投げる。術式デバイスを貼り付けた投擲攻撃。
だが密集した光の帯が簡単に薙ぎ払う。雑な防御だが厄介である。やわな攻撃では届かないらしい。
「せっかくだから教えてあげるよ。君がこの学院に仮入学になったのは、この私とユースティティアの意見の対立のせいだ」
「!?」
動揺して十字の光を回避しそこねる。障壁魔術が砕ける音。人の注意を集める古魔術――タウントの応用だとは分かっているものの、余裕のない戦闘中にこれをされると感覚が狂う。
瞬間的に、砕けた障壁をマナマテリアルに転換し、嫌がらせに大量の初級魔術をぶちかます。だが刹那、まばゆい閃光が空間を断ち切ってそれを防いだ。
「ユースティティアが学長代理なんだ。そして私が副学長。私は君の入学に反対してたんだよ、当初はね」
「な――」
「だが君がとても面白い極大魔術を見せてくれた。ほら、その背中にこっそり展開している円環を使ったものだよ。だから私は気が変わった」
――背後のオルフィレウスの輪が見抜かれている。
度重なる新情報と突然の看破に驚く俺に、一瞬の暇もなく光の帯の連なりが襲いかかる。かろうじて避けられる程度の密度。
とても罠っぽいが、隙間に飛び込む他ない。せめてもの抵抗で、咄嗟に薬瓶を投げ込む。
「私はユースティティアや篠宮とは違って、占いが苦手でね。千里眼だなんて言われたこともあるが、未来のことなんてとんとわからない。だから見たことしか信じないし、噂だって丹念に調べる。誘導だって行うとも」
そう、誘導――光の帯が、今度は回避できる場所もないほどの密度で迫ってくる。
予測していた俺は、咄嗟にマナマテリアルでホバーボードを緊急展開した。音を置き去りにして空を駆ける。サーボ機構の高速移動。
「だから私は噂を有効活用しているよ。たとえば君が不適格だと思ったときは、いつでも学院追放できるように噂の種火は揃えてある」
「!?」
驚きに集中を遮られながらも、咄嗟に背後を振り返る。光の十字で出来た網がそこにあった。そして前方にも。
理解したのは、空中に追い立てられてしまったという事実。
「驚いたかい? 実はオピオタウロスの事件も私が仕組んでいてね。まさか君があんなに牛に好かれるとは思ってもなかったけど、君はよく働いてくれたとも」
それにしてもよく回る口だ、と俺は内心舌打ちをした。
大味な連続攻撃と裏腹に、集中を切らせるような小技も得意とあっては、なかなか付け入る隙がない。
オピオタウロスの事件についても問いただしたいところが色々ある。だがそれに意識を取られては戦いに負けてしまう。
十文字の輝きがけたたましく唸り、面を制圧して行く手を阻む。大回りして回避を取れば、今度は蛇腹のように十字架が迫ってくる。
「ふふ、精神魔術への抵抗力が弱いというのは本当のようだね。言っておくが、黒猫の魔女あたりの精神汚染呪術はこんなものではないよ」
「――!」
君はよく気づく、敏感すぎる――とルードルフは指摘する。俺のマナマテリアル製センサデバイスの感度が、常人の感覚器より鋭すぎると言ってるのだ。
鋭いがゆえに、拾いすぎてしまう。
通常、センサは意図的な誤情報を与えられたりすることを想定されていない。ましてやその情報の中に、術式の断片をちりばめられているなんてもってのほかである。それゆえに逆に利用されたのだ。
肉薄する光の交差をかいくぐる。回避しながら組み上げたオルフィレウスの輪は、まだ二つ。
「我がノタリコン、ゲマトリア、テムラーの真骨頂。音価だけでなく数価にも対応するヘブライ文字の特徴を利用した、カバラ数秘術による二重詠唱。この声は――そう、いわば心の泥棒」
うるせえ、と突っ込む余裕が今の俺にはない。
集中を削ぐふざけた言葉の裏腹に仕組まれた、光の十字の連続攻撃。
おしゃべりだけで倒せる、という自信の表れを――俺は砕かなくてはならない。




