ロンメルと戦っていたら、知らないうちにレベルMAXになってました。
ロンメルと戦っていたら、知らないうちにレベルMAXになってました。
1942年6月28日、欧州東部戦線においてドイツ軍はこの戦争にケリをつけるため大規模な攻勢に出た。
作戦名はジークフリート。
共産主義を悪竜に見立てて、悪竜退治の主人公を作戦名に採用したものと考えられている。
前年に発動したバルバロッサ作戦の後を継ぐという点ではふさわしいものだった。
そして、ドイツ軍の陣容についても同様である。
作戦参加戦力は前年とほぼ同等の290万を用意することができていた。
1941年6月、バルバロッサ作戦発動時のドイツ軍の総兵力はおよそ300万人だった。
同年12月のモスクワ陥落時に配置についていたのはその半分160万人にすぎず、僅か半年で兵力の半数が死傷して編成表から消えていた。
この損失は、欧州大戦が始まった1939年9月から1941年5月までドイツ軍の死傷者の3倍以上だった。
これだけの損失を半年で回復できたのは、アメリカ合衆国からのレンドリースとイギリスの対米宣戦布告が大きかった。
レンドリースについては言わずもがなである。
ドイツは東欧各国に圧力をかけ兵力を無理やり供出させていたが、東欧各国軍の武装は殆どがレンドリースで賄われていた。
ルーマニアやハンガリーのような工業力に欠ける国などでは、兵隊の中身以外はライフル銃から被服、ブーツに至るまで全てアメリカ製というところが多かった。
また、イギリスがアメリカと戦争を始めたことはドイツ軍にとって福音だった。
英軍が北フランスに上陸する可能性が0となったのである。
このためドイツはイギリス軍の上陸に備えて配置していた北フランスやノルウェーの防衛戦力を根こそぎ東部戦線に投入することができるようになった。
これにはヒトラー総統が政治的な配慮という観点からかなり難色を示したが、軍部の説得を受け入れて最終的に同意した。
兵力抽出は航空戦力を含んでおり、西部戦線のドイツ空軍は練習航空隊を除けばほとんどが東部戦線に投入された。
これはイギリス空軍(RAF)にとってはチャンスだったが、対米戦に足をとられているRAFにドイツを爆撃するような戦力は残されていない。
それどころか、英仏海峡の制空権さえおぼつかなかった。
回復した戦力でドイツ軍は、東部戦線の南北で攻勢にでる計画を立てた。
北部においては包囲中のレーニングラードを陥落させ、イギリスからの援助物資が陸揚げされるアルハンゲリスクを占領する。
南部においてはスターリングラード方面に進出し、ヴォルガ川を渡河してコーカサスからの石油船舶輸送を阻止し、アストラハンを占領して石油の鉄道輸送を止めるというものだった。
これは独ソ開戦前に想定されたドイツ軍の限界進出線であるアルハンゲリスク・アストラハンを結ぶaaラインを確保するものだった。
作戦立案に際してヒトラーは北部作戦は原案どおり承認したが、南部においてはコーカサス占領を作戦目標に加えることを求めた。
勢力圏内に大規模な油田をもたないドイツにとってコーカサス・バクー油田の占領は極めて魅力的なプランだった。
だが、カフカス山脈をこえてバクー占領は無謀であり、レンドリースで米国製石油が輸入できるかぎりバクーは必要ないという軍部の反論を受けると渋々要求を引っ込めた。
モスクワ戦後、ヒトラーと軍部の関係は微妙になっており、モスクワ攻略を躊躇したヒトラーはそれを成功させた軍部は強い態度で出られなくなっていた。
もしも、モスクワ攻略が失敗していたら、ヒトラーはそれを理由に軍部への介入をさらに強めていただろうと言われている。
「ドイツの指導者は総統だが、戦争に関しては軍人にまかせてほしい」
というのが伝統的なプロイセン軍人の考えであり、モスクワ戦で判断ミスをしたヒトラーは東部戦線担当のOKH(陸軍総司令部)への顔出しが少なくなった。
反対にそれ以外の戦線を担当するOKW(国防軍最高司令部)にいることが多くなり、東部戦線に関してはヒトラーの作戦介入は途絶えることになった。
また、ヒトラーは東部戦線に対する興味に失いつつあった。
これはスターリンへの失望が大きかったと言われている。
独ソ戦開始前はスターリンを高く評価していたが、モスクワ陥落後はスターリンを侮蔑するようになっていた。
ヒトラーはスターリンがモスクワを捨てず、最後まで守り抜くと考えていた節があり、さっさと逃げ出したスターリンをもはや自分に比肩する存在とは考えなくなっていた。
「しょせんやつはその程度の男だったというわけだ」
と側近に失望を顕にした発言を残している。
これも独裁者の複雑な心理なのかもしれないが、身勝手な話である。
それはともかくとして、モスクワ戦後、ヒトラーが特に関心を示したのは北アフリカの戦いである。
お気に入りのロンメル将軍が、ヒトラーが病理的に嫌悪している日本人を叩きに叩いていたのだから、ある意味当然だった。
そして、ロンメル将軍はそれを最大限に活用し、増援や補給の追加をせしめると1942年6月に大きな勝利を収める。
所謂、ガザラの戦いである。
北アフリカにおけるDAKの絶頂期とも言われるこの戦いは、ガザラ・ラインと呼ばれる同盟軍の防衛線に対するDAKの機動攻勢だった。
ロンメルはガザラ・ラインの正面突破・・・するとみせかけて、内陸部へ大きく迂回して同盟軍の背後をついた。
だが、作戦初期においてこの攻勢は失敗に終わった。
ガザラ・ラインの南端にあるビル・アケムで、海援隊の国境なき軍隊(MSF)が頑強に抵抗し、DAKの補給線を圧迫したからである。
これによって同盟軍のど真ん中でDAKは立ち往生することになった。
ただちに同盟軍の総反撃が行われていれば、DAKは総崩れになっていただろうと言われている。
しかし、この好機を同盟軍中東方面軍総司令官クルード・オーキンレック大将は見落とししまいロンメルに態勢を立て直す時間を与えてしまった。
ロンメルは大釜陣地と呼ばれる防御陣地を築き防衛体制を整えると同時に、ガザララインに穴をあけて補給路を整え、同盟軍戦車部隊を撃破した。
結果、同盟軍は総崩れとなり、東へ敗走した。
なお、ビル・アケムを守っていたMSF第1師団は最後までビル・アケムを守り通し、撤退命令が下ると大胆な敵中突破を行って無事に味方戦線まで帰還している。
しかし、ガザラ・ライン構築のために防衛装備を抽出されていたトブルクはDAKの攻勢を支えきれず、陥落した。
この功績をもって、ロンメルはドイツ軍最年少の元帥へと昇進を果たした。
この時のヒトラーの喜びようはモスクワ陥落と同じか、それ以上だったと言われている。
ロンメルがヒトラーから得たものは元帥杖だけではなく、大規模な増援とエジプト侵攻許可をもぎ取っている。
トブルク陥落以後、ヒトラーは北アフリカや中東地域への関心を強め、北アフリカの戦いはヒトラーの個人的な戦争の様相を呈していくことになる。
なお、ヒトラーの関心を失った東部戦線、ジークフリート攻勢であったがこちらは概ね順調に推移しており、ますますヒトラーの関心を失わせた。
ソビエトには日英からの援助物資が入っていたが、シベリア鉄道経由で運ばれてくる日本からの援助はシベリア鉄道の終着駅であるモスクワが陥落したことで迂回を余儀なくされており、輸送効率が低下していた。
イギリスがアルハンゲリスクに揚陸していた援助物資もモスクワが陥落したことで、大きく迂回輸送する必要があり、ソビエト軍の末端まで届かなくなっていた。
攻勢開始から1ヶ月で、レーニングラードは完全包囲され飢餓状態となり9月には市内から食料がなくなり人肉食が行われるなど破滅的な状況に陥って陥落。北方軍集団の先鋒はそのころにはアルハンゲリスクに達していた。
荷揚げ港を失ってイギリスの援ソ船団は運行を停止した。
南部においても、8月末までにスターリングラードが包囲され、ドイツ軍はヴォルガ川を渡って進軍を続けて10月までにアストラハンを占領している。
この間にソビエト軍の大半がスターリンの死守命令によってドイツ軍の包囲下に陥り壊滅、降伏を余儀なくされた。
最終的にジークフリート攻勢でソビエト軍の編成表から6個軍が消え去った。
これはもはや回復不能な数字だった。
人員はともかくとして、彼らを武装させる武器がないからだ。
さらにソビエト軍も組織として末期的な症状を示し始めていた。
モスクワ陥落後、スターリンは防衛失敗を軍部に責任転嫁し、多くの将校を解任、或いは死に追いやっていた。
アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将やニコライ・ヴァトゥーチン大将やコンスタンチン・ロコソフスキー中将のような有能な高級将校が解任、更迭されたり、ミハイル・カトゥコフのように敗北の責任を負わされ処刑された者は数多い。
これはソビエト軍の抵抗力を著しく弱めた。
兵数こそ強制徴兵によって回復していたが、有能な高級将校の喪失によりスターリンの命令をそのまま実行するだけの組織に成り果てていた。
ジークフリート作戦が発動され、ソビエト軍が次々と撃破されるとスターリンの軍部や作戦への介入はさらにエスカレートし、スターリングラードの防衛戦において、防衛担当の第62軍の指揮官アントーン・ロパーチン中将を戦意不足で解任すると自ら直接指揮をとった。
ちなみにスターリンはスターリングラードから遠く離れた臨時首都のゴーリキーにいて、直接指揮といっても死守命令を出すだけに終わった。
そもそもスターリンは革命戦争時代から軍事的才覚がないことはよく知られており、ポーランド・ソビエト戦争でも大敗している。
スターリンの直接指揮はスターリングラード陥落を早める以外の意味はなかった。
なお、スターリンはスターリングラード防衛が陥落が避けがたいと判断されると第62軍の指揮官をワシーリー・チュイコフ中将に任命し、42年11月1日に街が陥落するとチェイコフに全責任を負わせて処刑している。
ドイツ軍はほぼ事前の計画どおり、秋の長雨で道路が泥濘化す前に進出予定ラインまで前進に成功し、戦略的・戦術的な勝利を収めた。
これに対し、ヒトラーの個人的な戦争となった北アフリカ・地中海の戦いは全くといっていいほど上手くいっていなかった。
DAKと日英同盟軍はガザラの戦いの後、決戦の地をエジプト西部のエル・アラメインに定めていた。
エル・アラメインはカイロの西にあり、ここから東に防御に適した地形的障害になるものはなく、アレキサンドリアなどの大規模港湾が控えていた。
さらにその東にはスエズ運河があった。
日英同盟にとって、スエズと地中海航路は二国を結ぶ最短経路だった。
これを切断することは、二国の連携を破壊し、戦略的な各個撃破を可能とする。
とはいえ、既にアメリカ合衆国との戦いに全力を傾けている日本軍にとって、北アフリカに割ける戦力は大きなものではなく、軍隊でありながら民間企業でもある海援隊という中途半端な存在に業務を委託するのが限界だった。
その海援隊は戦争事業として後方支援活動は得意としてきたが、正面きっての戦闘は得手ではないことから、米独の正規軍に敗退することを繰り返してきた。
特にロンメルのDAKを相手に何度も敗走を余儀なくされてきた。
だが、3年に渡る戦いで、海援隊の実戦部隊は大きく変容していた。
これまで、
「まるでカカシですな」
とか帝国陸軍の参謀将校に貶められ、
「口だけは達者なトーシロ」
と王立陸軍から嘲笑された海援隊の実戦部隊”国境なき軍隊(MSF)”は大きく変化していた。
MSFは、DAKとの戦いの中である一つの結論に達した。
「天才とまともに戦っても勝てない」
という言い切ってしまってば身も蓋もないが真実の一面もであった。
MSFはドイツ流の機動戦術をひょっとすると世界で一番習熟していた非ドイツ軍であったがゆえに、同じ戦術を用いてロンメルには勝てないと考えた。
実際にはロンメルにも失敗はあり、DAKの勝利は運の要素も大きかったのだが、比喩的な意味でロンメル教の熱心な信者になっていたMSFは気づいていなかった。
そして、MSFは同じ戦術で勝てないがゆえに、極端な火力主義を採用することになった。
ちなみに、イギリス陸軍もほぼ同じ結論に達しており、機動戦でどうやっても勝てないDAKを潰すために火力主義へと傾倒していき、エル・アラメインに2,500門の火砲を用意するに至っていた。
新たにイギリス中東軍総司令官に就任したモントゴメリー中将は、その権化とも言うべき人物であり、チャーチルの嫌味を聞き流しながら砲弾と火砲の備蓄を淡々と進めた。
また、MSFの部隊編成も大きく変化した。
これまであった植民警備部隊の寄せ集め編成は完全に廃され、連隊を基幹としたカンプグルッペ編成となった。
カンプグルッペとは、DAKや同時期のドイツ軍が多数編成した臨時編成の連隊規模の実戦部隊である。
戦場の実相は、師団単位の大規模戦闘よりも連隊規模の小回りの効く諸兵科連合部隊によって戦われており、それに適応するためにドイツ軍が編み出したのがカンプグルッペだった。
これまでの戦いや捕虜から得た情報に基づき、MSFはドイツ軍から良いところをコピーして、編成の中に組み込んだ。
独軍のそれは臨時編成のものだったが、MSFは師団編成の中に独立して戦闘可能な3個連隊戦闘団を事前に組織しておくことで、あらゆる事態に柔軟に対応可能な体制を確保しようとしていた。
なお、似たような発想で、米軍もこの編成を採用しており、コンバット・コマンドシステムとして体系化している。
この編成の弱点は、それぞれの連隊戦闘団が独立して行動するため、その各戦闘団司令部に配置する幕僚が大量に必要になるという点である。
海援隊はこれを下士官や兵卒から目端の効くものを選抜して促成教育を施すことで確保していた。
一兵卒として海援隊に参加していた若き日のモーシェ・ダヤン(後のイスラエル軍参謀総長)が頭角を現すきっかけになったのもこの選抜促成教育によるもので、第二次世界大戦終結の日までに彼は少将まで昇進している。
話が逸れたが、イギリス軍の指揮下に入ったMSFはモンティと同様にせっせと自社製の火砲と弾薬を集積した。
こうした火力主義への転換は、ドイツ軍にも訪れており、意外なことにもロンメル元帥がその先端を走っていた。
ロンメルは、イギリス中東軍がもはや如何なる挑発にも乗らず、機動戦に持ち込むことができなくなったことに気づき、機動戦の終わりを感じ取った最初のドイツ軍人だった。
エル・アラメインの戦いに臨んで、ロンメルは繰り返し、本国に火砲と砲弾、航空支援の増強を求めていた。
だが、トブルクから既に450kmも進軍していたDAKに十分な量の武器弾薬を送り届けることは不可能だった。
そもそも枢軸国には海を越えて、火砲や砲弾を運ぶ手段がなくなっていた。
空においては、タービンロケットのゼロ・ファイターがメッサーシュミットを駆逐しつつあり、一式陸攻による船団爆撃が日常と化していた。
いかなるドイツ軍戦闘機よりも高速な一式陸攻の爆撃を阻止することは不可能だった。
降下による加速で時速900kmまで加速した一式陸攻は、反跳爆撃で枢軸の輸送船団を次々と沈めていった。
中には機首に20mm機関砲8門を集中配備した対艦掃射型もあり、このタイプの一式陸攻の攻撃は全枢軸商船隊にとって恐怖の一言だった。
イタリア空軍やドイツ第2航空艦隊はなんとか北アフリカに向かう船団を守ろうとしていたが、彼らの努力は殆どの場合失敗に終わった。
DAKの補給に使用される輸送船の消耗率は1942年になると消耗率80%という破滅的な数値を示すようになっていた。
逆に日英同盟軍の輸送作戦は大きな成功を収めた。
その代表例が1942年8月に実施されたペデスタル作戦だった。
この作戦は、アレキサンドリアとジブラルタルから同時に日英の輸送船団が発進して独伊軍によって封鎖されているマルタ島に物資を輸送するものである。
マルタ島のグランド・ハーバーにはイギリス海軍の潜水艦基地があり、ドイツ空軍の激しい空襲下にあってもその機能を維持し、DAKの海上補給線に大打撃を与え続けていた。
また、マルタ島はイタリア半島に近く、無線傍受基地にはもってこいの立地であり、北アフリカ戦線全体に影響を及ぼす重要な情報を齎し続けていた。
日英はエニグマ暗号を解読していたが、暗号解読には無線傍受が必須であり、マルタの通信基地を失うことは情報の途絶を意味していた。
エル・アラメイン前面での大反抗作戦が迫る中、マルタ島の通信基地はDAKの動向を探る上で重要な役割を担っているのである。
その重要なマルタ島は、降水に乏しいという弱点があった。
飲料水供給を海水の淡水化で賄っており、造水施設を動かす発電機の燃料が欠乏すれば島民は枯死するしかなかった。
ドイツ軍ももちろんそれを把握しており、マルタ島へ向かうタンカーは最優先攻撃目標にして島を枯らす算段を整えていた。
ペデスタル作戦は、マルタ島の発電所に燃料を届ける補給作戦であり、その成否は北アフリカの反攻作戦の成否を左右するものと認識されていた。
よって、東西から同時に輸送船団を送り、独伊空海軍の阻止攻撃を分散させることが企図され、実施された。
1942年8月11日から13日かけて、ジブラルタルから発進したイギリス海軍Z部隊は熾烈なドイツ空軍の空襲を浴びて、大損害を受けた。
空母イーグルがUボートの雷撃で横転沈没し、ヴィクトリアス、インドミタブルが大破した。護衛の巡洋艦、駆逐艦にも被害続出だった。
独伊空軍の主力爆撃機は、Ju88やサヴォイア・マルケッティSM.84だったが、より頑丈で防御機銃の多いB-25も含まれていた。
B-25はこの作戦で反跳爆撃による対艦攻撃を敢行し、輸送船を9隻も撃沈している。
パイロットはドイツ人だったが、彼らが使用した爆撃法は合衆国陸軍航空隊が編み出したもので、低速の輸送船は回避困難だった。
さらにB-25には75mm砲や12.7mm機銃を機首に集中配置した対艦掃射型も存在し、その圧倒的な火力で護衛の駆逐艦は次々と沈黙を余儀なくされた。
独伊空軍は制空権の確保にも成功しており、米国製の100オクタンガソリンを使用できるMe109Fが主力となっており、スピットファイアの性能面の優位はなくなっていた。
さらに少数だが、Fw190A-4が実戦に投入されていた。
米国製100オクタンガソリンを使用した場合、Fw190は高度5000m付近で時速660kmを発揮する高速戦闘機だった。
過給器の能力不足から、それ以上の高度では急激にパワーダウンするが、対艦攻撃のような低空戦闘では全く問題なかった。
イギリス海軍の空母に搭載されていたシーファイアは、Mk.V型を艦載機に仕立てなおしたものだが、オリジナルのMk.Vが英仏海峡上空の戦いでフォッケウルフA-4に大敗していた。
ましてや艦載化のために構造強化して重量が増えているシーファイアでは勝てるわけがなかった。
イギリス海軍の自慢する装甲空母は、重装甲の代償に艦載機数が少ないという弱点があり、ただで少ないシーファイアはフォッケウルフに追いまくられ、船団防衛どころはなくなってしまった。
結果、Z部隊と輸送船団は大いなる犠牲を払うことになった。
だが、その犠牲すら織り込み済みで、彼らは輸送作戦の本命ではなく、囮役だった。
マルタ島が本当に必要とする発電用重油を積んでいたのは、1942年時点で世界最大のタンカー”日章丸”であり、東からマルタ島を目指す海援隊の輸送船団であった。
日章丸はスエズマックス(当時)の載貨重量トン43,000tを誇る超巨大タンカーであり、海援隊のもつ造船技術の粋が集めた最新技術の塊だった。
戦後世界の海運を席巻するスーパータンカーのプロトタイプであり、1940年に就役したばかりの日章丸こそが日英同盟軍の切り札だった。
日章丸を中心とした輸送船団を守るために戦艦ウォースパイトを中心とするイギリス地中海艦隊がアレキサンドリアが出撃している。
海援隊も多数の戦力を投入した。
編成は以下のとおりである。
第17任務部隊 指揮官アナトリィー・パイソン少将
航空護衛艦 トキ、ナイトオウル、キングフィッシャー
大型護衛艦 ダンケルク、ストラトスブール
中型護衛艦 サーバル、フェネック、シュフラン、コルベール
小型護衛艦 15隻
航空護衛艦トキ、ナイトオウル、キングフィッシャーは、雲龍型航空母艦を海援隊が運用するものであり、タービンロケット機の運用が可能だった。
船団護衛司令はアナトリィー・パイソン少将が就いた。
彼はポーランド人で、帝国海軍に留学中に太平洋戦争が勃発して帰国が困難になり、帰国の算段をしている内に祖国そのものがなくなってしまった苦労人だった。
帰る国がなくなってしまって途方に暮れていたところを組織拡大のために使える人材を片っ端からリクルートしていた海援隊にスカウトされた経緯がある。
非常に難解なポーリッシュ・ジョークの名手として知られており、戦後にパイソン・ジョーク大全という文集を出すほどだった。
ちなみに、モントゴメリー中将とは古くからの友人で、お互いをモンティ、パイソンと呼び合う間柄だった。
パイソン艦隊の航空護衛艦は、艦載機の半数をタービンロケット機の零戦で固めており、艦隊は独伊空軍の空襲をはねのけながら前進した。
メッサーシュミットはスピットファイアに勝るF型が主力となっていたが、零戦の相手にはならなかった。
何しろ、零戦の巡航速度がMe109F型の最高速力と同じなのである。
零戦は独軍戦闘機を無視して、爆弾を抱えた攻撃機のみを選択して攻撃することができた。
仮にケツにつかれたとしても、水平飛行で簡単に振り切ることができた。
ただし、旋回してドッグファイトに持ち込むのは厳禁だった。
加速性能が低く、旋回半径も大きい零戦はドッグファイトには弱く、メッサーシュミットとの格闘戦は死を意味していた。
初期の戦いでは、零戦は格闘戦に持ち込まれて撃墜されることもあったが、この頃になると時速600km以上の高速を維持したままの一撃離脱が徹底されるようになっており、メッサーシュミットが零戦を食えるのはよほどの幸運がないかぎり不可能となっていた。
メッサーシュミットに代って主力戦闘機化が決まったフォッケウルフでもこれは同じだった。
また、独伊空軍は既にジブラルタからマルタを目指すイギリス空軍との激しい戦いで消耗しており、攻撃力を低下させていた。
とくに魚雷を抱いて低空を飛ぶイタリア空軍の雷撃機は壊滅状態だった。
それでも何度かは危ないシーンもあったが、水上艦の対空砲火でねじ伏せることができた。
ドイツ空軍第2航空艦隊の指揮官アルベルト・ケッセルリンク大将は空爆のみで輸送船団を阻止できると考えていたが、損害の激増でイタリア海軍の手助けを求めざるえなくなっていった。
ケッセルリンク大将はイタリア海軍の能力(特に士気)に疑問を持っており、イタリア海軍の上空援護に戦闘機部隊を割きたくはなかったのだが、対艦攻撃能力が枯渇しつつあったから、他の選択肢はなかった。
ドイツ空軍からの支援要請を受けたイタリア海軍は意外なことに積極的にこれに応えた。
というのは、これまでイタリア海軍の活動を制約してきた燃料問題が合衆国から輸入でかなり改善されたことが大きかった。
準備不足のまま戦争に突入したことにより、イタリア海軍は大型艦の訓練用の燃料さえ欠いていた。それが練度低下と士気低下を齎していたのである。
しかし、合衆国からの燃料供給で貯油量が増加しており、大型艦の訓練も再開されていた。
彼らは名誉挽回のチャンスが巡ってきたと息巻いていた。
この時、出撃したイタリア艦隊の戦力は以下のとおりである。
指揮官 アンジェロ・イアキーノ
旗艦 ヴィットリオ・ヴェネト
戦艦 ヴィットリオ・ヴェネト、リットリオ
重巡洋艦 ゴリツィア、ボルツァーノ、トリエステ
軽巡洋艦 3隻
駆逐艦 12隻
戦艦2隻に重巡洋艦3隻を基幹とした大戦力だった。
この戦力は同時期のイタリア海軍の半数に当たるものであり、彼らが決して手を抜いていたわけでも、臆病風に吹かれていたわけでも、砂漠でパスタを茹でていたわけでもないことを示している。
これに対応したのはイギリス海軍地中海艦隊と海援隊の合同部隊だった。
指揮官 アンドルー・カニンガム
旗艦 ウォースパイト
戦艦 ウォースパイト
大型護衛艦 ダンケルク、ストラトスブール
重巡洋艦 ケント、シュフラン、コルベール
中型護衛艦 サーバル、フェネック
小型護衛艦 11隻
イタリア艦隊は決して優勢とは言えなかったが、同盟艦隊も決して圧倒的とは言えない戦力であり、チャンスがあると考えるには十分だった。
また、イタリア海軍はレンドリースで米国から輸入した水上レーダーを装備しており、夜戦にも対応できるようになっていたことが今回の強気を呼び込んでいた。
マタパン岬沖海戦では夜戦のレーダー射撃によってイタリア艦隊が一方的に撃破されており、イタリアが敗北から多くを学んでいたことを示している。
だが、同盟側はさらにその先を走っており、特に海援隊は実験的な次世代兵器を多数、戦場に持ち込んでいた。
1942年8月15日、第二次マタパン岬沖海戦は、大型護衛艦ダンケルク、ストラトスブール、戦艦ウォースパイトの一方的な先制攻撃で始まった。
この攻撃の開始直前、イタリア艦隊を指揮するアンジェロ・イアキーノ大将は日英艦隊が奇妙な動きをしていることに気づいていた。
水上レーダーに映る敵艦隊がどうも単横陣で接近してくるのだ。
この陣形は水上砲戦の常識を無視しており、火力が最大化するには単縦陣で接近するのが日本海海戦以来のセオリーだった。
確かにダンケルクやストラトスブールは、主砲を4連装主砲を艦全部に集中配置しており、単横陣でも最大火力を発揮できるが、ウォースパイトは正面に指向できる火力は15インチ砲4門に過ぎない。
15インチ砲18門を指向できるイタリア艦隊は理想的な丁字を描く形で会敵できる布陣であり、
「私企業のやることは、わからん・・・」
とアンジェロ提督は首を傾げた。
その疑問に対するヒントとして、ダンケルクとストラトスブールの甲板に設置された45度傾いた巨大な土管のようなものがあった。
もちろん、それは土管ではない。
よってイタリア人の配管工が飛び出てくることもない。
飛び出してくるのは、ミサイルだった。
1942年8月16日午前1時05分、大型護衛艦ダンケルク、ストラトスブール及び戦艦ウォースパイトは、距離35,000mで射撃開始命令を受けた。
命令受信後、甲板に設置された発射チューブから、固体ロケットブースターが閃光と轟音を響かせて対艦ミサイルを時速890kmまで加速させ、空中に送り出した。
これが世界初の艦対艦ミサイル攻撃だった。
攻撃はさらに続き、中型護衛艦サーバル、フェネック、シュフラン、コルベールからもそれぞれ1発の対艦ミサイルが発射された。
1,200tしかないオーク級小型護衛艦からもミサイルは発射されている。
日英同盟艦隊から発射されたミサイルの数は最終的に16発となった。
海援隊傘下の河城重工と如月電子が共同で次世代の対艦誘導兵器の開発を始めたのは1935年のことである。
最初の対艦誘導兵器は、大型爆撃機から投下する大型爆弾に誘導装置を取り付る形で開発された。所謂、誘導爆弾である。
誘導爆弾は同時期、各国が既に開発を進めており、ドイツでも同種の兵器が開発されていたから、海援隊が誘導兵器開発を始めたのは特別珍しいものではなかった。
ただし、海援隊は誘導弾を航空兵器ではなく、船から発射できないかと考えた。
なぜ海援隊が誘導兵器を水上艦から発射しようと考えたのかといえば、海援隊の護衛艦が何れも小型低速だったからである。
小型艦の主力兵器である魚雷は、適切な射点につくために敵艦よりも母艦が高速であるか、待ち伏せをできるように潜水艦である必要があった。
射点につくために高速発揮を狙った列強の駆逐艦は36ノットを超え、計画のみで終わった帝国海軍の丙型駆逐艦では40ノットを狙っていた。
当然、そのような高速発揮には専用の船体と大出力機関が必要であり、平時の水上警察活動を主務とする海援隊の護衛艦には不適な船となる。
低速で、小型の護衛艦からでも使用可能で、リアクションタイムが短く、大型艦艇を食える可能性がある兵器として、誘導装置付のロケット爆弾が想起されるのにさほど時間はかからなかった。
推進装置は河城重工が担当し、指令誘導装置の開発は如月電子が担った。
初期加速を得るために後部に固体ロケットを追加したタービンロケットエンジンが開発され、弾頭を十分に加速させる目処がついた。
誘導装置の開発は難航し、初期に射手がジョイスティックで操作する方法が考案されたが射手の技量に左右される要素が大きすぎるため、すぐに自動誘導装置が開発された。
人間がやることは標的を誘導装置に連動した測距儀の中央に捉え続けるだけでよくなった。
つまり、
「目標をセンターに入れて、スイッチ」
という例のアレでいいことになった。
これは初期的な指令誘導式ミサイルによく見られた手法である。
弱点は煙幕で、標的が目視できない場合は攻撃できなかった。夜戦でも同様で、照明弾による援護が必須だった。
この点を改善し、標的捕捉を人間の目視から対水上レーダーに交換した改良型が後に開発されることになる。
また、この方式では誘導可能なミサイルは1つまでという制限があり、大量発射による飽和攻撃などは不可能である。
大量発射にはミサイル自身に目標捜索能力を与える必要があり、アクティブ・レーダー・ホーミング方式の完成を待たなければならなかった。
初号機の開発が完了したのが1941年末で、ハワイ奇襲には間に合っていない。
実戦運用はペデスタル作戦が初だった。
固体ロケットブースターによって初期加速を得たカッパード・キサラギ・ロケット兵器1号以後、KKR-1はタービンロケットエンジンを作動させ、巡航飛行に移行した。
発射された16発のKKR-1のうち、半分は機械的なトラブルで墜落したが、残りの半数は戦艦ヴィットリオ・ヴェネト、リットリオに次々と着弾した。
最終的にヴィットリオ・ヴェネトに命中したKKR-1は4発だった。
亜音速まで加速した徹甲弾頭(弾頭重量250kg)がバイタルパートを貫通し、艦内で120kgの高性能爆薬が爆発した。
ヴィットリオ・ヴェネトの円弧を組み合わせた未来的なデザインの艦橋や上部構造物は一瞬にして元が何だったのか分からないほど歪なオブジェに変質を余儀なくされ、艦全体が消火不能な大火災に見舞われた。
状況はリットリオも似たようなもので、暗い地中海の水面にイタリア戦艦は松明のように燃え上がった。
40,000tの巨大戦艦を一瞬でスクラップにさせられたイタリア艦隊はパニックを起こし、そこへミサイルの第二波が殺到した。
そして、同盟艦隊の一方的な追撃戦が始まった。
イタリア海軍は、この海戦で戦艦2隻、重巡3隻、駆逐艦5隻を失うという大敗を喫し、再起不能になった。
同盟軍の損失は駆逐艦3隻が損傷したのみだった。
電話でイタリア艦隊壊滅を知らされたケッセルリンク大将は、
「やはり駄目か・・・」
と嘆息して受話器を置いたという。
この場合はただひたすらに相手が悪かったという他なかった。
その後もドイツ空軍の空襲は続いたが、ゼロファイターの前に屍を山を積み上げるばかりで、輸送船団の阻止は失敗。
1942年8月17日、日章丸は堂々とマルタ島のグランド・ハーバーに入港した。
さらに航空護衛艦から飛び立った零戦隊がマルタ島に進出し、防空能力を補強した。
補給を得て枯死の危機を免れたマルタ島はその機能を取り戻し、DAKの補給線を強力に締め上げることになった。
そして、後方を巡る戦いに勝ったものが、エル・アラメインの戦いを制した。
1942年10月23日、同盟軍は北アフリカで大攻勢を開始した。
作戦名は、アンリミテッドブレイドワークス。
補給線がガタガタになり、武器の貯蔵が十分ではないドイツ軍を北アフリカから叩き出すための大作戦だった。
第一段作戦、アンリミテッドはエル・アラメイン正面の攻勢作戦だった。
同盟軍は火砲1,200門による徹底した準備砲撃の後、進撃を開始した。
この砲撃はDAKの築いた地雷原=悪魔の園を耕し、反撃にでたドイツ軍砲兵を虱潰しにするもので一気に戦場の火力優勢を確保するものだった。
もちろん、上空にはガンポッドを抱いた一式艦攻(近接航空支援仕様)が乱舞し、反撃に出たドイツ軍を片っ端に血祭りにあげた。
上空を守るはずルフトヴァッフェはゼロファイターの大攻勢の前に、自分たちが生き残ることが精一杯だった。
さらに1,000両の戦車を前面にお仕立てて、同盟軍は前進した。
対する枢軸軍の戦車は600両ほどで、その内300両はレンドリースで送られた合衆国製のM4中戦車だった。
ドイツ軍においてM4中戦車は総合的にⅣ号戦車に勝ると、高く評価されていた。
そのため武装親衛隊へと優先的に配備されており、M4で完全充足されたDAKの第21装甲師団や第15装甲師団は例外的な存在だった。
ロンメルが如何にヒトラーから優遇されていたかが分かる。
だが、攻めてくる1,000両の戦車のうち、半数は100mm45口径装備の九九式重戦車だった。
M4中戦車の75mm砲では九九式重戦車の前面装甲は抜くことができず、側面からでも300m以内でなければ不可能だった。
また、そもそも制空権のない戦場では戦車の昼間移動は自殺行為となりつつあり、ガンポッド装備の一式艦攻は長砲身20mm機関砲で次々とM4を狩っていった。
複座で航続距離の長い一式艦攻は近接航空支援に適しており、長時間在空して機銃掃射で効果的な地上支援が可能だった。
空母からの発艦のため短距離離着陸能力に優れ、複座のため地上とのやり取りを偵察員に任せることができることや航法が楽ということもあって、一式艦攻は近接航空支援に多用されることになった。
また、同盟軍の歩兵部隊は火力支援の誘導能力も高めており、前線部隊が要請すれば30分以内に砲兵支援を受けることができた。
最短記録では15分だった。
15サンチ榴弾砲や20サンチカノン砲を多数、戦場に持ち込んだ同盟軍は機動戦に持ち込もうとするドイツ軍戦車部隊に阻止砲撃の雨を降らせて次々に撃破した。
同盟軍の砲兵を攻撃すべきドイツ軍砲兵は作戦初期に徹底的に叩かれており、ドイツ軍戦車部隊は同盟軍の間接砲撃前に、敵戦車と相まみえることなく壊滅した。
ドイツ軍の得意とした機動戦はもはや成立せず、砲兵火力が戦場を支配したのである。
同盟軍の戦車部隊はドイツ軍の戦車部隊を見るなく前進を続けた。
むしろ、Ⅳ号戦車やM4よりも火炎瓶や対戦車地雷を片手に肉薄してくるイタリア軍空挺部隊に苦戦したほどだった。
ロンメルが全く期待していなかったイタリア軍第185空挺師団フォルゴーレは、同盟軍の正面攻勢に対して果敢に抵抗し、2度に渡って同盟軍の攻勢を撃退した。
戦闘終了後、イタリア軍空挺部隊の奮戦を知ったチャーチル首相は、
「彼らは獅子のごとく戦った」
と称賛したほどだった。
ロンメルも、
「私は彼らの中に黄金の精神を見た」
と述べたほどだった。
しかし、2度に渡って攻勢が撃退されたのは、同盟軍がまだ本気を出していなかったというのが真実に近い。
独伊軍に撤退してほしくない理由が、同盟軍にはあったのである。
エル・アラメインでの正面攻勢にドイツ軍がかかりきりなったその瞬間に、第2段作戦ブレイドが発動した。
ブレイド作戦の骨子は、DAKの撤退路の遮断。トブルクへの強襲上陸だった。
この作戦を支援したのは、海援隊とイギリス地中海艦隊の合同部隊だった。
その戦力は以下のとおりである。
日英同盟艦隊 指揮官アンドリュー・カニンガム中将
戦艦 ウォースパイト
大型護衛艦 リシュリュー、ダンケルク、ストラスブール
空母 インドミダブル、フォーミダブル
航空護衛艦 ナイトオウル、キングフィッシャー、トキ、イカルガ、ギンケイ
重巡洋艦 ドーセットシャー コーンウォール
中型護衛艦 ヒグマ、キンシコウ、リカオン
駆逐艦 6隻
小型護衛艦 22隻
この他に海援隊6個師団を運ぶ上陸船団があり、作戦参加艦艇総数は300隻に及ぶ。
カルフォルニア上陸作戦に比べれば小規模だったが、地中海で行われた最大規模の上陸作戦だった。
イタリア海軍は既に再起不能になっており、同盟軍の海上機動攻勢を遮るものはどこにもなかった。
制空権について盤石であり、船団と艦隊の上空はゼロファイターによって守られていた。
また、同盟軍が多大な損害を出して守りきったクレタ島からも一式戦が長駆上空直掩に駆けつけており、ほぼ絶対的といっていい制空権を確保していた。
トブルク奇襲上陸は1942年11月1日のことだった。
この上陸作戦は、ドイツ軍の意表を突いた完全な奇襲となった。
ドイツ軍はエル・アラメインの正面攻勢に全ての予備戦力を投入しており、450km後方のトブルクの防衛に割く戦力など少しも残っていなかった。
軽武装の後方警備部隊を蹴散らすと海援隊はトブルクを占領。確保した港湾を使用して3個師団は船団に戻り、最終作戦に備えた。
同盟軍の最終攻勢であるワークス作戦はDAK最後の北アフリカの拠点であるトリポリ強襲上陸作戦だった。
これは圧倒的な同盟軍の制海権、制空権を背景とした飛び石作戦であり、DAKを二重包囲し、完全に殲滅する作戦だった。
ワークス作戦は、1942年11月15日に発動され、上陸した海援隊3個師団はあっけにとられるイタリア軍を蹴散らしてトリポリを占領した。
遠いエル・アラメインの激戦の最中に届いた凶報に、ロンメルは自分が完全に敗北したことを悟ったという。
その後、同盟軍の容赦ない追撃を奇跡的に振り切ってエル・アラメインから撤退したDAKだったが、既に下がれる場所はなくなっていた。
水も食料も燃料もない状態でDAKは立ち往生しており、このままでは砂漠の真ん中で枯死する以外ない状態だった。
砂漠の酷暑は容赦なくDAK将兵の体力を切り刻んでおり、持久戦など全く不可能だった。
皮肉なことに、彼らが砂漠で枯れ果てずに済んだのは、2年前に敗走したグラツィアーニ元帥率いるイタリアエジプト遠征軍が掘っていた井戸のおかげだった。
だが、井戸から湧くものは水だけで、DAKの戦車もトラックは燃料切れで放棄され、多くの将兵は徒歩で砂漠を後退する羽目になった。
砂漠のと逃避行によってさらに多くの将兵が熱砂に倒れたのは言うまでもない。
DAKはトブルクとエル・アラメインの中間にあるシディ・バッラニで完全に包囲された。
ロンメル元帥は捕虜になることを拒み、部下を武装解除させた後、自決した。
1942年12月1日のことである。
DAKにはヒトラーから玉砕命令が届いていたが、ロンメルは全ての責任を一人で受け入れ、玉砕命令を拒んだ。
ヒトラーはロンメルが玉砕せず降伏したことが信じられず、同盟軍の謀略であるとして無視したが、事実と判明すると著しく精神に変調を来した。
「ロンメルは腹を切って死ぬべきである!アドルフ・ヒトラーが地獄の火の中に投げ入れるものである!」
などと錯乱したため主治医のモレル博士に鎮静剤を注射され昏睡し、一週間も自室から出てこなかったという。
DAKの主力が崩壊したことで、残存部隊も各地で同盟軍に投降していった。特にロンメル元帥の死は著しく在北アフリカの枢軸軍の士気を低下させた。
最終的に北アフリカで同盟軍に投降した枢軸軍将兵は30万人に達している。
これほどの規模の降伏は今次大戦においてドイツ軍初のことであり、連戦連勝を重ねてきたドイツ軍にとって大きな挫折だった。
そして、この結果を受けてかねてから海援隊と交渉を重ねてきた北アフリカのフランス植民地は自由フランスへの参加を決意し、北アフリカ全域が同盟軍勢力下に入った。
「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう」
とチャーチルは述べたが、まさに今次大戦はそのとおりの展開となっていく。
だが、その勝利の報は、もはや何も信じられなくなっていたロシアの孤独な独裁者に心に響くことはなかった。
彼はとても追い詰められており、何も信じられなくなっていたので、身を護るために悪魔と手を組むことを厭わなかった。
ソビエト連邦がドイツと電撃的に講和したのは1942年12月8日のことだった。
ヒトラーの引きこもりが1週間しか続かなかった理由である。




