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大洋の帝国  作者: 甲殻類
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プロジェクトY



プロジェクトY


 1935年1月1日、ジュネーブ海軍軍縮条約が失効した。

 1924年から10年続いた海軍休日は終わりを告げたのである。

 この休日をもっと続いて欲しい人間がいなかったわけではない。

 休みが長い方が誰だって嬉しい。各国の財務官僚は熱心に各方面に働きかけて休暇の延長を働きかけていた。

 だが、ダメだった。

 10年前と国際情勢はあまりにもかけ離れてたものとなっていた。

 1931年の満州事変以後、日米蜜月の時代は終わりを迎え、太平洋を挟んだ世界第1位と第2位の経済大国は貿易摩擦や中国問題で何かと対立するようになっていた。

 ヨーロッパでは極右勢力が台頭し、1933年にはヒトラー内閣が成立。共産党のクーデタをでっちあげると強引に全権委任法を成立させ、ヒトラーは独裁者としてドイツに君臨した。

 ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄して、再軍備を宣言するのは時間の問題と考えられていた。そして事実、1935年3月16日にそうなった。

 重工業化を推し進めるソ連も海軍拡張に転じており、各国海軍は対応を迫られていた。

 つまり誰もが軍備制限を続ける意義を見失っていた。

 そもそもジュネーブ海軍軍縮条約には抜け道があり、あまり実質的ではなかった。

 各国海軍の主力艦である戦艦の建造や保有量を規制したジュネーブ海軍軍縮条約は、戦艦と空母以外については量的、質的な制限がなかった。

 基準排水量10,000t以下で、備砲8インチ砲以外は無制限だった。

 このため、各国海軍は基準排水量10,000t以下の条約型巡洋艦や条約型軽空母の建造に走った。

 妙高型重巡洋艦や龍驤型空母などがそれにあたる。

 ただし、帝国海軍の建造ペースは緩やかなものだった。

 政治的な課題として関東大震災から復興が最優先となったし、列島改造計画で多額の予算をインフラ投資に費やしたので海軍を拡張する余裕がなかった。また、1920年代の日米関係は穏やかなものだったから、なおのこと大海軍は必要なかった。

 事情が変わるのは1929年の世界大恐慌以後のことである。

 急激な経済の悪化に見舞われた日本は第二次高橋内閣の元で列島改造計画「第二次5カ年計画」を発動させると共に軍備拡張に舵を切った。

 軍備拡張は失業率を低下させるのに最も手っ取り早い財政政策であったからだ。

 経済対策のために軍艦をつくるなど前代未聞であったが、帝国海軍はこれを受け入れた。

 船が増えるということはポストが増えることであるからだ。

 拒否する理由はなかった。

 同時期、海軍戦略にも大きな変化が訪れていたので、新しい船をつくる必要があったというのもある。

 それまで帝国海軍は本土近海での迎撃戦を主眼とした迎撃艦隊を作ってきた。

 だが、経済発展の結果、日本は大量の資源を海外から輸入するようになり、近海での迎撃だけを考えた艦隊では通商路を保護することはおぼつかなくなっていた。

 通商路の保護は海援隊の役割だと考えられてきたが、カナダやオーストラリアから輸入する石炭や鉄鉱石を運ぶ航路は10,000kmに達し、平時ならともかく戦時には海援隊の手には負えないものとなっていた。

 さらに経済発展した日本にイギリスは応分の負担を求めており、帝国海軍はシンガポールからオーストラリア近海、カナダ沿岸などほぼ太平洋全域への展開する政治的な必要性に応えなければならなかった。

 こうした政治的、経済的な環境変化が艦艇整備にも現れることになる。

 飢えた狼と称された妙高型重巡洋艦から打って変わって、次級の高雄型重巡洋艦は航洋性と居住性を高めるために巨大な艦橋(上部構造物)を持つことになった。

 武装も妙高型の8インチ連装10門から、連装4基8門へと減っている。

 当初計画では同等の10門を積む予定だったが、砲塔スペースを潰して居住空間と燃料タンクに充てることになった。

 経済対策もあって高雄型は8隻が建造され、条約時代に建造された重巡洋艦としては最多建造となっている。

 帝国海軍は高雄型の火力については不満があったものの、イギリス海軍の肩代わりにインド洋や東南アジアの哨戒に就くと居住性を高めることを求めるようになった。

 サイクロンとモンスーンが吹き荒れる赤道直下のインド洋は相当応えたらしく、帝国海軍の士官からイギリス重巡洋艦の軽武装を笑うものは一人もいなくなったほどだった。

 妙高型から魚雷発射管を撤去して居住区に戻す工事が行われる程度のひどい目にあった帝国海軍は巡洋艦の整備を航洋性を高めた大型軽巡洋艦の量的な拡大にシフトすることになる。

 広大な太平洋に分散展開するためには個艦の質よりも量が重要だった。

 次級の最上型は新開発の6インチ砲3連装3基を備えた9,000t級軽巡洋艦として大量生産され、省力化などを経て最終的に69隻が建造された。

 最上型は砲火力、雷撃力、対空火力が高いバランスで纏まっており、居住性も高く設定され全乗員に二段ベッドを供することができた。

 老朽化した天龍型や長良型などの5,500t級軽巡洋艦は練習艦や海援隊に払い下げられて消えていった。

 駆逐艦についても特型のような水上戦特化型から、船体を拡大して高角砲や爆雷などを搭載したオールラウンダーな甲型駆逐艦へと変化した。

 これに併せて駆逐艦4隻1個駆逐隊を編成し、駆逐隊4個で1個水雷戦隊を編成するという水雷戦特化型編成は行われなくなった。

 水雷戦隊編成は広大なインド洋、太平洋、東南アジア各地に分散配置するためには部隊規模が大きすぎるためである。

 オーストラリアからの鉄鉱石、石炭輸入を防衛するため、帝国海軍はトラック環礁から更に南にあるノイポンメルン島のラバウルにも拠点を整備して、珊瑚海にも活動の場を広げていたから、分散配置のためには駆逐隊のような小さな編成の方が都合がよかった。

 北は北で千島列島の単冠湾に拠点を設けて北太平洋航路の防衛にも乗り出していた。

 これはカナダからの石炭や鉄鉱石輸入航路を防衛するためだった。

 一年中の濃霧に包まれる北太平洋で活動するためには、水上レーダーの装備が必須となり、その開発が促進された。

 なお、日本のレーダー開発を主導したのは財団傘下のOKB56「八木設計局」で、八木アンテナとマイクロ波用マグネトロンの研究、実用化で日本は世界最先端を走っていた。

 レーダーの小型化にはトランジスタが一役買っており、30年代末には北太平洋で活動する船は小さな漁船でさえ航海用レーダーを持つのが当たり前となった。

 こうした技術発展や巡洋艦、駆逐艦戦力の量的な拡大に対して、帝国海軍の主力艦である戦艦の陳腐化は著しかった。

 元から失敗作や習作に近い扶桑型や伊勢型戦艦、海外に発注した金剛型は老朽化が激しく、16インチ砲搭載艦の長門、陸奥、加賀、土佐も建艦から10年経って決して満足できるものではなくなっていった。

 1934年12月31日でジュネーブ海軍軍縮条約が有効期限切れとなると翌日から新型戦艦の建造を開始するのは当然といえた。

 また、そのような戦術的、戦略的な目的以上に日本は戦艦を作る必要性に迫られていた。

 原因は、第二次五カ年計画にある。

 1930年に始まった第二次五カ年計画(列島改造計画第2期)は、世界大恐慌に対する経済対策であり、それは完全な成功をおさめたというのが長年の通説だった。

 しかし、1980年台後半に世界規模の新自由主義経済体制を模索する動きの中で、第二次五カ年計画の再検証が行われた。

 1988年に日本で出版された


「ケインズ経済学の終焉」


 において、第二次五カ年計画は無謀な建艦競争と軍事対立、最終的に太平洋戦争を招いた原因として極めて否定的な評価をうけている。

 高橋是清という当代随一の経済通が首相を務め、ケインズ経済の開祖であるジョン・メナード・ケインズが最高顧問として主導した第二次五カ年計画は結局のところ、計画経済に傾きすぎていたのである。

 積極財政で有効需要を作り出し、恐慌でクラッシュした経済の循環を再起動させるために行われた第二次五カ年計画は需要を作り出すために、インフラ建設による雇用創出と並行して税制や補助金制度を利用して企業に設備投資を半ば強制していた。

 設備投資を渋る企業には法的措置すら辞さないものであり、これは社会主義国に見られた計画経済に共通する部分が多かった。

 計画策定時に財団の理事を務めていたケインズは、


「タカハシと僕の経験を統合し、作り上げたオペレーション。無数の銀行と証券会社を渡り歩いた僕の頭脳。そして、この計画。これがコケるとは思えないけどね」


 と記者会見で述べている。

 だが、1935年の下半期に鉄鋼価格が暴落の徴候を見せると帝国議会の答弁において、


「この程度、想定の範囲内だよ!」


 と開き直りにも近い発言をするに至っていた。

 鉄鋼、石炭、セメント業界は政府主導で景気対策として莫大な設備投資を行った結果、景気は上向いたが生産過剰に陥っていた。

 何故ならば、設備投資を回収するために企業は設備を回して生産するしかないからだ。

 だが、生産(鉄鋼やセメント)過剰なれば、価格破壊がおきる。

 そうなれば設備投資は回収不能となり企業は倒産を余儀なくされる。

 ケインズは、自らの理論により需要と生産の予測が可能となり、完全な経済計画を達成できると考えていたが、

 

「神の見えざる手から離れて、経済を人の手で完全にコントロールするなんて、おこがましいとは思わないかね?」


 と晩年になって誤りを認めるような発言をしている。

 だが、それで済まないのが1935年の日本経済だった。

 計画経済の失敗で生産過剰に陥った企業を救済するための措置として、生産物を政府主導で消費して価格を維持する必要があった。

 生産に見合う消費があれば、価格破壊は阻止されるのである。

 1935年に国鉄が突如として日本全国の鉄道改軌を発表したのはこのためである。

 改軌事業にイギリスも参加しているが、イギリスから輸入分は全計画の10分1にも満たなかった。特にセメントについては全量が日本国内生産で賄われた。

 それでも消費しきれない鉄鋼を使い切るために、帝国海軍には大規模な海軍拡張計画の立案が命じられた。

 所謂、


「新八八艦隊計画」 

 

 であり、超々弩級戦艦16隻を基幹とする艦隊を10年間で整備するというものだった。

 商工省が実施した厳密な計算により、年間2隻ずつ超々弩級戦艦を建造しつづければ、むこう10年間の鉄鋼価格は維持できるという試算が出ていた。

 つまりは、そういうことだった。

 この超々弩級戦艦こそが、後の大和型戦艦である。

 1番艦の大和は1935年1月1日、2番艦武蔵も同日起工されている。

 大和型は基準排水量70,000t、46サンチ砲(18インチ砲)3連装3基9門を備える史上最大最強の戦艦である。

 機関にはディーゼルエンジンと蒸気タービンを混載し、巡航時は燃費のいいディーゼルエンジンを使用し、高速発揮が必要なときは蒸気タービンで加速するという複合動力艦だった。

 ディーゼルのみで巡航すれば航続距離は16ノットで脅威の12,000浬であった。

 ディーゼルエンジン先進国ならではの野心的な設計といえる。

 野心的といえば、大和型の全てに日本海軍初の試みが多く採用されていた。

 蜂の巣甲板のような煙路防御の徹底や、400mmに達する重傾斜装甲、史上最大の艦載砲である46サンチ砲、戦艦としては初となる三連装砲塔、水中防御の徹底、応急注排水システム、ブロック工法や電気溶接など枚挙にいとまがない。

 だが、計画当初はできるだけ船体をコンパクトにまとめて基準排水量を64,000tに抑えることになっており、ディーゼル機関の採用もなかった。

 軍人は概して保守的なものである。

 だが、


「鉄の消費が足りない」


 として商工省が計画見直しを求めたため、6,000tの鉄増量を余儀なくされた。

 船体拡大は運用上の難点を増やすとして帝国海軍は抵抗したが、経済原理が優先された。

 鉄の増量により船体は拡大され、広がったスペースにディーゼルエンジンを搭載することができるようになった。さらに居住性は日本戦艦の中では最高となり、全兵員が2段ベットで眠れるようになり冷暖房も完備された。

 最高速力は公式には28.5ノットだが、海面状態がよければ30ノットも可能であった。

 新八八艦隊計画は、この大和型を量産化して、16隻整備するものだった。

 当然?ながら、この計画は海軍内部で強い異論、反論に直面した。

 特に航空主兵の立場から山本五十六少将(当時)は、計画の全面的な見直しを求めていた。

 山本少将は予算策定会議の席で、 


「大和型と同じ予算で、航空母艦(後の翔鶴型)で八八艦隊をつくれば、米太平洋艦隊を全滅できる」


 と自論の航空主兵を力説したが、


「それでは鉄の消費が足りない」


 と商工省から拒絶された。

 翔鶴型と大和型の建造予算は艦載機込ならほぼ同予算であり、同じ予算額なら鉄の消費は戦艦の方が大きかった。

 

「鉄が余るから戦艦をつくるなど、そんな馬鹿げた話があってたまるか!」


 という声もないわけではなかったが、海軍主流の大艦巨砲主義達からは歓迎された。

 この頃の帝国海軍はやや正気をなくしていた気配があり、長く続いた平和に弛緩していたとも言われている。

 ただし、帝国海軍も完全に理性をなくしていたわけではなく、大和型の大量配備には相応の合理性もあった。

 パナマ運河を通過することが大前提のアメリカ戦艦は全幅を抑える必要があり、最大でも16インチ砲まで限界であり、ワンランク上の18インチ砲搭載戦艦を持っていれば、質的に優位に立てる。

 それでも数の暴力には勝てないが、そのような16インチ砲搭載艦の大量建造はアメリカ合衆国にとっても耐えがたい経済的な負担となり実現不可能だと考えられた。

 抑止力として、大和型の量産配備に一定の合理性があったのは確かである。

 帝国海軍の予想通り、条約明けにアメリカ海軍が起工したのはパナマ運河通過可能な40,000t級16インチ砲装備のノースカロライナとサウスカロライナだった。

 イギリス海軍もまたノースカロライナ級に類似した40,000t級16インチ砲搭載艦キング・ジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズの2隻起工している。

 これらの戦艦建造や詳しいスペックについては、ジュネーブ海軍軍縮条約の規約により、条約失効から10年間は通知義務があり、相互に筒抜けだった。

 通知を受けたイギリス海軍は大和型のスペックに驚くと同時に、新八八艦隊計画について正気を疑う反応を示したが、概ね肯定的だった。

 既に経済力が逆転して、植民地航路の警備の負担に耐えられなくなりつつあったイギリス政府は、自発的に日本人がそれを代替えして、自分達に自由に航路を使わせてくれるかぎり、何も言わないことにしていた。

 同盟国のイギリスには建造中の大和の見学が許可され、来日したウィンストン・チャーチルも建造中の大和を見学している。

 軍艦好きのチャーチルは、案内を担当した造船官を質問攻めして辟易させたという。

 アメリカ海軍は大和型のスペックに恐怖し、


「この船では奴らには勝てない」


 としてノースカロライナ級戦艦の建造を2隻で打ち切り、改良型のモンタナ級戦艦とアイオワ級戦艦の建造に全力を挙げることになった。

 所謂、ヤマトショックである。

 ノースカロライナ級の戦艦をストレッチし、機関を増設して高速化したのがアイオワ級戦艦となる。アイオワ級はまだパナマ運河通過可能だった。

 ノースカロライナ級を大型化してパナマ運河通過を諦めたのがモンタナ級戦艦となり、16インチ砲3連装4基12門の重装甲戦艦として完成することになる。

 なお、同年に帝国海軍が起工した航空母艦は1隻もなかった。

 前述のとおり鉄の消費が足りないせいだが、帝国海軍の空母戦力は相応の規模と戦力を既に備えていたから、新型空母の優先順位が低かったとも言える。

 ジュネーブ海軍軍縮条約下で、日本が最初に保有したのは世界初の航空母艦鳳翔であった。

 鳳翔は実験艦として運用され貴重なデータを齎した。

 このデータは巡洋戦艦として建造中だった赤城の改装に活用された。

 また、同盟国のイギリスで建造が先行していた空母フューリアスに視察団を送るなど、赤城の改装には慎重な情報収集が行われた。

 既に巡洋戦艦としてかなり完成に近づいていた赤城の改装には艦の上部構造物を全て撤去する必要があったから、改装着手には時間的な余裕があったことが大きかった。

 関東大震災で大破した天城は空母転用が不可能であり、日本初の大型空母となる赤城に失敗は許されないという事情もある。

 天城の代わりに加賀を空母にするプランもないわけではなかったが、戦艦として既に完成している加賀を空母に改装するなど机上の空論であった。

 結果として慎重に情報収集と各種検討を行ったことと時間的な猶予があったことから、赤城は当初から近代的な大型空母として完成することになった。

 一時期はフューリアスを模倣した3段式飛行甲板空母に改装することが決まりかけたが、飛行甲板が短すぎて無意味ということが判明して取りやめとなった。

 最終的に赤城は2層式格納庫と全通甲板を備えた基準排水量が条約制限一杯の33,000tの大型空母として完成した。

 なお、艦橋は巡洋戦艦時代のものをそのまま右舷に移設して使用した。煙突も巡洋戦艦のものがそのまま右舷にポン付けされており甲板に食い込んで発艦作業の邪魔だった。

 巡洋戦艦時代の艦橋がそのまま使用されたのは、備砲の8インチ単装砲8門の射撃管制のためで、水上砲戦に備えるためと廃品利用という意味があった。

 空母が水上砲戦などあり得ない話であったが、対抗馬のレキシントンも8インチ連装4基を備えており、過渡期の空母としては致し方ないものだったと言える。

 巨大な艦橋と煙突は後方気流を発生させ着艦作業の妨げになりかねなかったが、実際に運用してみるとさほど問題にならないことが判明した。

 大型艦橋は甲板作業や航空戦の指揮を執るのに便利だったことから、以後、日本の空母は大型の島型艦橋が採用されることになった。

 ただし、甲板に食い込みがあり発艦作業の妨げとなることから、以後は船舷に張り出しを設けて艦橋と煙突を設置する形となった。

 残りの保有枠48,000tを二等分したのが24,000tの飛龍型空母の飛龍、蒼龍である。1928年、1929年に相次いで起工した2隻は理想的な中型空母として艦隊に加わった。

 16,000t級まで小型化して3隻建造するプランもあったが、10,000tまで軽空母なら保有量規制がないことから、できるだけ大きな空母をつくった方が有利と判断された。

 飛龍は赤城の経験を基に2層式格納庫と全通甲板を備え、赤城を一回りを小さくしたような外観で完成した。

 最高速力は赤城が30ノットだったが、飛龍は35ノットと駆逐艦並の韋駄天で、飛龍はその高い運用成績からアークロイヤルに並ぶ理想的な中型空母と称された。

 仮想敵のアメリカ海軍の保有する空母は、1934年時点でレキシントン、サラトガ、レンジャー、ラングレーの4隻に過ぎなかった。

 サンディエゴの太平洋艦隊に配備されているのはレキシントンとサラトガの2隻しかなく、赤城、飛龍、蒼龍の3隻とはほぼ互角の戦力か、やや帝国海軍が優勢といえる。

 ラングレーやレンジャーは防御に難点にある船だったこともあり太平洋へ回航されることは考えにくかった。

 1934年にアメリカ海軍はヨークタウンとエンタープライズを起工するが、これで漸く大西洋艦隊にまともな空母が2隻配備される目処が立った程度の話だった。

 そして、日英同盟がある限り、アメリカ海軍の全力が向かってくることはありえなかった。

 故に日本海軍が老朽化著しい戦艦の更新を優先して、空母を後回しにしたことは当時としては判断ミスとは言えない。

 また、迎撃戦を戦う帝国海軍は基地航空部隊の加勢を期待できた。

 日露戦争において、世界で初めて飛行機を戦争で用いた日本軍は航空兵力運用のパイオニアであり、その地位は第一次世界大戦で欧州列強の追い上げ受けたが未だに頭一つ抜けていた。

 1936年(昭和11年)に帝国海軍は九六式シリーズを相次いで制式採用して、各国の航空関係者を驚かせた。

 中島飛行機で量産化された九六式大型陸上攻撃機は、河城重工のカッパード108a1(空冷14気筒1,500馬力)を備えた本格的な戦略爆撃機だった。

 このエンジンは一段二速式のスーパーチャージャーを備えており、高度8,000mを4tの爆弾を積んで2,000kmも飛ぶことが出来た。

 同じエンジンで双発にして安価に調達可能したのが九六式中型陸上攻撃機であった。

 こちらは航空魚雷を装備して雷撃が可能だった。

 ただし、爆弾搭載量は4分1の1tまでに減り、航続距離のみ互角だった。ただし、取得価格は3分1だったことから基地航空部隊の主力は中型攻撃機の方だった。

 大攻や中攻が帝国海軍の誇る鉾であるのなら、それから艦隊や基地を守る楯も必要だった。

 三菱航空機が海軍の要求に応え、九六式艦上戦闘機を作った。

 エンジンは河城重工が開発した戦闘機用のカッパード106a1(離昇1050馬力)で、ヨーロッパで流行の20mmモーターカノンを装備可能だった。

 その他に逆ガル翼、引き込み脚、光学式照準器、沈頭鋲と完全なモノコックボディ、密閉式風防など、九六式艦戦で実用化した新技術は数多い。

 同時期、ドイツではBf109Aが飛行して比較された。

 一撃離脱戦法に特化したメッサーシュミットと格闘戦指向の九六式艦戦を対比する意見が多いが九六式艦戦は空母に着艦するため短距離離着陸能力を求めた結果、翼面荷重が低くなり格闘戦に強くなっただけで、本質はどちらも爆撃機迎撃機であった。

 パイロットの訓練でも、対戦闘機よりも爆撃機迎撃訓練の時間の方が長く、20mmモーターカノンが装備されたのも同じ理由だった。

 メッサーシュミットはF型までモーターカノンを装備できず、E型から翼内に20mm機関砲を装備するなど、武装に紆余曲折があったのに対して九六式艦戦は最初から最後までモーターカノン装備であった。

 九六式艦戦のモーターカノンはスイスのエリコン社製20mm機関砲(FFS型)である。

 当初はドラムマガジン式で装弾数は僅かに60発だったが、1940年にベルト給弾に変更され一門あたり200発装弾できるようになった。

 モーターカノン用のFFS型は、第二次世界大戦における最強クラスの高初速大火力機関砲だった。

 ただし、エンジンの振動で誤作動を起こす悪癖があり、解決には時間を要することになっている。初期型の九六式艦戦では装備ができず、機首の7.7mm機銃二丁のみの弱武装となる原因となった。

 後にモーターカノンだけではなく、エリコンFSSは翼内機関砲としても使用できるようになり、九六式艦上戦闘機の後継機となる零式艦上戦闘機の主兵装となっている。

 このように来寇する同程度か、やや優勢なアメリカ海軍の空母機動部隊を中攻や大攻で叩き、空母決戦で勝利すれば制空権は確保できる見込みが立っていた。

 帝国海軍は防衛側であるため、空母からしか航空戦力を展開できない米艦隊に比べて有利な要素が揃っていたのである。

 また、空母1隻と母艦航空隊を用意する金で、中攻なら3個航空団は編成できるため、日本海軍は費用対効果の観点から基地航空隊の整備に傾いていた。

 大蔵省は鉄を消費しない航空軍備には消極的だったので、なおのこと低コストな基地航空隊は重視されたともいえる。

 なお、鉄を消費しない軍拡に消極的なのは陸軍も同じで、1937年時点で帝国陸軍は13個師団しかなかったが、その全部を機械化歩兵師団とする計画が進行中だった。

 帝国陸軍は師団の増設を求めていたが、人件費が増えるため却下されており、鉄の消費が増える機械化予算だけが認められていた。

 話が逸れたが、条約明けに日本海軍が空母を建造するのは、1937年に入ってからで、ヨーロッパ情勢の不穏化が受けたものだった。

 イギリス海軍はイラストリアス級航空母艦4隻およびライオン級戦艦4隻を続々と起工させ、日本海軍も改飛龍型空母である翔鶴型2隻を起工させた。

 翔鶴型は基準排水量27,000tに達する大型空母で、飛龍型よりも一回り大きく、大和型に採用された様々な技術がフィードバックされた。

 大和型と同様に巡航用ディーゼルと高速用の蒸気タービンを混載する複合動力艦で最高速力は33ノット、巡航なら後続距離10,000浬を達成している。

 二層式格納庫と島型艦橋といった日本式空母の基本要素はそのままに油圧式カタパルトを装備し航空機運用能力を大幅に向上させていた。

 油圧カタパルトの運用成績は良好で、赤城や飛龍、蒼龍にも順次装備された。

 翔鶴は九六式艦上戦闘機や九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機であれば、露天係止を含めて100機も搭載することができ、その攻撃力は赤城を超える日本最大最強のものとなった。

 仮想敵のアメリカ海軍が1936年に起工したのはヨークタウン型空母の3番艦ワスプ1隻のみであったから、太平洋の空母戦力は日本有利とさえ言える情勢となった。

 1938年にアメリカ海軍はアイオワ級6隻を相次いで起工させ、さらにヨークタウン型4番艦ホーネットの建造を開始した。

 対抗して日本海軍は翔鶴型を発展させ、イスラトリアス級を模範として飛行甲板を装甲化した基準排水量33,000t級の大鳳型空母1,2番艦を起工している。

 1939年以後、大和型戦艦が毎年2隻ずつ就役し、太平洋の海軍戦力は日本に大きく傾くことになる。

 この流れにアメリカ海軍は大きな焦りをつのらせた。

 何故ならば、日米関係は満州事変から7年で抜き差しならないほど悪化していたからだ。


1938年12月末の日本海軍の主要艦艇


BB(戦艦):10隻

加賀型:加賀 土佐

長門型:長門 陸奥

伊勢型:伊勢 日向

扶桑型:扶桑 山城

霧島型:霧島 比叡

*加賀型~扶桑型戦艦は防御力改善と機関出力の引き上げ工事を行って、艦隊最高速力25ノットを発揮可能。

*霧島型は近代化改装で30ノットの高速戦艦となり偵察艦隊(空母部隊)へ編入。


CV(航空母艦):3隻

赤城型:赤城

飛龍型:飛龍、蒼龍

CVL(軽空母):3隻

鳳翔型:鳳翔

龍驤型:龍驤

龍翔型:龍翔

*龍驤型は条約制限外の10,000t級空母として建造。1層式格納庫で24機搭載の高速軽空母として就役しており違法建築物ではない。

*龍翔型は龍驤型の2番艦として建造されたが、龍驤型の搭載機が24機ではあまりにも少ないと思われたため格納庫を2層式に増設した結果、著しく不安定な船として完成した。違法建築物の呪いには勝てなかったよ。


高速水上機母艦:2隻

千歳型:千歳、千代田


一等巡洋艦(CG):16隻

古鷹型:古鷹、加古

青葉型:青葉、衣笠

妙高型:妙高、那智、羽黒、足柄

高雄型:高雄、愛宕、鳥海、摩耶、白根、鞍馬、蔵王、乗鞍

*一等巡洋艦は高雄型で打ち切りとなり、大型軽巡洋艦の量産へシフト


二等巡洋艦(CL):22隻

最上型:最上、三隈、鈴谷、熊野、利根、筑摩、阿賀野、能代、矢矧、酒匂、大淀、仁淀

長良型:長良、五十鈴、名取、 由良、鬼怒 、阿武隈

川内型:川内、神通、那珂

夕張型:夕張

*天龍型や球磨型は練習艦や海援隊へ払い下げされ戦力外へ

*現有の5,500t級も全て最上型(9,000t型)で置き換え予定


駆逐艦:149隻

旧式 一等:36隻

旧式 二等:29隻

特型:36隻

甲型:48隻

*最小の艦隊型駆逐艦(丁型)松型駆逐艦や、(乙型)秋月型駆逐艦が計画されている。


潜水艦:57隻

伊号:45隻

呂号:12隻

*広大な太平洋で活動するため大型潜水艦を多数整備した。

*艦隊決戦時の偵察任務のため水上機を搭載するなど通商破壊に不向きな伊号を補佐する安価なロ号潜水艦の整備を進めている。


補助艦

潜水艦母艦:1隻(大鯨)

大型タンカー(旧式商船型:12ノット):8隻

大型タンカー(新型商船型・高速:16ノット):4隻

艦隊型給油艦:1隻(剣崎)

艦隊型補給艦:1隻(足摺)

工作艦:1隻(明石)

給糧艦:1隻(間宮)

*防衛艦隊のため泊地への依存度が高く補助艦の建造は低調だった。

*欧州情勢緊迫化にともなって欧州再遠征もありえるとして補助艦増勢を計画中


(建造中)

大和型戦艦:大和、武蔵、信濃、甲斐、駿河、相模、越後、尾張

翔鶴型空母:翔鶴、瑞鶴

大鳳型空母:大鳳、神鳳

*大和型戦艦は1~4番艦が進水して艤装工事中。大和、武蔵は1939年中に就役予定

*翔鶴型の就役は1941年予定

*大鳳型の就役は1942年予定



1938年12月末の海援隊の主要艦艇


大型装甲護衛艦 1隻

たいがー型:たいがー

*イギリス海軍が予備艦にしていた巡洋戦艦タイガーを1935年に買い取った。

*練習船扱いで、海援隊の隊士はこの船で厳しい訓練を受ける。そのため、卒業した隊士からはたいがー道場と呼ばれ親しまれた。


航空護衛艦 2隻

じゅんよう型:じゅんよう、ひよう

*海援隊独自に建造した10,000t級航空母艦

*輸送艦としての機能もあり、右舷中央部と艦尾にはそれぞれ20トンまでの車両に対応できるランプを装備している。港湾で迅速に荷役作業が可能である。

*今日的な揚陸艦、多目的艦の魁という評価がある。

*艦載機数は20機。帝国海軍機を用いる。最高速力は25ノット。


中型護衛艦 18隻

きそ型:きそ、きたかみ、おおい

かろらいん型:かろらいん、くれおぱとら、こーます、こんくえすと、こーでりあ

かしま型:かしま、かとり、かしい、かしはら、かわしろ、かこ、かさい、かおう、かやま

そうや型:そうや

*きそ型は帝国海軍の球磨型軽巡洋艦、かろらいん型はイギリス海軍のC級軽巡洋艦である。魚雷発射管や主砲を減らして平時の巡視任務に特化している。

*かしま型は海援隊が独自建造した3,300t級軽巡洋艦。商船構造を採用した。K型とも呼ばれることがある。

*そうや型は5,000t級の北方警備用武装砕氷船である。


小型護衛艦 158隻

さくら型:12隻

えとろふ型:46隻

ちどり型:100隻

*さくら型とえとろふ型は1,000t級の対潜艦、さくら型は第一次世界大戦中の船で老朽化しており、えとろふ型に置き換えが進んでいる。平時は領海警備をしている。

*より量産性の高いうくる型の建造が進んでいる。

*ちどり型は500t級の沿岸警備用、対潜戦闘能力もあるが外洋にはでない。


警備艦 456隻

*100t以下の警察活動用の船が警備艦にあたる。

*武装は機銃か、無いものもある。半数は木造船。

*大日本帝国、朝鮮王国、満州国、イギリスの太平洋植民地の水上警察。

*インド洋、アフリカ沿岸(ソマリア沖)でも活動している。


潜水艦 6隻

*対潜戦闘訓練用に大日本帝国の老朽化潜水艦を購入して運用


陸上部隊 6個師団相当

*国籍、宗教、性別、思想信条を問わず、健康で勤労の意思を有する者で構成される。

*1930年代は共産主義勢力やファシズム勢力の伸長から亡命者が多く入隊した。反ファシズムのドイツ人、イタリア人も多く入隊した。ユダヤ人も多い。軍人として著名な人物にモーシェ・ダヤンがいる。ジョージ・オーウェルが入隊したことも有名。

*日本人の場合、入隊すると徴兵の義務が特別に免除される。

*概ね大隊規模レベルで、各地に分散配置されている。





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