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第九話:孤高の研究者

王都の喧騒を背に、私たちが乗った馬車は南へと向かう街道をひた走っていた。

 クライフォルト公爵家の紋章が入った豪華なものではなく、旅商人などが使う、丈夫だが目立たない普通の四輪馬車だ。御者台には、新たに仲間に加わったバルトルトが、その巨体を少し窮屈そうにしながらも、堂々と座って手綱を握っている。


 彼は、元騎士団の工兵であると同時に、軍の輜重隊しちょうたいにも所属していた経験から、馬の扱いや街道の知識にも長けていた。その無骨な横顔は、もはや酒場の隅で虚ろな目をしていた男のそれではない。確かな目的を得て、再び己の能力を発揮する場を見出した、誇り高き職人の顔つきだった。


 車内では、私とアンナが向かい合って座っている。

「……しかし、驚きました。バルトルト様が、あのように真面目な方だったとは」

 アンナが、馬車の小窓から御者台のバルトルトの背中をちらりと見て、感心したように囁いた。

「酒場でお会いした時は、どうなることかと……」

「人は見かけによらないものよ、アンナ。そして、人は、目的を持つことで変われる。彼は、失っていた誇りを取り戻したの」

「お嬢様が、それをお与えになったのですね」


 アンナの言葉に、私は静かに首を振った。

「いいえ。わたくしは、彼が元々持っていたものに、もう一度光を当てただけ。これから彼が成し遂げることは、すべて彼自身の力よ」


 最初の数日間、バルトルトは必要最低限のことしか口にしなかった。しかし、旅を続けるうちに、少しずつ彼との間にある氷が溶けていくのを感じた。

 きっかけは、旅の二日目の夜、街道沿いの森で野営をした時のことだった。


 アンナが手際よく用意した夕食は、干し肉と黒パン、それにチーズと、質素なスープだけ。一度目の人生の私であれば、眉をひそめていたかもしれない。

 バルトルトは、そんな私の様子を、黙って観察していた。貴族の娘が、こんな貧しい食事に耐えられるのかと、試すような視線だった。

 しかし、私が何の文句も言わずに、むしろ美味しそうにパンを齧るのを見て、彼の目が見開かれた。


「……嬢ちゃん。あんた、本当に妙な奴だな」

 焚き火の向こう側から、バルトルトが呆れたように言った。

「てっきり、食事がまずいだの、寝床が硬いだの、泣き言を言うもんだと思ってたが」

「わたくしは、事業家エレナです。事業家たるもの、どのような環境にも適応できなくてはなりません。それに……」

 私は、カリカリに焼いた黒パンの香ばしさを味わいながら、続けた。

「こうして、火を囲んで食事をするのも、悪くないものですわ。王宮の、何を考えているかわからない方々とテーブルを囲むより、よほど心が休まります」


 私の言葉に、バルトルトは一瞬虚を突かれた顔をしたが、やがて「……はっ、そりゃ違えねえ」と、短く笑った。

 その夜からだった。彼が私を「嬢ちゃん」と呼びながらも、その声色に、確かな信頼と、ほんの少しの敬意が混じるようになったのは。


 焚き火の暖かな光が、私たちの顔を照らす。

 私は、この機会に、次の仲間について彼に話しておくべきだと考えた。


「バルトルト様。次の目的地であるミルフィ村で会う、もう一人の仲間について、お話ししておきます」

「ああ、あの農学者のことか」

「はい。彼の名は、ライナー・ミルフィ。年は、わたくしたちよりも少し上なくらいの、若い方です」


 私は、兄から得た情報と、一度目の人生の記憶を元に、ライナーという人物について語り始めた。

「彼は、独学で、品種改良という新しい農法を研究しています。特に、寒さに強く、痩せた土地でも育つ小麦の開発に、その半生を捧げているそうです」

「品種改良……? そりゃ、また酔狂なことをやってるな」

「ええ。ですが、彼の研究が成功すれば、北の『忘れられた谷』のような不毛の地でも、人々が飢えることはなくなる。わたくしたちの事業だけでなく、この国全体の未来を、大きく変える可能性を秘めた研究です」


 私の言葉の熱に、バルトルトも真剣な表情で耳を傾けていた。

「しかし、彼の村では、その革新的な研究は全く理解されていません。先祖代々の農法こそが絶対であり、人の手で神の作物を変えるなど、異端の所業だと。彼は、村八分のような扱いを受け、たった一人で、畑と研究小屋に籠もって、孤独な戦いを続けているそうです」


 そこまで話した時、バルトルトが、焚き火の中に枝を投げ込みながら、ぽつりと呟いた。

「……そいつは、俺よりタチが悪いかもしれねえな」

「え?」

「俺は、一度、世間に背を向けて、夢を諦めちまった。だが、そいつは違う。誰にも理解されねえ中で、今も、たった一人で戦い続けてるってことだからな。……とんでもねえ、頑固者だろうぜ」


 バルトルトの言葉に、私は彼のライナーへの共感を感じ取った。

 才能がありながら、世に理解されず、不遇をかこつ。そんな自分たちの境遇を、彼は無意識に重ね合わせているのだ。


「ええ。きっと、一筋縄ではいかないでしょう。だからこそ、わたくしたちの仲間として、彼が必要なのです」

 私たちの間には、同じ夢を目指す者同士の、静かで、しかし確かな連帯感が生まれ始めていた。


 それから、さらに数日の旅を経て、私たちはようやく目的のミルフィ村へと到着した。

 街道から少し外れた場所に位置するその村は、黄金色に輝く広大な麦畑に囲まれ、一見すると、豊かで平和な農村そのものだった。

 しかし、馬車が村の入り口に差し掛かった途端、その印象は変わった。

 畑仕事の手を止め、こちらを一斉に見る村人たちの視線。それは、旅人への好奇心などではない。明らかに、よそ者を警戒し、値踏みするような、冷たく排他的な視線だった。


「……なんだか、嫌な感じの村ですね」

 車内から様子を窺っていたアンナが、不安そうに呟いた。

 バルトルトも、御者台から鋭い視線で周囲を観察している。


 私たちは、村に一軒だけある酒場兼宿屋で、馬車を預かってもらうことにした。

 酒場の主人に、ライナー・ミルフィという青年の家を尋ねると、主人はあからさまに嫌な顔をした。

「……ライナーだと? あんたたち、あの変わり者に何の用だね」

「少し、お話がありまして」

「ふん。関わらんほうが、身のためだぜ。あいつは、村の和を乱す厄介者だ。神様の作った麦を勝手にいじくり回すような、罰当たりだからな」


 周りのテーブルにいた他の村人たちも、同意するように頷いている。

 この村全体が、ライナーという存在を、異物として排除しようとしているのだ。

 ようやく聞き出した彼の家は、村の中心から大きく外れた、丘の麓にあった。


 案内された道を歩いていくと、手入れの行き届いた他の畑とは明らかに違う、雑然とした一角が見えてきた。

 他の畑よりも、明らかに土の色が悪く、石ころが目立つ、痩せた土地。しかし、そこには、様々な種類の麦が、まるで実験のように区画分けされて植えられていた。背丈も、穂の色も、バラバラだ。

 そして、その畑の真ん中で、一心不乱に土をいじっている、一人の青年の姿があった。


 泥と汗にまみれた、使い古された作業着。日に焼けた、精悍な顔つき。年は、二十代前半だろうか。

 しかし、その瞳だけが、農夫というよりは、研究者のそれだった。鋭く、知性に満ち、自分の世界の探求に没頭している者の、強い光を宿していた。

 彼が、ライナー・ミルフィ。


 私たちは、彼の作業を邪魔しないように、畑の脇でしばらく待っていた。

 やがて、私たちの存在に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げた。そして、その手に持っていた鍬を、まるで武器のように握りしめ、警戒心に満ちた目で私たちを睨みつけた。


 バルトルトが、守るように私の前に一歩出る。

 私は、それを手で制すると、自ら一歩、前へと踏み出した。


「ライナー・ミルフィ様で、いらっしゃいますか?」

 私の声に、青年の警戒心は、さらに強い敵意へと変わった。

「……そうだ。あんたたちも、村長の差し金か! それとも、役人か! 何度来ても同じことだぞ、俺の研究の邪魔は絶対にさせない!」


 その声は、長年の孤独な戦いで、すっかり心を固く閉ざしてしまった者の声だった。

 バルトルトの時とは違う。彼には、夢を語る前に、まず、この厚い心の壁をこじ開けなければならない。


 私は、彼の敵意を真っ直ぐに受け止めながら、静かに、そして穏やかに微笑んでみせた。


「いいえ、違います。わたくしたちは、誰かの差し金などではありません」

「じゃあ、何の用だ!」

「邪魔をしに来たのではありません」

 私は、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。

「貴方の育てているその小麦を、ぜひ、この目で見せていただきたくて、参りましたの」


 私の予想外の言葉に、ライナーの敵意に満ちた表情が、一瞬だけ、驚きと、そして深い訝しみに変わるのを、私は見逃さなかった。

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