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第八話:これは契約ではなく、誓いだ

「わたくしと、この地図に、貴方の夢を乗せてはいただけませんか?」


 しがない商人の娘と名乗る、『エレナ』と名乗る少女の言葉。

 それは、薄暗い酒場の喧騒の中にあって、驚くほどはっきりと、俺、バルトルト・ヘンケルの鼓膜を打った。


 夢、だと?


 俺は、目の前の少女の顔を、改めてまじまじと見つめた。

 上質な、しかし華美ではない旅装束。恐怖も驕りも浮かんでいない、どこまでも澄んだ真っ直ぐな瞳。そして、その手に広げられた、あまりにも荒唐無稽な計画が描かれた地図。

 とても、こんな掃き溜めのような場所に来る人間とは思えなかった。


 はっ、と俺の口から、乾いた嘲笑が漏れた。

「夢、ね。嬢ちゃん、そんなもんは、腹の足しにもならねえよ。俺は、昔、それで痛い目を見たんでな」


 そうだ、夢。俺にも、かつては夢があった。

 この国で最も堅牢で、最も機能的で、最も美しい砦を、この手で作り上げたい。その一心で、騎士団の工兵として泥にまみれてきた。俺の技術は誰にも負けないという自負があった。そして完成させたのが、あの『鷲ノ巣砦』だ。俺の、人生最高の傑作。


 だが、待っていたのは称賛ではなかった。

 俺の才能を妬む、貴族出の上官からの執拗な嫌がらせ。俺の功績は横取りされ、些細なミスを針小棒大に責め立てられ、挙句の果てには、俺が納入業者と結託して資材を横領したなどという、根も葉もない罪を着せられた。

 俺の夢は、貴族どもの嫉妬と保身の餌食となり、無残に踏みにじられたのだ。

 それ以来、俺は誰も信じないと決めた。夢なんていう、不確かなものに心を動かされるのは、もうやめにした。


「あんたも、どうせそうなんだろ」

 俺は、目の前の少女に、試すような視線を投げつけた。

「俺の技術だけが欲しい、金持ちの道楽だ。荒れ地を物好きで買い取ってみたはいいが、どうにもならなくて、腕の立つ人間を探しに来た。違うか?」


 俺の刺々しい言葉に、少女――エレナは、少しも動じなかった。

 彼女は、俺の目をじっと見つめ返すと、静かに、しかしきっぱりと言い放った。


「いいえ、違います。……いいえ、半分は、合っています」

「……何だと?」

「貴方の技術が欲しい。それは事実です。喉から手が出るほどに。この事業を成功させるには、貴方の右に出る者はいないと、わたくしは確信していますから」


 否定されるかと思いきや、あっさりと肯定され、俺は逆に言葉に詰まった。

 エレナは、続けた。

「ですが、これは道楽などでは断じてありません。わたくしの、全てを懸けた事業です」


 彼女はそう言うと、どこからか数枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。

「これが、『忘れられた谷』の地質調査の記録です。周辺の気候データと、年間の降水量、水源の位置も」

「なっ……!?」


 俺は、思わず身を乗り出した。

 そこに記されていたのは、素人が集められるような情報ではなかった。極めて専門的で、詳細なデータ。こんなものは、国家事業でもなければ、お目にかかれる代物ではない。


「貴方は、この谷がただの痩せた土地だと思っておられるでしょう。ですが、見てください。表層の土壌の下には、水はけの良い砂利層が広がっている。これは、根腐れを嫌う特定の薬草の栽培に、最適な環境です。そして、この等高線。谷の奥にある水源から、この傾斜を利用すれば、最小限の労力で、敷地全体に用水路を張り巡らせることが可能です」


 彼女の指が、地図の上を滑るように動く。

 その言葉には、一切の淀みがない。彼女の頭の中には、すでに完成予想図が、寸分の狂いもなく描かれているのだ。こいつは、ただの夢想家じゃない。本物だ。


「……こんな情報、どこで手に入れた」

「企業秘密、というものですよ」

 エレナは、悪戯っぽく微笑んだ。

「わたくしは、机の上で指図するだけの、雇い主になるつもりはありません」

 彼女は、すっと立ち上がると、俺の前に立った。

「開拓の、最初の石を運び、最初の鍬を土に入れるのは、このわたくしです。バルトルト様。わたくしは、貴方と共に、泥にまみれる覚悟があります」


 その言葉は、俺の心の最も深い場所に、ずしりと重く響いた。

 騎士団にいた頃、俺にそんなことを言った貴族は、一人もいなかった。彼らは、常に安全で清潔な場所から、現場を知りもしない命令を下すだけだった。

 だが、目の前の少女は違う。共に、泥にまみれると、そう言ったのだ。


 俺は、何も言えなかった。

 俺の沈黙をどう受け取ったのか、エレナは、これが最後の一手だとでもいうように、懐から一通の封蝋された書状を取り出した。


「バルトルト様。これは、わたくしからの正式な提案書です。お受け取りください」

 俺が、怪訝な顔でそれを受け取り、封を切る。

 中には、羊皮紙が二枚。一枚は、契約書だった。

 そこに記された報酬の額を見て、俺は思わず目を見開いた。騎士団にいた頃の、俺の年俸の五倍はあろうかという、破格の金額。

 だが、俺の心を本当に揺さぶったのは、その金額ではなかった。契約書の、末尾に記された、ある一文だった。


『――本事業の現場における全権限を、土木建築の総責任者として、バルトルト・ヘンケル氏に、その一切を委任する』


 ……全権限を、俺に。

 資材の選定も、工法の決定も、人員の配置も、全てを俺に任せる、と。

 それは、金よりも、名誉よりも、一人の技術者にとって、最高の敬意であり、最大の信頼の証だった。

 上官の無知な横槍に、どれだけ歯痒い思いをしてきたことか。最高の素材と工法を知りながら、予算や、貴族の利権がらみのくだらない理由で、それらを諦めざるを得なかったことが、どれだけあったことか。


「わたくしは、貴方の才能を縛る上官ではありません」

 エレナの声が、静かに響く。

「貴方の才能が、最大限に発揮できる環境を用意する、事業のパートナーです。わたくしと貴方は、対等です」


 ……パートナー。

 俺は、契約書から顔を上げ、目の前の少女を見た。

 その小さな体の、どこに、これほどの器が隠されているというのか。


 俺は、自分でも気づかないうちに、笑っていた。

 最初は、小さなせせら笑いだった。だが、それはやがて、腹の底からこみ上げてくる、どうしようもない可笑しさを伴った、大きな笑い声へと変わっていった。


「ぶはっ、ははははは! あーはっはっは!」

 酒場の連中が、何事かとこちらを見る。だが、もうどうでもよかった。


「……とんだ、お嬢ちゃんだな、あんた」

 涙が出るほど笑った後、俺は、ごしごしと乱暴に目元を拭った。

 心の中の、長年凍りついていた何かが、バリバリと音を立てて砕けていくのを感じる。

 そうだ。俺は、作りたかったのだ。まだ、この手で。誰も見たことのないような、すごいものを。


「……分かったよ、エレナとやら」

 俺は、椅子からゆっくりと立ち上がった。

 目の前の少女と、視線の高さを合わせる。

「そのふざけたデカい夢に、乗ってやる。このバルトルト・ヘンケル、お前の剣となり、槌となって、その荒れ地に天国を作り上げてやろうじゃねえか」

「! 本当ですか、バルトルト様!」

「ああ。ただし、言っとくが、俺は手厳しいぜ。現場じゃ、嬢ちゃんだろうが容赦はしねえ。泣き言を言っても、やめさせねえからな」

「望むところです」


 エレナは、花が咲くように、ぱっと顔を輝かせた。そして、その華奢な右手を、俺の前に差し出した。

「これは、雇用契約ではありません。わたくしたちの、未来への誓いです」


 俺は、その小さな手を、ごつごつとした自分の大きな手で、力強く握り返した。

 温かかった。

 こうして、俺の長く、薄汚れた冬は、終わりを告げた。


 酒場を出ると、外の光がやけに眩しかった。

 心配そうに待っていた、エレナのお付きの侍女が、俺の姿を見て一瞬怯えたが、エレナの晴れやかな顔を見て、すぐに安堵の表情を浮かべた。


「さて、バルトルト様。まずは、そのお洋服と、お髭を何とかしなくてはなりませんね」

「う、うるせえな。分かってるよ」

「それから、腹ごしらえも。最高の技術者には、最高の食事と、最高の寝床を用意しませんと」

 エレナは、悪戯っぽく笑いながら、先に立って歩き出した。

 その小さな背中が、今は、どんな大男よりも、大きく、頼もしく見えた。


 俺たちは、その日のうちに、仕立屋と宿を手配し、旅の仲間としての体裁を整えた。

 新しい服に着替え、綺麗に髭を剃った俺を見て、エレナは満足そうに頷いた。


「では、バルトルト様。準備はよろしいでしょうか」

「ああ。で、次は何をするんだ? 早速、あの谷に向かうのか?」

「いいえ。その前に、もう一人、どうしても仲間に引き入れたい方がいるのです」


 エレナは、新しい地図を広げた。

 彼女の指が示したのは、王都から遥か南に位置する、小さな農村だった。


「次なる目的地は、ミルフィ村。最高の土木技術者の次は、最高の農学者を迎えに行きますわ」

 その瞳は、すでに、次の獲物を捉えた狩人のように、爛々と輝いていた。

 どうやら俺は、とんでもない嵐のような少女の、最初の仲間になってしまったらしい。

 だが、不思議と、気分は悪くなかった。

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