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第五話:眠れる獅子の目覚め

「何か、僕に手伝えることはないか?」


 兄、テオドールの言葉は、乾いた心に染み渡る水のように温かかった。

 一度目の人生で、誰にも理解されず孤立していった私にとって、その無条件の信頼は、何よりも得難い宝物だ。


「ありがとう、兄様。そのお言葉だけで、とても心強いわ」

 私は、兄が持ってきてくれた分厚い領地の資料に手を置きながら、ゆっくりと顔を上げた。

「もし、本当に手伝ってくださるのでしたら、兄様にしかお願いできないことがあるのです」

「僕にしか……?」


 兄は、私が感傷に浸るのではなく、すぐさま具体的な話を持ち出したことに少し驚いたようだったが、真剣な眼差しで私の言葉の続きを促してくれた。


「はい。兄様には、王宮内の情報を集めていただきたいのです」

「王宮の……? それは、王子殿下たちのことか?」

「ええ。アルフォンス殿下と、聖女リリアナ様の最近のご様子。そして……」

 私は、そこで一度言葉を切り、声を潜めた。

「宰相閣下の動向を、特に詳しく知りたいのです」


 宰相の名を出した瞬間、兄の表情が引き締まった。クライフォルト家と宰相家は、長年の政敵だ。父が『王の盾』として軍事を司る武官の筆頭であるならば、宰相は『王の頭脳』として内政を司る文官の頂点。両者の関係は、常に緊張をはらんでいた。


「宰相閣下が、今回の件に関わっていると?」

「まだ確証はありません。けれど、リリアナ様が男爵令嬢という低い身分でありながら、あれほど早く王宮内で地位を確立できた裏には、強力な後ろ盾があったと考えるのが自然です。そして、クライフォルト家の失脚を最も喜ぶ人物が誰かと考えれば、答えはおのずと見えてきます」


 タイムリープしたという事実は、もちろん話せない。けれど、一度目の人生で経験した出来事の断片を、 logical な推論として再構築することはできる。

 私の冷静な分析に、兄は腕を組んで深く頷いた。


「……なるほど。確かにお前の言う通りだ。リリアナ嬢の台頭は、あまりにも手際が良すぎた。承知したよ、エレノア。僕の騎士団の繋がりを使って、彼らの動向を探ってみよう。だが、決して無理はするな。お前の身に何かあれば、僕は……」

「大丈夫よ、兄様。もう、守られているだけの妹ではいたくないの」


 私は、兄の不安を打ち消すように、力強く微笑んでみせた。

 その笑みに、兄は一瞬何かを言いかけたが、やがて諦めたように小さく息をつくと、「わかった。お前を信じよう」とだけ言ってくれた。

 兄が部屋を出ていくと、私はすぐに彼が持ってきてくれた資料へと向き直った。


 そこから、私の本当の戦いが始まった。

 ページをめくるたびに、私の知らなかったクライフォルト領の姿が浮かび上がってくる。豊かな鉱山、広大な麦畑、活気のある城下の町。表向きは、豊かで安定した、非の打ちどころのない領地だ。

 妃教育の一環として、一通りの知識は頭に入れていた。けれど、一度目の私は、それをただの「情報」としてしか見ていなかった。そこに生きる人々の生活や、未来に潜むリスクなど、考えたこともなかったのだ。


 けれど、今は違う。

 処刑台の上で抱いた、空っぽの人生への後悔。それが、紙の上に並んだ無味乾燥な数字や文字列に、意味と命を吹き込んでいた。


 夜を徹して資料を読みふけり、私はいくつかの重大な問題点を発見した。

 一つは、主要産業である鉄鉱石の産出量が、ここ数年、緩やかに減少していること。報告書では「些細な変動」として処理されているが、一度目の人生の記憶では、この鉱山は十年も経たずに枯渇し、領の経済に大打撃を与えたはずだ。

 もう一つは、領地の南に広がる『銀霧の沼沢地』。今はただの湿地帯だが、五年後に原因不明の流行り病が発生し、多くの領民が命を落としたことを、私は知っている。報告書には、沼沢地の排水計画が財政難を理由に何度も見送られてきたと記されていた。


 問題点だけではない。未来の記憶は、新たな可能性も示してくれた。

 北の『忘れられた谷』と呼ばれる未開拓地。寒冷で痩せた土地だと誰もが信じているが、私は知っている。その谷の特定の斜面に、数年後、高値で取引されることになる希少な薬草『星霜草せいそうそう』が群生していることが発見されるのだ。


 夜が明け、朝日が部屋に差し込む頃には、私の手元には数枚の羊皮紙が出来上がっていた。

 そこには、クライフォルト領が抱える問題点、そしてそれを解決するための具体的な改善案が、私の筆でびっしりと書き込まれていた。

 鉄鉱山に代わる新たな産業の育成。沼沢地の早期排水と、跡地の農地化計画。そして、『忘れられた谷』の薬草栽培計画。

 それは、ただの夢物語ではない。妃教育で叩き込まれた経済学、法学、そして土木工学の知識を総動員し、予算や人員配置まで計算に入れた、実現可能な事業計画書だった。


 夢中で羊皮紙に手を入れていた、その時だった。

 背後で、重々しい咳払いが聞こえ、私ははっとして振り返った。


「……お父様」

 いつの間に入ってきたのか、父が私の背後に立ち、机の上に広げられた羊皮紙を厳しい目で見下ろしていた。

「夜を徹して、何をしている」

「……申し訳ございません。領地の資料を拝見しておりましたら、いくつか気づいたことがございまして」


 父は、私の返事には答えず、羊皮紙の一枚を無言で手に取った。そこには、沼沢地の排水計画と、新しい土木技術を用いた堤防の設計図が描かれていた。一度目の人生では、妃として知る必要もないと切り捨てていた知識だ。


. . .どうせ、お遊びだと思われるだろう。

 婚約破棄された娘が、気を紛らわすために、見よう見まねで領地経営の真似事をしていると。

 そう、覚悟した。


 しかし、父の口から出たのは、予想外の言葉だった。

「……この治水工法は、どこで学んだ」

「妃教育の一環として、諸外国の土木技術に関する書物を。この工法は、砂漠地帯の国で用いられているものですが、応用すれば沼沢地の治水にも役立つと考えました」


 父は、私の書いた計画書を、一枚、また一枚と手に取り、食い入るように読み始めた。その表情は、険しいままだったが、瞳の奥には、昨日までとは明らかに違う光が宿っていた。それは、驚きと、そして……純粋な関心の色。

 やがて、父はすべての羊皮紙を読み終えると、それらを静かに机の上に戻し、私をまっすぐに見据えた。


「……エレノア。お前は、本気なのだな」

「はい。わたくしは、クライフォルト公爵家の人間として、この家に、この地に、貢献したいのです」


 迷いのない私の答えに、父は長い沈黙の後、重々しく口を開いた。

「……分かった。ならば、試させてもらう」

「え……?」

「お前の力を、だ。お前に、北の『忘れられた谷』の開拓と開発を、一任する」


 それは、私がまさに望んでいた提案だった。しかし、父の言葉は続く。

「ただし、条件がある。屋敷からの資金援助は一切行わん。お前自身の力で資金を調達し、事業を成功させてみせろ。期間は一年。もし、一年以内に目に見える成果を出せなければ、お前には二度と領地の経営には口を出させん。……それでよければ、の話だが」


 それは、あまりにも厳しい試練だった。

 けれど、それは同時に、父が私を対等な一人の人間として認め、与えてくれた、初めての機会でもあった。

 悲劇の令嬢ではなく、事業家としての、私への挑戦状。


「……お受けいたします、お父様」

. . .絶対に、成功させてみせる。


 私が固い決意と共にそう答えた、まさにその時だった。

 コン、コン、と扉がノックされ、侍女のアンナが息を切らして入ってきた。彼女は、私の姿と、そして部屋にいる公爵の姿を見て一瞬怯んだが、すぐに私の側に駆け寄ると、小さな革袋を差し出した。


「お、お嬢様! 頼まれておりました品が……!」

「ご苦労様、アンナ。結果はどうだった?」

「は、はい! 店主が、ぜひとも買い取りたいと! これが、その……」


 アンナが私の耳元で囁いた金額は、私の予想を遥かに、それこそ桁が一つ違うほどに上回るものだった。どうやら、私が思っていたよりも早く、「価値がわかる」人物が現れたらしい。


 革袋のずっしりとした重みが、掌に伝わる。

 父から与えられた、資金援助なしという厳しい試練。それを乗り越えるための、最初の、そして最大の武器。


 私は、父に向き直り、静かに微笑んでみせた。

「お父様。ご心配には及びません。事業の資金は、すでに、ここにございますので」


 私の言葉と、手の中にある革袋の意味を理解した父が、生まれて初めて見るような、驚愕に目を見開いた顔をしたのを、私は決して忘れないだろう。

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