笹原法介の華麗なる事件簿①
白金・K・ハワード、四十一歳。
彼はこれまで、実に順風満帆な人生を送ってきた。
英国での名門一家に生を受け、権威ある大学を首席で卒業。
そのあとすぐにとある女性と燃えるような恋に落ち、日本に移住し結婚。
身ひとつで起こしたアンティーク家具輸入業が軌道に乗って、今ではそれなりに大きな会社に成長している。
妻との結婚生活は順調そのものだったし、可愛い娘がふたりもできた。
どちらも反抗期なのか最近は当たりが少々強いものの、それはそれで愛らしくてたまらないし、今でも妻とはラブラブだ。
人はハワードのことを『絵に描いたように幸せな人生を送る男』と呼ぶ。
当人にもその自覚はもちろんあった。
だがしかし、それがまさか故郷の地で――人生最大のピンチを迎えるとは思いもしなかった。
「間違いないわ! この男よ!」
「は……?」
それは商談のため、イギリスを訪れたときのことだった。
商談相手が待ち合わせに指定したのは、都会の片隅にある小洒落たレストランだ。
夜のいい時間ということもあって店内のテーブルはほとんど埋まっており、ジャズの生演奏がゆったりと流れていた。
商談相手は遅れるとの連絡が入ったため、ハワードはテーブルでひとりメールのチェックを行っていた。
なんだか店内がにわかに騒がしくなっていたが、自分には関係ないものだとしてタブレットの操作に集中した。
仕事の連絡……ではない。大事な妻からのメールチェックである。
今日も家族に何事もなく、娘のボーイフレンドも招いて夕飯を食べたらしい。添付されていた写真には、小雪と直哉が仲良く皿を並べるところが激写されていた。
それにハワードは「うらやましいなあ……」としみじみこぼした。仕事が忙しいため、未来の息子と会えるチャンスは限られているからだ。
娘の彼氏など、父親からすれば面白くもなんともないはずだが、ハワードは直哉のことを本当の息子のように気に入ってしまっていた。
早く仕事を片付けて日本に帰ろう、と決意を固めた――ちょうどそのときだ。
突然、先の大声が彼に突きつけられたのである。
「ちょ、ちょっとマダム、落ち着いて――」
「私は冷静よ! あなたが盗んだにちがいないわ! 私の指輪を返しなさいよ!」
ヒステリックに喚き立て、ハワードに人差し指を向けるのは、身なりのいい老婦人だった。
恰幅が非常によく、丸々とした指には大粒の宝石が飾られている。
見るもわかりやすい富裕層の人間だ。
それが鬼気迫る形相で、ハワードに突然泥棒の濡れ衣を着せてきた。周囲の客たちは眉をひそめて注視し、いつの間にかジャズも止まっている。
店中の注目を集めてしまい、ハワードはうろたえそうになる。
しかし紳士の矜恃でそれをぐっと堪え、なるべく穏便に言葉をつむいだ。
「はは……なにかの間違いでしょう、マダム。私はあなたのようなご婦人とは今初めてお会いしますよ」
「嘘おっしゃい! さっきトイレですれ違ったじゃない!」
「そ、そう言われてみれば……」
たしかに先ほど手洗いに立った際、彼女とすれ違ったような気がする。香水の臭いが強烈で、それがやたらと印象に残っていた。
店員たちもまた顔を見合わせて、ハワードに疑いの目を向ける。
「……ちょっとすみません、お客様」
「なっ、なにをするんだ!?」
体格のいいウェイターが素早く動き、椅子に立てかけてあったハワードのカバンをかすめ取った。
そうしてゴソゴソと中身をテーブルに広げていく。
あまりに不躾なその態度に、さすがのハワードも声を荒げそうになるのだが……その抗議の声は、喉の奥へと消えていった。
「ありました! ダイヤの指輪です!」
「は!?」
ウェイターが彼の鞄から、大粒のダイヤがついた指輪を取り出してみせたからだ。
老婦人がそれを見て、鬼の首を取ったように声を上げる。
「それよ! 間違いなく私の指輪だわ!」
「ふむ……お客様、いったいこれはどういうことでしょうか?」
「そ、そんなバカな……! なにかの間違いだ!」
ハワードは椅子を立ち、よろめくしかない。
店中がどよめき、白い目を彼へと向ける。この場の誰もが老婦人の言葉を信じていることが肌でわかった。
それもそうだろう。実際にハワードの鞄から決定的な証拠が出てしまったのだ。まったく身に覚えのない彼以外に、それを疑うものなど誰もいないはずだった。
(なぜ、そんなものが私の鞄に……!?)
まるで状況が理解できなかった。ただ自分の顔から血の気が引いていくことだけが、ありありとわかる。
さらにはウェイターがそんな彼の手首をつかみ、鋭い目を向けてくる。
「お客様、ここでは何ですので……店のお奥へどうぞ」
「ま、待ってくれ! 私はやっていない! 話をどうか聞いてくれ!」
「嘘おっしゃい! 警察よ! 誰か警察を呼んでちょうだい!」
「なっ……け、警察!?」
老婦人がヒステリックに喚き立て、ハワードの頭はさらに真っ白になった。
自分は無実だ。それだけは間違いない。だがしかし、まかり間違って逮捕などされてしまえば……大事な家族に迷惑がかかってしまう。
(そ、それだけはダメだ……!)
だから彼はもう一度無実を叫ぼうと、口を開くのだが――。
「皆さま、少々お待ちいただけますか?」
「っ……!?」
そこで、場にそぐわないほどの穏やかな声が響く。
おもわず口をつぐんでハッと振り返った先、そこには見知らぬ男が立っていた。
何の特徴もない東洋人だ。黒髪を撫でつけて、そこそこ上等なスーツを身に纏っている。おそらく中年と言っていい年齢なのだろうが、青年と呼んでも差し支えないほど若くも見えた。
柔和な笑顔を浮かべる彼を見て、ハワードは首をひねるしかない。
(はて……どこかでお会いしたかな?)
仕事柄、ハワードは様々な人に出会う。
それゆえ人のプロフィールはなるべく一度で覚えるように心がけていた。顔と名前、所属くらいの情報はすぐに思い出すことができる。
だがしかし、この東洋人に関しては一切の情報が浮かんでこなかった。
だから間違いなく初対面……のはずなのだが、何故かよく知った相手のような気がしてならなかった。
不思議な相手を前にして、ハワードは状況も忘れて目を瞬かせるしかない。
老婦人も、彼をじろじろ見つめるばかりだ。
「なによあなた。この泥棒の仲間なの?」
「いえいえ、滅相もございません。こちらの男性とは初対面ですよ」
東洋人の男は折り目正しく頭を下げ、老婦人へと笑みを向ける。
所作も言葉も洗練されているものの、それが行きすぎていないおかげで、一切相手に警戒心を与えない。ビジネスマンとしては一流の物腰だ。
彼はあごを撫でながら、温和な声で続ける。
「ただ、少し気になることがございまして。僭越ながら口を挟ませていただきました」
「気になること……?」
「はい」
そこで、彼はすっと目を細めてみせた。
たったそれだけで纏う空気が一変する。気品ある物腰は、今にも弓矢を放たんとする狩人のそれに。柔らかな笑みは、牙を剥く猛獣のそれに。
おかげで老婦人とウェイターがどよめいた。見守る客たちもいっせいに口をつぐみ、ハワードでさえも言葉を失ってしまう。
店内の空気は今の一瞬で、男によって完全に掌握された。
そのまま、彼は妙に確信めいた調子で――こう続けるのだ。
「ご婦人、あなた……嘘をついていますね?」
第二部はじめました!
さめがちょっと多忙のため、しばらくは不定期更新になります。なるべく週一更新で頑張ります。
おじさんたちの番外編は次回で終わり、それ以降は直哉&小雪のイチャイチャです。なぜおじさんを挟んだ。
休載中もブクマや評価、まことにありがとうございました。
レビューも感謝感激です。北ノ夜空様、ありがとうございます!






