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三田一族の意地を見よ  作者: 三田弾正
第肆章 帰国編
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第漆拾肆話 剣豪と鎗術

大変お待たせしました。


かなり苦労しました。卜伝の性格がどうしてもNHKの堺氏のやったのが頭に浮かんでしまったです。更に寶蔵院胤栄が鎗をはじめたのがこれより後だったと判り書き直したんですよ。


そのせいで、現実逃避で神棚自作してしまいました。


今回は、なんかもやっとした感じです。

永禄元年五月三日


■大和國 奈良


関東へ帰國の途に就いた北條家と征東大将軍として下向する恭仁親王一行は同じ旅路とは言え、片や一年以上も帰っていない故郷への凱旋であり、片や初めて向かう鄙への旅路であったが故に、なるべく早く帰りたいと気が焦る雑兵達と、征東大将軍の威厳を見せる為に各地で式典を敢行するお付きの公家衆との間に確執が起こる可能性が出てきていたのである。


これに対して氏堯らの努力により呑む喰うを普段より立派にすることで不満を解消させていたが、それにかり出されたのは創作料理が出来る康秀であった。散々新作料理を考案してきたからこそ、康秀の監修する料理により兵の不満は解消されていたのである。康秀にしてみればたまった物ではない忙しさであったが。


そんな中、先日の宴で顔合わせをしていた、興福寺こうふくじ多門院たもんいん英俊えいしゅんの伝手で鎗の名手である寶蔵院ほうぞういん胤栄いんえいとも誼を結んだのであるが、その胤栄から思わぬ人物が訪ねてきたとの寶蔵院に仕える小坊主が文を届けてきた。文には本朝に名高き塚原卜伝つかはら ぼくでんが昨日フラリとやって来たと書かれており、北條家一行が滞在していると聞いた卜伝も北條殿に会って見ようとの事で有るとも書かれていた。また今回は忍の旅故、宮様達にも知らせずに北條殿と三田殿だけで来て欲しいとも書かれていた。その様な招待を断る事など出来ない氏堯を先頭に氏政、康秀で卜伝を訪ねるべく寶蔵院へ向かったのである。


寶蔵院に着くと、山門に胤栄が出迎えに来ておりその場で軽い挨拶を行う。

「胤栄殿、この度はご連絡忝ない」

「北條殿もお変わり無き様ですな」


武を貴ぶ二人がにこやかに挨拶をし、早速胤栄が卜伝の元へ案内する。

奥座敷へ案内されると、其処には老齢であるが凛とした姿の老侍が瞑目しながら待ちかまえていた。


「卜伝様、北條様がいらっしゃいました」

そう言われた卜伝は目を見開いて確りとした挨拶をする。

「北條様、拙者は塚原土佐守高幹と申します。巷には卜伝と号しております」

「塚原殿、拙者は北條弾正少弼氏堯と申します。これに居りますは、甥にございます」


氏堯が代表して氏政達を卜伝に紹介すると、氏政らは会釈しながら名を名乗る。

「北條左京大夫氏政にございます」

「三田右馬権頭康秀にございます」


確りとした挨拶をする二人の身のこなしを見るように卜伝は眼を細める。

「丁重な挨拶いたみいり申す」


「北條様も卜伝様もつまらぬ物にございますが般若湯(酒)などを用意致しました故、如何にございましょうか?」

何を話して良いか空気が重かった状態を胤栄が崩したことで、ごく普通の雑談をする事に成った。


「塚原殿は若かりし頃、早雲様にお会いしたことがあると聞きましたが?」

氏政の質問に卜伝は目を瞑った後、思い出したかのように喋りはじめる。

「卜伝で宜しゅうござりますぞ」

気さくに言ってくれと言うが如くに卜伝が応じると氏堯も同じ様に応じた。

「ならば、拙者も氏堯で宜しゅうございます」


「さすれば、氏堯殿と言わせて頂きましょう」

「では拙者も氏政とお呼びください」

「拙者も康秀とお呼びください」


そう言われて、卜伝も眼を細めて応じた。

「さすれば、呼ばせて頂きます。早雲殿の事でございますが、あれは永正二年(1505)の事でしたな、当時齢十七で養父に願い出て武者修行に出たのですが、その途中で小田原へ寄ったさいに丁度氏綱殿に会いに来て居た早雲殿にお会いしまして、人生のことや戦のことなどをご教示頂いたものです。早雲殿のお言葉は長き人生に於いて蓄積なされた貴重な体験談で有りましたな。その上早雲殿も拙者も公方様にお仕えした身、親近感もございますぞ」


卜伝は五十年以上も前に早雲と話した事を懐かしそうに語る。

「そうでございましたか、曾祖父がその様な事を申していたのですか、これは貴重な体験をさせて頂きました」


氏政が確りとした態度で礼を言うと卜伝も好々爺のようににこやかに笑う。

「氏政殿、一介の爺にも確りと礼を尽くして頂けるとは、中将殿(北條氏康)の薫陶宜しですな」

「祖父の言葉もございます故、人には必ず長所がある、それを伸ばすが上に立つ者の役目よと」


「氏綱殿もご立派なお方で有りましたな」

「自慢の祖父にございます」

父と祖父を賞められて喜ぶ氏政であった。


酒を飲みながら雑談をしていると、ハタと卜伝が康秀に話しかけた。

「そう言えば、康秀殿は公方様とやり合ったそうですな」

卜伝は含み笑いのような表情で康秀に問う。

「いいえ、やり合ったなどとんでも無い事です。只単に正論を吐いただけのこと、そのせいで公方様より鬼丸を賜ることになりましたが」


「ハハハハ、つい先日公方様にお会いした所、鬼丸を取られたことが相当悔しかったのか、愚痴をこぼしておられましたからな。典厩殿は公方様を煙に巻いた訳ですな」


塚原卜伝は奈良へ来る前に一度西近江の堅田にて将軍足利義輝に会ってきていたのであるが、鬼丸のことを聞いて興味を持った康秀を見に来るために普段の八十人にも及ぶお付きの面々を残し僅か四人ほどでこの地を訪れていたのである。


「それは、正当なる恩賞として頂いたまで、悔しがるならば、最初っから見せびらかさねば良いだけの事でございましょうから。長四郎になんの落ち度もございません」

卜伝の言葉に氏堯が応える。


「公方様も変わったお方で、将軍家累代の名刀を並べては悦に入られておられるが、次第に鬼気迫るが如き表情に成られるのは、幾度となく矯正致したが未だに直らぬようでな。鬼丸にて康秀殿を脅したも心を鎮められなかったのであろう」


卜伝にそう言われてもあの時は肝を冷やしたと言うのが偽りない事実で有ったから康秀としてみれば、剣豪馬鹿な将軍が夜な夜な京の町へ出て辻斬りしていたと言う噂に信憑性が出てきたなと考えていた。

「しかし、今だから言えますがあの危機たる事態には胆が冷えまくりまして、もう少しで漏らす所でした」


康秀の話にその場にいた者達が笑いはじめた。

「ハハハ、それはそれは災難でしたな、公方様も大人げない事ですな」

「公方様も稚気がでたのでしょうな」

「長四郎、ちびったら末代までの恥になったな、そうなったら妙の事も考えなきゃ成らなくなったぐらいだな」

「新九郎殿、それは酷いですよ」

「すまんすまん」

「ハハハハ」


和気藹々とする中、次第に話は武術の事に成っていった。

「此処でお会いできたのも何かの縁にございます。是非に卜伝殿より教えを乞いたいのでございますが」

氏政が真剣な表情で卜伝に願い出る。


氏政の真剣な表情と一挙手一投足を見ていた卜伝は応えた。

「うむ、拙者の剣をお教えしても宜しいが、僅かな時間では参考程度にしかなりませんぞ、それでも宜しければお教え致そう」

卜伝の答えを聞いて氏政は深々と頭を下げて礼を言う。

「卜伝殿、我が儘を聞いて頂き誠に忝のうございます。是非宜しく御願い致します」


流石にこの日は酒も入っており、日も暮れてきたために教えるのは明日という事ととなった。




翌日、寶蔵院で塚原卜伝、寶蔵院胤栄と北條氏堯、氏政、三田康秀の間で練習試合が行われることとなり、氏堯らは早朝から寶蔵院へ到着した。

道場で氏堯、氏政、康秀が卜伝、胤栄と挨拶をして試合の準備を始めたが、木刀を持つ卜伝に対して、康秀が奇妙な物を袋より取り出しはじめた。それを見た皆が興味津々と眺めた。


「康秀殿それはなんであろうか?」

「卜伝殿、これは竹刀と申しまして、竹を一寸強に割りその中から4つを集め鹿皮などで形を整え作った木刀に変わる練習用の刀でございます」

そう言うと康秀は竹刀を卜伝に渡す。


卜伝は渡された竹刀をマジマジと観察し素振りなどを行う。

「うむ、振り具合も刀身の重心も的確に出来ておりますな、康秀殿してこれは如何様な考えで考案なさったのか?」


「卜伝殿ならばお分かりと思いますが、今の木刀を使った練習では寸止めが基本でございましょう。その為にいざという時にその癖が抜けずに戦場で思わぬ不覚を取る可能性がありましょう。その上に寸止めを失敗し相手を殴り倒してしまい生死に関わることも多々有ります。それをどの様にするか考えた末に、木刀に比べて比較的安全に打つことが出来、簡単で安価に製造できる物として考案した次第でございます。また幼き者達には、木刀による寸止めは難しい事は自分も経験しております。そのために、そのまま殴ってしまい怪我が絶えません。怪我ならば何とか成りますが、鍛錬で命を落としては本末転倒でございます」


康秀の話に、卜伝も胤栄も感じる事が有るのか“ウンウン”という感じで顔を上下に振る。

「長四郎、竹刀だけでは無いのであろう、他の物もお見せせよ」

氏堯が康秀が準備していた得物を知っていたために見せるようにと薦める。


「康秀殿、これ以外にも有るのであれば是非見てみたいの、非常に面白そうだ」

そう言われて康秀が二つほどの武器を出した。


「これは、子供向けの柔らかい刀でございます。これは柄は木製ですが、刀身部分は皮で作り中に綿を入れてあります故、殴っても怪我を致しません」

康秀が見せた物は所謂二十一世紀でスポーツチャンバラ使われた物の応用であった。

「成るほど、面白い発想よの」

「ですな」


続いて見せた物は、鎗であったが、それは普通に使われている素鎗ではなく、素鎗の左右に三日月型の穂が着いた十文字鎗と言う物で有った。

「これは、十文字鎗と言う物でございます。これは素鎗に比べて突くだけでなく、引く、払う、叩くなど慣れれば使い勝手の良い物でございます」


「うむ、拙者の師匠である松本備前守政信殿が似たような鎗を考案しておられたが、師匠の死で絶えておったが、この地で再度見られるとは感無量といえような」

「うむー、南都北嶺の僧兵達は鎗を外道の兇器と言っておりますが、拙僧はそうは思えぬのです、それでも自ら鎗を手にする事はしておりませんでしたが、十文字鎗を見て弄ってみたく成りましたぞ」


その後の試合で、氏堯、氏政、康秀もコテンパンに負けまくったが、心地よい汗をかくことが出来たのである。他にも康秀が前世で行っていた為に見せた抜刀術に卜伝が興味を持って、新当流の中に抜刀術が取り入れられる事に成った。


この後、卜伝は堅田にいる将軍義輝の元へ伺候し、義輝が京へ帰還するに当たり、新当流の印可を授けることになる。これは有名な秘伝一の太刀であった。


後の世に寶蔵院鎗術の大家として有名になる寶蔵院ほうぞういん覚禅法印胤栄かくぜんほういん いんえいもこの頃には薙刀術の大家であり、鎗術自体に手を入れていなかったのである。史実では永禄二年頃に鎗術の成田大膳大夫盛忠という人物との試合で鎗の奥深さを知って成田を一年も止めて教えを乞うたのであるがこの世界では一年ほど早く康秀との試合で鎗に興味を持つことと成った。


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[一言] 先走りすぎごー(意味深)
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