第百三十七話 宇津討伐その3
七月以来の久々の更新です。
何とかクリスマス中に完成しました。
実は、12月10日に右腕肱を疲労骨折しました。
とりあえずキーボードは叩けるので腕をかばいながら書いてました。
永禄二(1559)年四月三十日
■丹波国 桑田郡山中 三田康秀
「暇だ」
「長四郎、どうした?」
「ああ、敵に全く動きがないのが辛いなと」
敵が動かず陣で暇なので適当に図上演習、まあサイコロ使ってシミュレーションしていたら氏照がやってきた。
「ああ、なるほど」
「普通ならば、ある程度の武将であれば物見を出すとか、威力偵察するとかするのが普通なんだが」
「武田勢は何もせずに、佐々江で陣を張っているだけか」
「そう言う事、武田が丹後一色家や但馬山名家への増援を頼んでいるなら既に動きが見えている訳なんだけど、両家ともに何の動きもないしな」
そうなんだよな、北条、三好、北畠、浅井の情報網に引っかからないんだよな。いくら村雲党が地元民だとしてもここまで情報が無い訳が無いんだよな。それに忍び衆の損害も少ないし。
「密かにと言うことは、公方様の御内書ならば両家も否と言えないのではないか?」
「それはあり得るが、一色は武田に加佐郡を占領されている、山名は波多野に朝来郡の一部を横領されている。その恩讐を忘れて大同団結できるものなのか、今更ながら公方に御恩と奉公が通用するのか」
「確かに、それは言えるか、同陣したとしても、同士討ちが起こりかねんな」
「応仁以来、幕府はひたすら共食い状態だからな、いや初代(足利尊氏)からか」
「ああ、尊氏公、直義殿からだな」
「所詮、足利の幕府は有力な武士団に担がれ操り人形で御神輿に過ぎん訳なのだが」
「その御神輿が糸を切って自分勝手な事ばかりし始めて世の中に迷惑ばかりをかけていると」
「そう言う事だね。特に今の公方(義輝)はどうしようもない。将軍家の栄光の復興を企み自分らが三好家を筆頭に数多の大名達におんぶにだっこして貰わないと生きても行けない事も判らないらしいからな」
「有るのは、嘗ての栄光と矜持と肥大化した虚栄心だけか」
「まあ、そうだよな、公方のやっている事は、行き当たりばったりのその場しのぎ、自分の利益になるなら何の考えもなく朝敵に幕府のお墨付き与えて家臣化しているんだから。恐れ多くも主上もお怒りなる訳だよ。言ってみれば公僕が泥棒を雇っているわけだから」
「確かに」
「今の公方は、その場しのぎの御内書乱発しまくりでまるで三国志の漢末の状態にすぎんな、偽勅出しまくりだったらしいから」
「三国志か、確かにそうかもしれないな」
俺も平三もいい加減あきれてきたので、うんざり顔でため息だ。
「さて、俺も兵の訓練でもして来るわ」
「ああ、こっちも、そろそろ訓練をさせるかな」
「じゃあ、後でな」
「了解」
平三が帰った後、鍛錬のために始めた截拳道擬きを兵に教えていたら、使い番の三四郎が慌てたようにやってきた。
「殿、大変にございます」
「三四郎どうかしたか?」
「松永様がいらっしゃいました」
「弾正殿が」
「はぃ、何でも緊急な事案が起こったとか」
「三四郎、直ぐに常陸介殿、平三殿に使いを送れ」
早速、三四郎に綱高殿や平三にも伝えるように命じた。
「はい、既に送っております」
おっ動きが速いな。三四郎は新たな側使い候補として野口の親父殿が育てていた何人かの若者の一人だ。彼は青梅から南の山を越えた五日市の戸倉城主だった小宮家の出身だ。しかし所領は既に浄福寺城主で武蔵守護代大石家に奪われ青梅に逃げてきて今では尾花枯れはててで最下層の土豪状態でうちに仕えていた。
所領を奪われたのは、天文十五(1546)年の河越夜戦が原因だ。当時の河越城は関東公方&関東管領etc.八万に包囲されて青息吐息、北條側も最早これまでと考えた国衆や土豪達が相次いで北條側から離反、その中に小宮家もいた。因みに三田家は北條側に味方しているし大石家も味方していた。
結果的に河越夜戦は北條側のパーフェクトゲームで大勝利、その為に裏切った連中は慌てて北條家に頭を下げたが、そう簡単には許せないらしく北條家の指示はそれぞれの地域で味方した格上の連中に処理は任せるだった。
その際に、各家で対応が違った、三田家の場合は多摩郡西部と入間郡、高麗郡(青梅市、羽村市、奥多摩町、檜原村、入間市、飯能市、日高市、毛呂山町、越生町)とかが勢力範囲だった。
そこで檜原城主の平山政重からは娘の鶴寿を人質に取って旗下に付くようにしたが、元々うちの爺さん(氏宗)の三男で毛呂山城主の毛呂家に養子に行った大叔父の季長殿の跡継ぎ秋季が何を考えたか裏切ったから、跡継ぎ問題が再度発生した。結局身内だからこそ甘いことは出来ないとして、秋季は出家させて息子で俺の又従兄弟の長吉を当主にした。
まあ最終的には、うちが行った処分は当主の出家と家族を人質にするという感じで終わって、家臣団とか一族衆とかは不問にしている訳、なんと言っても平安、鎌倉以来の御家人の血筋だし同じ坂東生まれの侍だから殆どが親族血族知り合い同士という事もありかなり甘い対応したんだ。
うちの処分はこんな感じなんだが、大石は小宮家を初めとして全ての家を所領没収し取りつぶしにした。何故なら大石は元々信濃国木曾出身で坂東者にしてみれば完全な余所者で武蔵に来たのも南北朝時代に関東管領上杉家の家臣として戦功の恩賞の結果、武蔵守護代として派遣されてきただけだから多摩地方にしがらみがないのか平気で取りつぶすんだよな。
それに元々から、うちと大石はライバル関係だ、向こうが僅か二百年経ってない新興の武家のくせに武蔵守護代をやっているのに対してうちや小宮は平安以来、六百年の歴史を誇っている。それに右大将様(源頼朝)以来の御家人の家系であり、さらには関東管領山内上杉家の武蔵における三宿老の一家だ。因みに残りのニ家は藤田家、成田家だ。
それに菅生尾根の山越えて所領が隣接していることもあり境目争いもあり仲も悪い。昔は向こうとこっちの境の秋留台や五日市あたりには小規模な国衆や土豪領が有ったのに向こうが守護代の力を使って横領しまくった結果、所領が隣接したうえに潰された国衆やらの残党が多数逃げてきて家の下級家臣に成ったりしていたので更に仲が悪くなっていた。
そこへ、河越夜戦の後始末で大量処分だ。益々浪人やらが溢れてうちに来た訳。その中に三四郎の小宮家も入っていた訳。下級家臣では知行地も貰えないし、僅かな蔵米では生活が出来ない。そこで三男だった三四郎は一念発起して酒匂三田家が一千貫の所領を得て家臣を新規募集した時に仕官してきた訳だ。
なんで、三四郎かと言うと、はい俺の悪戯です。初めて会った時に誰かに似ていると思ったら、某お笑い芸人に似ていたので小宮と言えば三四郎と言うくだらないダジャレです。元々三四郎は三助って名前だったんだが、元服時して俺の側使いに成った時に三助はまだまだ活躍していないので諱の康秀から秀を与える訳にはいかないという感じにして三助に俺の四郎を与えたと言うことにした。
「殿、皆様が集まりましたぞ」
おっと、考えている間にみんなが集まったか。
「ご苦労」
■丹波国 桑田郡山中 三田康秀
林の中に広場でカモフラージュした天幕で弾正のおっさんと話し合いだ。
「弾正殿、如何なさいましたか?」
綱高殿が弾正殿に質問する。
「武田勢が佐々江から一向に動かない事が判りましたぞ」
「なんと」
「それは」
やっと判明したのか、長かった長かった。本当に蚊や虻がウザかったが蛇や猪は旨かった。
「武田家の逸見駿河守より使いが来たのです。駿河守の文には『この度の事は公方様の御内書を受けた伊豆守と奸臣の仕業、我らは朝臣の端くれ故に帝に弓引くことはございません。どうぞ伊豆守と奸臣の討伐にご協力お願いいたします』と来まして」
「聞いてみると随分と都合の良い言い分ですな」
「此方としても、そのまま受けて良いのか若殿と話しましたが、皆様方にお伝えし考えを聞かねばならないと言うことでして」
んー、弾正殿の歯切れが悪い。まあそうだ、叩き潰すつもりの連中が内輪揉めと言うか、宿老クラスが現主君に対して旧主君を担いでのクーデターを狙っている訳だからな。まあ、確かに前世の記憶じゃこの時代の若狭武田家はとんでもない混乱状態だったし、そのせいで義輝暗殺後に義昭が義兄弟だからと助けを求めて若狭へ来たが直ぐに越前朝倉へ移動したからな、さらには義統死亡後には朝倉に攻め込まれて新当主の犬若丸だっけ?は朝倉へ拉致監禁になったんだよ。
所謂ところ、若狭武田家は家督騒動から起こった内ゲバで内情はガタガタな訳だった。
そのため面従腹背している逸見駿河守が阿呆の御内書を利用して現当主を煽て上げて見事にここまでおびき出したと、そして業腹にもその当主を我らに始末して貰いたい訳だ。
まあ、駿河守も只ではとは言ってないらしく、旧主が帰還後には若狭武田家は三好家と同盟を結んだ上に、現当主義統の弟で新当主になる予定の信由には三好一門の娘を長慶殿の養女として嫁がせる話もしたそうだし、弟の義貞と駿河守や主だった国人衆からも子弟を人質として差し出す事もするらしい。
まあ、ここまでされれば、三好家としても吝かではないという訳で長慶殿に相談した結果OKがでて後は此方(北條、北畠、浅井、佐竹)に相談という訳だそうだ。
まあ、北条家としても楽に勝てるなら良いからと、弾正殿からの話は賛成となった。
永禄二(1559)年五月五日
■丹波国 桑田郡山中 三田康秀
端午の節句になって、北條、佐竹、北畠、松山などなどが準備完了。
逸見駿河守からの連絡で、武田勢は義統派閥を先鋒にして北畠勢に突貫、その間に大将たる武田伊豆守義統の本陣を北條家が討つという形になった。まあ三好本隊と浅井は万が一の裏切りとかのために動かせないし、検非違使は情報漏れが怖いから明智光秀以外は御公家さんにも教えてない。
この作戦のために長慶殿から援軍が送られてきた。
相変わらずの弾正殿、流石フットワークがいいや。
「大殿が援軍を出してくださいました」
「修理大夫殿も手元不如意であろうに」
「はい、しかしここ一番とのことで、松山新介が三千率いてまいりました」
「松山新介重治と申します。北条治部少輔(綱高)様、北条武蔵守(氏照)様には初めましてでございますな。典厩様には一別以来でございます」
来たのは、三好家でも有名な松山新介殿だった。
「松山殿は堺出身で戦も強く芸達者でもあるので三好家一の名物男と言われておりますぞ」
「ほう」
「それはそれは」
てな感じで、先陣を北畠勢、佐竹勢、松山勢が請けおい、本陣へは森林戦が得意な北條勢が突貫することになった。
さて、明日六日に突貫じゃ!
永禄二(1559)年五月五日夜半
■山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 長橋 普光女王
「今年は端午節会も無事に行うことができましたね」
「姉上様のお陰をもって無事に差配できました」
「来年からは貴方一人で差配する事になるんですよ」
叔母上の話に母上が笑顔で返している。
「これもこれも、北條左中将のお陰ですね」
「ええ、院の病が快方に向かっているのも北條左中将、いや新たな薬を献上してくれた三田権右馬頭のお陰でもありましょう」
そう、父上(後水尾上皇)が重い病で有ったが新しい薬で最近は床から起きることが出来たのですから。
「それに、この度は朝敵討伐にも参加していますから」
「ええ、あの武者ぶりは惚れ惚れいたしました」
「まさに絵巻物の若武者のようにございました」
えっ、母上と叔母上は朝敵討伐の出陣式を見ていたの? 私は七年も前に落飾したから安禅寺で読経をさせられていたのにずるい。
「なんでも、歌舞音曲もたいそう得意とか」
「まあ、是非聞いてみたいものですね」
んんー、母上も叔母上も私が見えないようにお話に夢中になって。
けど、権右馬頭か一度見てみたいかな。
やっと、次回は戦闘シーンかな、できる限り早く更新出来る様にいたします。




