第百二十二話 武田さん家の経済事情
お待たせしました。
話数を間違えていました。誤字と一部本編も修正しました。
後書きで何故このようなことをしたかと言う北條側の思惑を追加しました。
色々ありましたが、第五巻発売中です。
御質問や感想返しは今しばらくお待ちください。
永禄元(1558)年九月十二日
■甲斐国都留郡谷村館 小山田信茂
「兄上、残念ですが、作柄は良くありません」
「今年も、不作か」
今年もまた作柄が悪い、本来であれば病気がちの兄上に苦悩をかけたくなく言いたくないが、当主である兄上に言わないわけにはいかないからだ。
「はい、初夏に干魃でしたが、打って変わって盛夏には野分の襲来ですから」
「又、皆が塗炭の苦しみを得るのか」
そうなのだ、我が郡内は、毎年これでもかと言うように風水害が多い、尤も国中も似たり寄ったりの荒れようだが、冬は大雪、春は雪崩、夏は干魃、盛夏は大水、嫌になるほどだ。
「このままですと、冬には餓死者が続出するやもしれません」
「うむ、先年はお前が小田原まで行ってくれたお蔭で二百二十俵もの米を得られた」
「はい」
そうだ、あの時には御屋形様からの命で兄上の代わりに雪の中、小田原へ梅姫様の為、新九郎殿と都の公家娘との婚姻話の真偽を確かめに行ったが、それ自体が御屋形様の杞憂であったな。しかしあれほど雪中で難儀し死にかけながら笹子を越えて報告に上がったにもかかわらず、御屋形様はけち臭く恩賞を二十俵しかくれなんだ。それに引き替え、北條殿は二百俵も土産に下さった。その米を当麻(相模国)で売り払い、代金で粟稗黍などを買い込んで、民の救済に使ったからこそ餓死者が少なかった。普段であれば、蕨やユリ根を掘り食いつなぎ、あげくに木の皮や草まで食んで命をつなごうとする筈なのだ。
「しかし、今年はそのような蓄えも無く、富士詣りの関銭も御屋形様からの命で軍費として多くを供出した」
「はい」
そうなのだ、このところ御屋形様は国中から何かにつけて銭を徴収し始めている。富士詣りの関銭は元はと言えば我が小山田が富士の御使衆や富士講の信者を保護をする代わりに受け取るものであったが、それにまで手を出してくるとは・・・・・・。
「それに棟別銭の前払いまで命じてくるとは、これでは郡内の民に死ねと言うがごとしだ」
「民も嘆いております」
甲斐は貧しい国だ、山間にあり毎年の様の風水害に襲われるという呪われているかの如く事態が起こる。我が郡内でもそれは変わらずだ。それにもかかわらず、御屋形様は容赦なく棟別銭の前払いを命じてくる。甲斐の国中では棟別銭は春秋に百文ずつ徴収されるが、郡内だけは百五十文ずつだ、それに加えて今年は秋の棟別銭百五十文だけで無く、更に来春の棟別銭から三十文も先払いせよと命じてきた。このような作柄の中で百八十文もの棟別銭を払える者がどれほどいるのであろうか?
「北條の棟別銭は五十五文、そのうち二十文は麦での徴収だそうだ。それに比べ武田は精銭で二百から三百文も徴収されるとは、御屋形様は民のことなどなんとも思っておらぬ様で真に嘆かわしい」
「兄上、誰に聞かれているか分かりませんぞ」
「ハハハ、死にかけの当主の戯れ言よ。最近では新家(分家しまだ生活の基盤が出来ていない家)からまで百文も取り立てるとは、領民は武田と当家からの棟別銭で青息吐息よ。全くもって伯父上(越中守信有)の代に押しつけられた棟別銭がここまで民を苦しめるとは、近いうちに泉下で親父殿と一緒になって伯父上に文句を言いに行くとしよう」
「兄上、縁起でも無いことを」
いかん、兄は気弱になっておる。
「ハハハ、病は気からと言うが、自分の体は自分が尤も良く分かるものだ」
「兄上」
病の兄上がこれほどまでに、心労に苦しんでいると言うのに、御屋形様は尻小姓の源助(春日虎綱ではない別人)などにうつつを抜かしている。さらには神社仏閣に多額の寄進をしているのだ。その金は民からの重税でなしているのだ。税をかけそれを戦に使うならば分かる。寄進も大事だが、過度にする必要などあるまいに。それに善光寺を古府中へ移す為の寄進もせよと言ってきている。
「それに、耳を疑ったのは過料銭よ」
「はい、あれには幼い私も驚きしか有りませんでした」
そうだ、御屋形様は事もあろうに、金が足らぬと、私が十歳の天文十八(1549)年に全領民に罰を与えると言い罰金を取り立てたのだ。これには国中の者が嘆き悲しみ怨嗟の嵐であった。何も悪いことをしておらず、実を粉にして年貢を納める領民からこれでもかと搾り取る情け容赦の無いお方だ。
「そうよ、それも我が領では御屋形様と親父殿が相談して金額を決めたなどと吹聴されてな。実際には親父殿が府中へ呼び出されていって見れば、既に文面は出来ており、花押を書かされるだけであったのに、親父殿まで悪役にされたな」
「全くです。郡内ではその後、親父殿が領民の負担にならぬように関銭の蓄えなどから何とか不足分を工面しましたが、怨嗟の声が暫し続きました。しかしそれで済んだ郡内に比べ他の者の所領では・・・・・・」
「逃散、心中、餓死などが多発したしたな」
「更に、僅か二年後(天文二十一(1551)年)には春に多数の餓死者が出たにもかかわらず、郡内にだけ過料銭を徴収しましたから」
「うむ、そのせいで逃散が絶えなかったな」
「それほど民を苦しめながら、逃げる者は地の果てまでも追いかけ棟別銭や過料銭を徴収せよですから」
「それで駄目なら、残った者が連帯責任で払えと法度で決まったしの」
兄上も私もため息ばかりだ。
「まず、甲斐が貧しいのが問題だが、御屋形様も他国から奪うだけではどうにもならぬのは気がついておるが、甲斐にはこれと言って金になるものがないからの」
「ですね。せいぜい黒川や湯之奥の金ぐらいですから」
「金山と言っても黒川は金山衆の田辺が湯之奥は穴山殿が仕切っておるから、運上しかはいらないからの」
「上がりが全て武田家に入れば、これほどまでの重い税に悩まされないでしょうが」
「北條などは、ここ数年で伊豆では多数の金山が発見され、それは北條の直営だそうだ」
「大久保長安なるものの、成果と聞いております」
「うむ、御屋形様も長安を攫おうと三つ者を派遣したが」
「殆ど消息不明になったと聞きます」
「無駄なことを、新たな工法を知りたいならば、同盟の砌、それ相応の礼儀を以て北條殿に頭を下げれば何とかなろうものが」
「下手にちょっかいをかけたが為に、三つ者とはいえ、役に立つ輩を失うわけですから」
全くだ、確かに機密を易々と教えてくれはしないであろうが、言い様はあろうに。御屋形様はどうも謀を好まれるせいか、誠意が足らない気がする・・・・・・。しかし、この世では誠意などと言ってもいられないのも確かな事か。
「そのせいで、越後や近隣との繋ぎや謀が難しくなっているそうだ」
「それは、拙いことですね」
「うむ、典厩様(武田信繁)の御次男が望月に養子に行ったおりに、甲賀望月家から嫁を娶り引き出物として乱破を数十人受け取ろうしたらしいが、その話が無くなった」
「それは、私も穴山殿(穴山信君)から聞きましたが、よりによってあの食道楽の三田某に嫁いだとか」
「うむ、何でも甲賀で望月の娘と会った際に、一戦交えたとか」
「はい、何でも顔にヌルヌルした物を掛けたとか、湯殿で致したとか、そのような話を恐れ多くも梅姫様の前で話したとか」
「嘆かわしいことだ、三田の小僧は遠江でも井伊とか言う家の行かず後家を食らったとか」
「はい、希代のおなご好きらしく、正室以外にも、望月の娘、娘の守り役の年増、井伊の行かず後家、本願寺の寺娘、更に最近は幼い子を集めて愛でているとか」
聞いたときには、御屋形様の節操なさが思い浮かんだわ。かの諏訪御寮人などは親を殺してまでして略奪してきたのだからな。
「なんとも言えぬが、まあ御屋形様も同じよな」
「それは・・・・・・」
兄上、口に出して言うことではないでしょうが。
「ふふふ、まあ良いでは無いか、御屋形様はどうも色事は皆自分と同じだと思っておるのか、親父殿など恩賞代わりに敵将の正妻を下賜されたからな」
「はい、笠原新三郎清繁殿(志賀城主)の奥方でしたから」
「で、志佳殿はお元気かな?」
「先月会ったときには、笠原殿と親父殿の菩提を弔いなさっておいででした」
「そうか、親父殿も四十八で夜の勤めが辛い最中に二十一の側室を押しつけられたのだから、そのせいか僅か五年で逝ってしまったからな、志佳殿は二十一と二十六で夫を亡くした訳だ」
「全くですね。あの音に聞こえた小山田出羽守信有が腎虚で死んだなどとは、父上の名誉のために口が裂けても言えませんし」
「ふふふ、武田の血を引いておれば腎虚では死ななかったかも知れぬがな、御屋形様もだが、先代(信虎)も駿河へ追放になってからまだ子をなしておるし」
「確かに、御年六十越えて二十二人も子がいますし。御屋形様も十一人の子持ち」
「であろう、武田は多産系なのだろう」
「それにしても、伯父上は先代(信虎)の妹を嫁にして武田の軛にかかりましたし、弥太郎殿(小山田虎親)も生まれて順風満帆」
「確かに、そして弟であった親父殿は分家していたが、伯父上と弥太郎殿が相次いで亡くなり、急遽三十過ぎて家を継ぎ信房から信有に改名して家を継いだな」
「はい、それ故に我らは武田の血は継いでおりません」
「それだからこそ、淡泊で子があまり出来ないのかも知れないの」
「兄上もまだ十九では有りませんか、未だ未だ先は長いですよ」
「ふっ、お前もそろそろ嫁を迎えねばならんか、尤も志佳殿の事が気になるようだがな」
「あ、兄上!」
「ふふ、まあ、志佳殿も未だ三十一、流石に子は難しいであろうが、親父殿の勘気も無かろうに」
全く兄上は、俺をしょっちゅうからかうのだから、確かに志佳殿は三十一で有りながら艶やかでお美しいし、憧れはあるし・・・・・・。実際に初めてを捨てたのは志佳殿であったし。
あれは、親父殿が亡くなる前に言われたな。『志佳のことを宜しく頼む、あれは可愛そうな娘だ』そこで俺は親父と分かりましたと言ったが、選りに選って親父が言いやがった。『志佳良かったの、これからは弥五郎に仕えるように』と・・・・・・。そこで、一周忌の後、駒橋の志佳殿を尋ねたところ俺宛の親父の遺言を渡されて開封したら、下のことは志佳に任せよと、そのまま酔わされて、奪われた訳だ・・・・・・。
それ以来、志佳殿とは逢い引きする仲に、無論兄上には内緒で有ったが、流石は兄上だ、バレバレではないか。
「まあ、そろそろ許してやろうか」
「兄上」
兄上が楽しんでおられるなら、まあ良いか。
「話を戻すぞ。御屋形様の苛政のお蔭を以て北條領との境である小菅(現在の北都留郡小菅村、丹波山村)には国中から逃亡してきた多くの民が豊かな関東へ逃げるためにひしめいているそうだ」
「小菅殿も全てに手が回らぬとか」
「そうよ、五郎兵衛尉(小菅五郎兵衛尉忠元)が『とてもでは無いがこれ程の民を押さえることが出来ない』と悲鳴を上げているわ。なんと言っても北條領は、税が安く、新たな水路や堤防の建設で農地が増えた事や、各地の道、橋、湊、建物などの普請で人手がいくらあっても足らぬし」
「はい、聞く所によれば、西国から戦で売り飛ばされた者達まで買い込んで働かせているとか」
「うむ、それも奴碑ではなく、領民として仕事を与えていると」
「はい、領民として新たな作物の栽培などをさせているようですが、三年間は税を全く取らず、それどころか支度金として多くの銭を与えているそうです」
北条氏康、恐ろしき男だ、志賀城で御屋形様がなされた様にとらえた者で身寄りのある者には二貫から十貫で買い戻させ、身寄りの無く買われない者は黒川などの鉱山へ送ったのとは、全く真逆の行動だ。全ては銭の力か。
「弥五郎」
「はい」
「我らは武田の家臣に非ず、連綿と続く郡内の分郡守護だ。武田の下風に立たずに武田に盲進せず。郡内の領民の安寧を願うだけぞ」
「無論にございます」
そうだ。御屋形様は小山田家を有力な家臣と遇してはいるが、実際には母上は御屋形様の母上の妹(大井信達の娘)で有りながら府中(甲府)に人質として捕らわれたままだ。つまり実際には我が家は木曽(木曽義昌)などと変わらぬ存在と思われている訳だ。それに武田の血を引かない我らは特にそうか。普通であれば兄上の嫁に武田の姫を娶らすのが普通であろうが、伯父上が亡くなって以来そのようなことはない。
「そこで、弥五郎に頼みがある」
「何なりと申しつけ下され」
「悪いが、小田原へ行って欲しい」
「小田原へですか?」
「そうだ」
「して何用ですか?」
小田原へ行けというのであれば行くが。
「うむ、実はこのような書状が届いてな」
兄から受け取った書状には、征東大将軍府の文字が書かれていた。
「これは」
「小田原に開府なされた、征東大将軍恭仁親王殿下が『天下に名高い小山田別当の子孫に是非会いたい』とのことだ」
「宮様の戯れ言ですか」
「添え状は北條氏照となっておるが、かの者は左中将(氏康)殿の三男で将軍府の執権となっておる」
兄から添え状も受け取る読んでみると『又お目にかかるのを楽しみにしています』と書かれていた。
「分かりました」
永禄元(1558)年九月二十五日
■甲斐国都留郡谷村館 小山田信茂
「兄上、ただいま帰りました」
「弥五郎、その顔では悩むことは無かったようだな」
「はい、これを」
小田原で征東大将軍恭仁親王殿下へ拝謁し、酒一献と太刀を頂き、俺が代理で受けたが兄上は従五位下出羽守を正式に叙任され、俺は正七位上左兵衛尉に叙任された。これは御屋形様がくれる僭称ではなく、完全な朝廷の官位だ。尤もこれ程の大事だ。俺の一存で貰えるわけも無く、親王殿下が御屋形様に許可を受ける為の書状を出してくれたからこそだが。
更に、北條左中将殿(氏康)からも酒宴に誘われ、北條家の親族、宿老らと旧交を温め、その後、相模川水運を使った郡内を経由する相模と国中の取引ついて話が有った。これには勘定奉行である市川七郎右衛門尉(家光)殿が御屋形様から派遣されて来てともに話を受けた。
そして、その成果がこの文面だ。
「これは」
「はい、我が領を通して国中への穀物、塩、海産物や国中や郡内の産物との取引、それに鐚銭と精銭の交換をしたいと」
「しかし、塩や海産物は駿河から中道往還を通って搬入するが普通では無いか?」
「無論ですが、河内路、若彦路、中道は皆駿河よりの荷に使うには適しておりますが、相模からの荷には適していないですし」
「確かにそうだが、海産物などの商売は分かるが、鐚銭を精銭に交換するなど、北條が損するのではないのいか?」
「私も七郎右衛門尉もその辺が気になり、質問したのですが。左中将殿曰く『朝廷と征東大将軍府、そして恐れ多くも院(御水尾上皇)御自ら揮毫した永禄通宝の流通のため』だと」
「ふむ」
俺もそれを聞いたときは驚いたが、北條は都での評判も良く帝の信頼も厚い家であることが事実であろうと思えたのだ。
「それに、損だけする訳では無く、鉄銭、錆銭、鉛銭などの質が悪い物は十枚で精銭一枚、大欠け、大磨り減り、割れなどは五枚で精銭一枚、それ以外の物は三枚で精銭一枚と決めたいと言ってきているのです」
「なるほど、それならば、素材として回収も可能か」
「はい、それに、甲州金との交換比率も永楽銭三貫三百五十文である所を、永禄銭四貫と交換としてくれるそうです」
「それも、流通のためか」
「はい、それに『甲斐は銭不足であるとか、ならば領民の負担が少しでも軽くなるように銭六百五十文多くするは御仏の思し召しぞ』と親王殿下のお言葉もいただきました」
「親王殿下が民のことを思ってくださるか」
「はい、かの親王殿下のお父上である院も本朝の民の平穏を祈って御自ら写経し各地へ下賜してくださっておりますから」
「確かに、院と帝の御意志となれば断ることはできぬからな」
「はい、それに駒橋(大月)付近で荷下ろしすることで、郡内にも多大な利益を生むことになります」
「弥五郎、駒橋まで船が上がれないのではないか?」
「北條殿が見せてくれた船なのですが、平底船と言って浅い川でも進める様に船底が真っ平らで僅か二尺(60cm)程度の水深があれば進むことが出来るのです」
あの船には驚かされた。
「なるほど、弥五郎が見聞きしてきたので有れば安心できる」
「兄上」
それだけで無く、市川殿にも秘密だとされてた事がある。普通銭は百文で一纏めにし銭差と言うが、昔より紐代と手間賃と言う感覚で四文引いて九十六文で百文として通用している。一貫文であれば九百六十文だが、北條殿が交換してくれる銭は一貫文に付き九百六十文の銭差と四十文の銭に成るのだ。
つまり手数料として四十文余計に貰えるわけだ。たかが四十文と馬鹿に出来ない。甲州金一両と四貫文が交換されると、銭百六十文が入る計算になる。十両で一貫六百文、百両で十六貫だ。しかも今回だけで無く、郡内との商いが続く限りのことだ。
俺も訝しんだが、征東大将軍府が銭を作っている以上は儲けより銭の流通が大事だそうだ。
うむ、これで郡内の領民の負担が少しでも軽くなるか。
永禄元(1558)年九月二十五日
■甲斐国都留郡駒橋 志佳
「母上様、弥五郎殿からですか?」
「ええ、小田原名物のカステラや醤油、海産物などですよ」
「流石は弥五郎殿、母上には激甘ですね。これが噂のカステラですか、いただきます」
「これ、優はしたない」
カステラを持って何処かへ行ってしまいましたか。全く誰に似たのやら。
それにしても、弥五郎殿も立派に成られたことで、これで一歩、我が目的に近づいたかも知れません。
我が夫、笠原新三郎清繁様は、それはそれは威丈夫なお方でお優しい方でした。私は初婚、あの方は奥方を亡くして再婚でしたが、子宝にも恵まれそれはそれは幸せな日々でした。あの野蛮人が攻めてくるまでは・・・・・・。あの野蛮人武田晴信と言う男が我が夫とともに志賀城を攻め滅ぼし、多くの者が死に生き残った者は甲斐へ連行され奴隷として売られました。
城主婦人たる私が自害せずにいたのは、我が子二人を守るためと、噂で聞いた諏訪の姫の様に滅ぼした敵の娘や嫁を手込めにすると言うことで、きゃつに一矢報いようと捕らわれたのですが、あの男は私を信有様(越中守)に恩賞代わりに下賜したのです。
これで全て終わったと、それに我が子は上は娘でしたが、下の子は生まれたばかりとはいえ男児であったが為、密かに乳母に託して逃がしたのですが、事もあろうに乳母が恩賞ほしさに信有様に注進して見つかってしまったのです。このときほど人の無情を感じたことは無かったのですが、信有様は乳母を一刀のもとに切り捨てると『どこぞの百姓の赤子であろうから、寺にでも入れて小坊主として生を得るが良いぞ』と言われたのです。
何というお方だと、涙が止まりませんでした。そして谷村では辛かろうと駒橋に別邸を建てていただき、近所の寺に新五郎を預けてくださったのです。お蔭で私も娘の優もそして新五郎も無事過ごしているのです。
それに信有様も新三郎様に負けないほどのお優しい方でしたが、まさか腎虚で亡くなるとは、少々やり過ぎてしまったようです。
その後、悪いと思いながら弥五郎殿を誘惑し、いつか晴信にそして武田に仇するためにツメを研いでいるのです。私は地獄へ落ちても満足なのです。いつかいつか、晴信に裁きが下りますように・・・・・・。
「母上! お茶が入りましたから、色々お土産を食べましょう」
「わかりましたよ」
永禄元(1558)年九月二十五日
■甲斐国山梨郡古府中 躑躅ヶ崎館 市川七郎右衛門尉
「七郎右衛門尉ご苦労であった」
「はっ」
御屋形様に北條殿との約定の話をするところだが、いつも緊張してしまう。御屋形様が、北條殿からの書状と我らがまとめた報告書を読んでいるが、今回は甲斐の発展に繋がる約定故、御屋形様も厳しい顔はなされていない。
「ふむ、穀物や塩、海産物などの商い、鐚銭と永禄銭との交換の比率などに瑕疵は無い」
「御意」
御屋形様が書状と報告書を筆頭宿老の左衛門尉殿(甘利昌忠)に渡す。
読んでいくうちに左衛門尉殿の手がワナワナ震えていく。それはそうだ、拙者も最初聞いたときは驚いたのだから。
「御屋形様、北條はよほど良い目と耳を持っているようです。ここまで甲斐の内情がダダ漏れとは・・・・・・」
「確かにの・・・・・・左衛門尉続きを読んでみよ」
「これは、うむ。七郎右衛門尉、詳しく話してみよ」
甘利殿が鼻息荒く言ってくるが、全く以てその顔は怖いでは無いか。御屋形様は頷いて拙者に話すように諭している。
「はっ、北條殿の話では、元々朝廷には、受領より各地の産物が報告されていたとの事で、先年より都で行われている古い資料の収集と整理により、それらの記録が発見されたと。それにより甲斐は水晶の産地だと分かったそうです。何でも平安の砌、国中の荒川で水晶の破片が見つかっていたらしく、上流にある昇仙峡付近に水晶の鉱脈があるはずと言うことです。それだけでは無く山梨郡の玉宮社奥の院のご神体は水晶で近隣の扇山から水晶が産出すると書かれているとの事です」
「なるほど、水晶か、確かに高く売れるやもしれん」
「御意、何でも社寺では七宝とともに貴重な品であると、更に南蛮人は水晶を丸く磨き占いをするらしく、北條殿は甲斐より水晶の原石を購入し、磨き砂を常陸から購入し、小田原で磨き堺を通して販売すると言うことにございます」
「なるほど、御屋形様、早速調べ、鉱脈が発見されたら大々的に掘り進み軍費の足しに致しましょうぞ」
「そうよの、金さえ有れば信濃の攻略も進むであろう」
「御意」
「うむ、して、小山田の様子はいかがであったか?」
「相変わらず。郡内の為にと働いております」
「健気なものよ」
「所詮小山田は幾度となく敵対した身、精々北條との間での盾でもしておれば安心よ」
「御意」
小山田殿も気の毒に、しかし先代様との戦などしてきたのであるから、仕方ないと言うことか、我ら譜代には考えられぬ事よ。
小山田家の系図って信有が三代続くとか、初代と二代目が親子じゃ無く兄弟とじゃないかとか複雑怪奇なので自分なりに解釈して想定しております。
武田家の税制ですが、資料を基にしておりますので、おおむね間違っていない可能性が高いです。
北條家の考えでは、少しでも長尾景虎を川中島で撃破して欲しいのである程度までは援助し、海が無い武田家の流通の首根っこを押さえる。更に、甲斐の産業をコントロール下に置くこと、そして最大の要因は幾らでも製造できる銅銭と交換して甲州金の領外放出を進めて武田家の金を少なくする為。
いつの時代も貴金属の方が銅銭より貴重ですからね。
水晶は圧電素子とレンズとして利用するので大量に欲しい訳です。
何れは、乙女鉱山と扇山鉱山でガッポガッポ掘り出して貰うわけです。




