代償は必ず
「うぇ~期末テストかだってよ……まあこれが終われば夏休みになるけどさ。面倒くね? マジだりー、つかねみー」
「ああ……」
「特にだりーのは数学だよ。勉強してもさっぱり分からねえし、補習いってもさっぱり分からねえし、何であんなものが存在してるのかさっぱり分からねえ」
「ああ……」
「隆とか彼女に勉強教えてもらうらしいぜ。羨ましいよなあ……そういやお前、土季先輩とはどうなった? 恋人とはいかなくてもまだ連絡取ってんだろ?」
「ああ……」
心、ここにあらず。何も考えられない。考えたくもない。凛原薬子という女性の本性を垣間見た気がした。
『か、庇ってなんか……大体、知らねえし!』
『そうですか。では今度こそ貴方の部屋に上がらせてもらいます。放課後まで携帯は使わないでください。目撃した瞬間、貴方を重要参考人として拘束しなければいけません。いえ、そうですね。任意同行でした。しかし令状は直ぐに取れます。宜しいですか?』
『…………わ、分かりました……』
『勘違いしないでほしいのですが私は飽くまで七凪雫を逮捕したいだけです。貴方が関係者ではないというのは気配からしてまずありえないのですが、庇っていないのでしたらそれで構いません。しかしもし、この場においてもまだ庇っていると判明したら……その時はお覚悟を』
何も言い返せなかったし、今思い浮かんできた返しも間髪入れず破壊される未来が見えている。打つ手なんかなかった。恋人が居るという情報が彼女に伝わった時点で終わりだったのだ。相談事務所に連絡さえ通せれば何とかしてくれるかもしれないが携帯が使えない。本人はそもそも携帯を持っていない。
「おいちょっと。柳馬やべえぞ。テストで悩み過ぎて完全に死んでる」
「あれ? アイツってそんな成績悪かったっけか」
「数学で言ったら六〇点くらいだな。俺の倍だ」
「神じゃん」
良くて逮捕。罪状は良く分からないが死刑囚を匿って無罪はあり得ない。
悪くて死亡。かつて雫が情報提供を拒んだのは俺もまとめて殺されることを危惧していたからだ。庇っていたと知れば殺されると考えるのも無理はない。現に雫は逮捕されたら確実に殺されると予期している。
「なあ柳馬」
「ああ……」
「柳馬!」
頭頂部を小突かれてようやく意識が輝則に向いた。話は聞いているつもりだ。テストなんて今はどうでもいい。テストの点が悪くても死んだりはしないが、こっちは九割九分死ぬ。何か、何か打開策。放課後になったらも帰路は薬子がつきっきりだ。小細工を施す暇はない。
「……何だよ」
「どの口が言うんだって話かもしれないが、あれだなお前。テストじゃなくて別の事に悩んでるな?」
「…………正解だ。分かったなら放っておいてくれ。会話には参加出来ねえ」
「―――やっぱりお前、七凪雫に狙われてんのか?」
この日は何かがおかしい。関与していない筈の人物が、全くの部外者が、的確に、俺という共犯者に『七凪雫』の名前を脈絡もなく持ち出すなんて。何をカンニングしたら言えるのか。
「……その名前。何で」
「ん? ああいや…………これ、本当は事件が解決するまで内緒って言われたんだ。だけど今のお前は見てられないっつーか……消えそうで。これでお前が死んだら罪悪感ヤバいし」
輝典は机からノートを引っ張り出すと、慣れた手つきで落書きを書き始めた。授業中に関係ない行動は怪しさ満点かと思いきや、うちのクラスでは割と普通の光景だ。多くの先生のスタンスが『落書きしてもいいけどちゃんとノートをとっているなら平常点は下げない』なので、この程度のおふざけは見逃されている。
「ほら、これ見てみろよ!」
話の前後に似合わぬハイテンションで輝則が落書きを見せてきた。本命はそこではなく落書きの下の文字―――HBのシャーペンで薄く書かれた文章。
『ちょっと前。お前が変質者を撃退して持ち上げられた時あんだろ。あれさ、薬子に頼まれたんだよ。向坂柳馬は雫に狙われていていつ殺されるか分からないから、それを守るためにも私に従って、七凪雫が捕まるまでは他言無用って』
応答として俺は落書きの上に文字を書く。落書きはシャーペンだがこちらが使っているのはボールペンだ。同じ黒でも濃さが違う。多少読みにくくとも筆談は成立すると考えた。
『それ、本当か?』
『本当だよ。やっぱりお前、殺されるのか?』
輝則はノートを自分の机に戻すと、心配を露に眉を下げてこちらを見つめた。雫との約束があるので洗いざらいぶちまける訳にはいかない。俺が輝則に悩みを打ち明けられるのは近すぎず遠すぎない距離感をコイツが唯一保持しているから。その均衡を崩したら孤立してしまう。見て見ぬ振りは許していないが、それはそれとして彼に不幸を押し付けたくない。
『心配しなくても大丈夫だ。お前がそれを打ち明けてくれたお蔭で何とかなるかもしれないしな』
クラスメイトが今にも消えそうだから。そんな理由で薬子に反抗してくれた事を心から感謝する。無声音で語りかけた後、俺の表情には苦し紛れの笑顔が浮かんでいた。
―――鳳介。お前ならどうする?
薬子を信用する理由は一切なくなった。彼女は明確に嘘をつき、事もあろうに雫に対する不信感を植え付けようとした。アイツは俺を信じているだとかなんとか言っておいて、大分前から―――きっと最初に出会った瞬間から疑っていたのだろう。妹に取り入ろうとしたのもデートに俺を巻き込んだのも仕事仲間という事にしたいのも全部取り入る為。(俺と薬子が仕事仲間という体があったからこそクラスメイトは素直に従ったのだろう)
おかしいと思っていた。記憶ではなく、真っ先にクラス全体を疑うべきだった。メリットデメリットで考えても埒が明かないのだ。何故ならここはチェスや将棋の様に全ての情報が開示された盤面世界ではないから。見えてなかったら存在しない……それは違う。この世界は俺の物じゃない。俺の知らない場所でも何かが動いている。
正しさを盾にすれば全てが許されると思っているなら大間違いだ。薬子は俺を舐めている。脅しに屈したと思っている。許せない。何とかして一泡吹かせてやりたい。
勝利目標は単純。どうにかして連絡を取って、雫を遭遇させない様にする。しかも携帯を使わずして。約束は破っていない。雫にこの危機を伝える事が出来ればそれが勝利条件になる。プランはない。仮に携帯を使えても雫には連絡出来ないから―――
―――そう、詰んでいる。この手段で勝利するのは不可能だ。よってもう少し抽象的に考え直す。俺と雫の両方が死なず、明確に敵対しない事。
九龍の人には残念ながら頼れない。俺は薬子にも内密で相談しに行ったのだ。俺の部屋に緋花さんでも居ようものならそっちを勘付かれてしまう。それはそれで敗北だ。どうする? 何か方法は本当にあるのか?
『あるさ。どんなに細い可能性も辿ってみなきゃやれるかまでは分からない。探ってみろリュウ。お前なら出来る筈だ』
俺に出来る。それは何だ? それは一体……どういう。
「行きましょうか、向坂君」
放課後。凛原薬子が声を掛けてきた。
「薬子。話がある」
「時間稼ぎのつもりですか?」
「いいや、歩きながらでいい。俺は死刑囚をかばってなんかいないし、そもそもあんな風に追い詰められる謂れも無い。恋人は普通の人だ」
飽くまで抵抗の意思は見せないでおく。今後立ち回る上でも重要な事だ。剣呑な雰囲気を肌で感じ取り緊張するクラスメイトをよそに俺達は一足先に下校する。
「では『名前』を教えてもらっても?」
「櫻葉綾子。昔からの友達だ。嘘じゃないぞ。俺の周りを洗ったなら出て来るだろ」
「……まあ、しかし櫻葉綾子は幼馴染で、クラスには二人を知る人もいる筈です。それがどうして、恋人などと抽象的な言い方になるのでしょうか」
「その方が噂に尾ひれがつくからじゃないか? 例えば……恋人があの七凪雫、とか」
「…………」
その噂は真実だが、薬子にも見えない情報は存在している。あたかも真実を虚偽であると誤認させてしまえば、そこから突破口が開ける筈だ。
「イジメの件で良く分かっただろ。アイツ等は基本的にその場の流れに従ってる。見て見ぬ振りは全員でやるし、掌を返すのも全員。噂の真偽とか信憑性は関係ない。一次ソースも二次ソースも必要ない。ネタに出来る何かがあればいいんだ。そうそう、俺の話なんだがお前―――本当に俺を信用してるのか?」
「どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ。お前、俺を体よく利用するつもりなんじゃないか?」
「根拠は?」
「根拠が要るのか? お前は証拠も無く俺を追い詰めて、半ば脅迫したってのに」
「私には根拠があります。貴方には七凪雫の気配が―――」
「気配気配いい加減にしろっつってんだよ!」
ダダっと走り出した次の瞬間、身を翻して直進。声を荒げて薬子の胸ぐらをつかんだ。
「ここは法治国家だ! 神秘主義が横行してる訳でもないッ。一体何処の馬鹿が裁判で予言にそう書かれていたとか夢で神様に聞いたとかふざけた事抜かすんだ!? そんなものが証拠として採用されるって本気で思ってるのか?」
「気配は私にしか分かりませんが、確実です」
「そういうのを証拠とは言わねえんだよおおおおお! 発言者にだけ分かる証拠は言ったもん勝ちだ! お前は相手にそれを求める癖に、自分は曖昧なまま押し通すんだな!? それが正しい行いなのか?」
「…………煙に巻くおつもりですか? 根拠を証拠という単語にすり替えて論点を逸らす手際は見事ですが、私はこの気配一つで七凪雫を追ってきました。決して間違えません」
「……ッ。だから、それだよ。どっちでもいいんだよそんなの。問題なのは、お前はお前にしか分からない指標で動いてんのに、こっちにはそれを認めない事だ。俺にもそういうのがあるんだよ。だからお前はイエスかノーで答えろ! 俺を利用するつもりだったかどうか、信用してるのかどうか! 今すぐ! この場で! 答えろおおおお!」
時間帯も憚らず、近所迷惑も顧みず声を荒げて薬子を問い詰める。彼女は眉一つ動かさないまま固まっていた。即答出来ない時点で暗に答えは示されているが、彼女にとっては致命的な決断になりうる。
明確に敵対はしないものの、ここであちらから不信を言わせる分には問題ない。言ってくれれば自ずと距離を取れるので利用されなくなる。それでも無理に近づいて来ればそれこそ警察の出番だ。飽くまで彼女は雫の件にのみ関与が認められただけの一般人。犯罪を犯せば普通に逮捕される。
信用しているならトイレでのやり取りが良く分からなくなってくる。利用するつもりがないなら輝則の情報と食い違ってくる。ノーの選択肢はとっくの昔に潰されているのだ。薬子には俺との関係を切る以外の選択肢が残されていない。
「……………………自分が信用されてないとか何とか言ってたが、流石の俺も無条件に不信感を抱く程腐ってない。不信があるなら相応の理由がある。心当たりがあるんじゃないのか」
「……要するに、感情論でも抽象的な証拠でもなく、確たる証拠を用意すればいいんですね?」
「―――は?」
「貴方を疑うに値する理由を、気配以外に用意すればいいんですね? 質問には答えていませんが、結局の所向坂君はまともな証拠もなく押しかけようとした事に憤っている。違いますか?」
「……だったら何だよ」
喉元の唾さえ枯れてしまいそうな緊張感の中、薬子の電話が鳴った。彼女は「すみません」と一言ことわって電話に応答すると、こちらにも微かに聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『クスネ。ナナギシズクの目撃情報と被害者が確認された。来れる』
「はい、分かりました。直ぐに向かいます」
薬子は電話を切ると、景色の反射しない瞳を俺に向けた。
「…………では、まともな証拠を用意してから出直しましょう。トイレでの事、気を悪くさせたのなら申し訳ございませんでした」
そう言って彼女はコンクリート壁を駆け上がり、小動物顔負けの身のこなしで俺の前から姿を消した。
「…………何とか、間に合った」
背後のコンビニの自動ドアが開き、ついさっきも聞いた声が接近してきた。振り返ると、赤いレインコートを着用した女性が僅かに安堵の表情を浮かべながら音も無く近づいて来た。




