鳳凰なりし人の子よ
一切の気が抜けない。
ヤマイ鳥の声が聞こえた時点で変なイボが出てくるのは鳳介からも明らかだ。本体を見つけ出せる利益と引き換えに死のリスクを背負うのは、何というか普通の人間が巻き込まれれば損得勘定の概念がぶっ壊れてしまうのではないだろうか。
俺達はもう、慣れた。死のリスクを何度引き受けたか分からない。しかし誰よりも引き受けているのは鳳介であり、彼を死なせたくないと思えるから俺達も立ち向かえる。
「嘴のイボって生える場所は無作為なのかしら……」
神経の八割を聴覚に集中させて歩く最中、不意に綾子が疑問を口にした。正直言ってどうでもいいのだが、この異様な緊張感に心が詰まりそうだったので、俺は意気揚々とその話題に乗った。
「二の腕から決まって生える理由も見当たらないし、普通に考えればそうだな」
「もし胸とかに生えたら……ああいや、考えたくないッ。大体気持ち悪いのよあの形、もっと可愛い形だったらまだ赦せたんだけど」
「可愛いイボってそれはそれで不気味だろ。女性はこういう時に不利だな」
「何言ってんのよ、アンタ達だって急所にイボが生えたら嫌でしょ?」
急所……局部に嘴のイボが生える。
冷静に考えればあり得ないと分かるが、そもそも嘴形のイボという時点であり得ないので、翻って十分あり得る。鳳介はまだ痛みを感じないらしいが、もしあそこに生えたらと想像するとそれは痛いとか痛くないとかそういう問題ではなくなってくるかもしれない。
普通はズボンに収まっているものだから、イボはどうしても圧迫されてしまうだろう。圧迫されたイボはその内破裂して妙な液体を飛び散らせる。用を足そうと小便器の前に立ったら尿ではなくイボから出た液体が出てくる……とは限らないが、絵面は想像しやすい。見た目の悪さがぶっちぎっている。
「綾子ッ、その話題そろそろやめないか!」
「え? 鳳介からそんな言葉が出るなんて思わなかったわ。どうしたの?」
「単純に気持ち悪いのは苦手なんだよ俺は。小説書いてる時にこの話思い出したらどうしてくれるんだ、夢に出て来るんじゃないのか?」
「同感だが、夢を見るならまず生きて帰る必要があるぞ」
「おおリュウ。言うじゃないかッ。そこまで言うからには何か算段でもあるのか?」
「いや、まず遭遇すらしてないのに算段とか捕らぬ狸の皮算用みたいなものじゃねえか。ある訳ないだろんなもん。現時点で遭遇したのはお前だけなんだから、お前が考えてくれよ。俺は綾子を守るから」
鳳介が鳴き声を聞いて影響を受けてしまった今、綾子を確かに守れるのは俺しかいない。下心は一切無かったのだが、言い終わってから猛烈に恥ずかしくなった俺は微妙に彼女から距離を取った。今みたいな言葉は全く慣れていないから、こういう日常的な雰囲気で言うもんじゃない。
「んー遭遇って言うけどなあ。俺は声を聞いただけなんだが……いやあ困ったな。有名な噂話は幾らか情報が集まるってもんだけど、これはクソマイナーだから情報なんてありゃしない。携帯も今は繋がらないしな」
「え、例によって圏外になってたの?」
「そこ、例によってとか言うな! まあ外部に助けを求めてもどうにもならない場合が多すぎるからそこはどうでもいい。まあ安心してくれ。算段とは言わないが、当てはあるんだ。あの人の言ってた言葉を誰か―――覚えてる人ッ」
先生が良く使う伸びる棒(正式名称を知らない)があれば俺達に向けていたのだろう。何の迷いも無く山道で後ろ歩きをしながら鳳介が掌を向けてきた。
「小屋とか風鈴とか……後何だっけ」
「小屋が繋がってるって何の話だったのかしらね。隠れてるとも言ってた気がするわ」
「おー正解だ。しかし何で記憶の分担をやってるのか俺には理解しかねるが、そうッ。小屋だ。山地さんにアポを取る前に軽く調べた限りじゃ、昔からこの山の中に小屋というか……人が住んじゃいけないらしい」
「私有地だから?」
「仮に私有地ならその人は大丈夫だろうが。暗黙のルールって奴でな、この山に長居しすぎると不幸になりやすいらしい。たったそれだけの話に尾ひれも何もないけど、これを踏まえるなら山の中に小屋なんてあっちゃいけないんだ」
それとなく周囲を見回そうとしたが、生い茂る緑が視界を遮ってしまうので単純に見通しが良くない。ヘリコプターか何かで上空から俯瞰出来れば良いのだが、それも立派に枝葉をつけた大木に邪魔されるので、実際は中を歩くよりはマシ程度かも。
「だから鳴き声が聞こえないなら小屋を探せばいい。鳴き声が聞こえたらその方向に一番近い小屋を探せばいい。まあこの場合は影響を受けた俺が率先して動けば―――」
ピイイイイイイイイイイイイイッ!
―――笛の音ッ?
いや、笛よりは滑らかで、鳥の声と呼ぶには無機質で……もしかしてこれがヤマイ鳥の……!
「そう、これだ! お前等聞こえたよなッ!?」
「西か? 東か? 聞こえたけど方角が分からん!」
「方角なんてどうでもいいだろ! 聞こえたなら行くぞ、リュウ!」
「ね、ねえ待って! 聞こえたって何の事? 私聞こえなかったんだけど―――?」
「「いいから走れ!」」
「……あーもう! 分かったわよ!」
半ば自棄になった綾子を引き連れて俺達は鳴き声のした方向へ。当然の様に道はなくなり俺達は膝丈まで伸びた草を掻き分けながら進まなくてはいけなくなった。ヘンゼルとグレーテルではないが、正規の道から外れて歩くのは危険行為という他ない。素人じゃなくても遭難する。
俺達はどっちみち死ぬリスクを抱えているので引き返すと言う選択肢は二重の意味で存在しないが。
しかし綾子に聞こえなくて俺に聞こえたという齟齬は、影響の有無を如実に知らせていた。万が一にも影響が及ばない様に手を離しておくが、綾子は俺達の中で一番足が遅い。それこそ全速力では距離が開くばかりだ。
「鳳介ッ。なあちょっと速度落とさないか。綾子が追いつけない!」
「そうはいかないッ。俺はこのままいくからお前だけでも寄り添ってやれッ。じゃあ少し先で待ってるぞ!」
「いや、俺も影響が―――!」
行ってしまった。鳳介がぶっちぎりで運動神経が高いのは知っていたが、まさか俺にまで遠慮していたとは思わなかった。接地も不安定で足も上げにくい獣道だろうと彼は難なく走り去っていき、瞬く間に森の奥へと消え去ってしまった。
―――アイツ。さっきまで触れたら影響がどうとか言ってた癖に何で任せるんだよ。
一度は不満になりかけたが、彼は無意味な発言をする人間ではない。きっと今の一瞬で何かに気付いたのだ。多分、影響の効果範囲について。
「ねえリューマ。アンタ声が聞こえたんでしょ? わ、私から離れなくていいの?」
離れなくてはいけない。その発想は万が一を考慮した鳳介の言葉からだ。彼がわざわざ俺に綾子を任せたのはある程度の情報からその考慮が覆った証。遭遇者の話ではないが、今こそ思い出すべきだ。
「いや、大丈夫だッ。多分接触感染はしない」
「どうして?」
ヒントは最初からあった。あの小屋で聞いた最初の声だ。俺達には聞こえていなかったが、遭遇者の猟師と鳳介にだけ声が聞こえていた。そして今、俺と鳳介にだけ聞こえて綾子には聞こえなかった。導き出される結論は実に単純明快。
「俺達だって何度も変なのに巻き込まれてきたんだ。鳳介に聞こえて俺達に聞こえない。俺と鳳介に聞こえてお前に聞こえない。これはヤマイ鳥の力の範囲を示してると考えられる」
「……一人ずつしか影響が及ばないって言いたいの?」
「だと思う。一度聞こえたら後はずっと聞こえっぱなしなんだろう。だからお前にイボが出るとしたら次の声だ。少なくともイボの発生条件は鳴き声を聞いた時と限定して良いだろう。小屋に居たあの人は数えきれないくらい声を聴いたからあんな事になったんだろうな」
「―――因みにアンタは何処にイボが出たの? やっぱり急所?」
「ゾッとしない話をやめろ。右手だ」
証明代わりに右掌を前に突き出すと、到底拳に収まり切らない大きな嘴のイボが真ん中から突き出していた。鳳介が二の腕、俺が掌に這えたので、イボの出現場所は無作為の可能性が高くなった。
「あら、急所じゃなくて良かったわね。掌ならどうって事ないわよ」
「んな訳ねえだろ」
何とも運の悪い場所に生まれてしまったものだ。自分の身体から生えたイボだが、どうしようもなく今は憎たらしい。何せこれだけ大きなイボがあると拳を握る事はおろか、物を掴む動作……何かを持ち上げる動作、押す動作、引く動作。手の関わるありとあらゆる動作を片手で行わなければならなくなってしまったのだから。
興味深そうにイボを眺めていた綾子だが、何を思ったか急に人差し指を立ててツンツンと触り始めた。接触感染はしないだろうとは言ったが、よくこんな物体を触る気になれる。俺ならとてもじゃないが無理だ。
「……あ。ねえ。声が条件なら鳳介は二つ目が出てるんじゃないかしら」
走り去る直前の彼の背中を思い浮かべる。
「……少なくとも背面じゃないな。まあ合流すればわかるだろ。合流出来たらの話だが」
二人で走り続けて五分以上。獣道は足の疲労が溜まりやすいから嫌いだ。しかし見通しが悪いなりにようやく彼の姿を見つけた。何故か走るのをやめて立ち尽くしており、その前方には看板がある。
「おーい鳳介ッ」
「鳥は居たのッ?」
鳳介は振り返りもせず嬉しそうに声を張った。
「おお、すっかり分断されたと思ってたんだが追いつけたかッ。綾子も無事らしいな」
「何だよ。疑うならその目で確かめてみればいいだろ、格好つけてないでさ」
「格好つけてねえッ。ただ……ああまあいいや。どっちでもいいけど、この看板読んでくれないか?」
一息ついて、諦めた様に鳳介が振り返る。
「片方使い物にならなくなっちまった」
正面に向き直った彼の左の瞳孔には、小さな嘴のイボが眼球を突き破って生えていた。




