罪ナわたしヲ愛セマスカ
「あー美味しかったッ」
―――えッ。
何だ、この感覚。
記憶がすっぽり抜け落ちた様な、否。まるで映像がカットされたかの様な唐突さ。わざわざ言い直したのは語弊を生むと思ったからだ。『新世界構想を完成させたい』と言って……その後は食事を摂って……
いや、それはおかしい。あの発言を受けて瑠羽はともかく俺が何か反応しない筈がない。あんな気味の悪い笑顔を浮かべられて、あんな嬉しそうに語られて……本当に何も反応しなかったのかッ?
コーヒーもサンドイッチを食べた。食べた筈だ。皿が空になっている。その記憶もある。実感だけが伴わない。奇妙極まる感覚を他人に説明するにはまず俺と神経を接続する必要があるだろう。この恐ろしさが分かるのは本人だけだ。食べ物を食べた実感がないなんて他人に言った日には八割がた大食いか病気か誤解される。
そう言えばこの新現実とやら、時計が何処にも見当たらない。携帯の画面からも時計機能は消滅していた。
「さて、腹ごしらえもすんだ所ですし、そろそろ店を出ましょうか。これでデート終了というのも味気ないでしょう」
「食べ物は美味しかったですけどねッ」
落ち着いた雰囲気の店内だが、さしもの店も絶対零度まで下がる事は想定していないだろう。そこまでいくと落ち着くというよりは物理的に冷却されて動けない(絶対零度は原子の振動が完全に止まった状態だとか何とか)だけだから。
味気ないという言葉にかけた瑠羽なりの冗談だったのだろうが、申し訳ない。クソつまらない。自信満々に言ってやったぞと言わんばかりの表情をしている所悪いが、本当につまらない。兄としてもつまらないし、同行者としてもつまらない。
一番辛いのはそんな発言で返されてしまった薬子だ。先程の笑みなど無かったかの如く仏頂面な彼女にとってつまらない冗談というのはある種の拷問に等しい。基本的には善人の筈だが、さてどう出る。
「…………会計はとうの昔に済ませておいたので、忘れ物をなさらぬようお願いします」
無視ッ!?
一番あり得ない選択と考えていたが、瑠羽は気にしていなかった。忘れ物も何も携帯と財布くらいしか荷物は無いので、薬子の後を追って俺達は店を出た。
「次は何処へ行くんだ?」
「映画でも見ようかと。近くに映画館がある筈です」
映画。
苦い思い出は何も無いが、雫と一緒に見たかった。あのストーカーさえ来なければそれが叶っていたのに……いいや、デートの機会はまた作れば良い。その為にも逃がしてやらなければ。
「ここですね」
「早いな!」
ある『筈』というくらいだからまた暫く歩かされるのかと辟易しかけていたのに、この近距離は何だ。筈も何も喫茶店出てまっすぐ進んで、角を曲がった所にあるじゃないか。筈と言う程の距離か。こじんまりとした映画館だが、それなりに人気はあるらしく、随分前から人の出入りが確認出来る。
「今日公開されたばかりの映画があるんです。お二人に強い希望が無ければそちらを見たいと思うのですが」
「俺は別に良いけど」
「わ、私は映画とか詳しくないので薬子さんにお任せしますッ」
ちゃんと学校にも行っているので引き籠りとは言わないが、瑠羽は友達の家に遊びに行った事も殆どないので、外に対する情報量は引き籠りとそう大差ない。映画好きならまた話は変わってくるが、別段そうという訳でもなし。
薬子が口元を緩めながら言った。
「そうでしたか。ではお言葉に甘えて……お二人はラブロマンスはお好きですか?」
「ラブロマンス? 意外なもの見るつもりなんだな」
「意外とはまた失礼ですね。私だってこういう物を見たい時があるんですよ」
「私は……よく分からない」
映画に疎ければそんなものだろう。好きとか嫌い以前の問題だ。
「俺は好きな方……かな。ああでも中身による。悲恋とか不倫のドロドロの奴だったら好きじゃないな」
「それならば安心ですね。今回見る映画は悲恋……と言えなくもないですが、まあ別の意味ですし、何より作風が明るい筈ですから」
「へえ、簡単に概要だけ教えてもらっていいか?」
「脱獄した死刑囚の恋人と共に生活する、背徳系の純愛映画です」
感情移入、という言葉がある。
主に創作物を読んだ際に、登場人物に自分の感情を投影して一体化してしまう事だ。別の言葉で共感とも呼ぶ。それのあるなしに作品の感動は得られず、名作と呼ばれる作品には少なからず読者の心を動かす何かがある。感情移入のし過ぎはそれはそれで問題が起きかねないがそれはまた別の話。
かつてない程に、俺はこの映画の主人公に共感していた。言葉通り、まるで自分自身を見ているみたいだったのだ。死刑囚の恋人など家族に受け入れられる訳が無いと思って隠す所とか、悩みや苦しみや嫉妬といった人間として醜い部分に該当する感情を全て受け止めてくれる母性溢るる死刑囚とか。他人の気がしない。
俺の部屋を盗撮したと言われても信じる。映画を撮る前に通報しろとも言いたいが。
全ての座席が埋まる人気ぶりを知る中で、俺達は最前列で映画を見ていた。予約していた訳ではない。たまたまだ。
「……向坂君。もし貴方の恋人が死刑囚だったら、それでも愛せますか?」
「…………ん?」
上映中のお喋りは控えるべきだと思うのだが、流石に無声音であれば迷惑は掛からない。夢中になって見ている瑠羽をよそに、俺は視線だけを向けて答える。
「急にどうしたんだよ」
「いえ。仮定の話です。どうかお気楽に答えてください」
気楽に答えろと言われても、俺にとってそれは仮定ではなく真実だ。雫が聞いているとは思えないが、不誠実に答えるのもどうかと思う。映画の主人公はそれで失敗している。考え込んで足元を見遣ると、蟻が横切っている最中だった。
「…………俺は、多分依存するタイプだ。一度その人を好きになったら止められないタイプっていうか。だから映画みたいに途中で死刑囚だと気付いたとしても、或は最初から死刑囚だと知っていたとしても―――」
「どんな罪を抱えていても、俺の愛は揺らがない」
それが。
それが俺の味方になってくれた彼女への恩返しだと思っている。たとえ世界が敵になったとしてもではないが、唯一の味方を裏切れる程俺も薄情者ではない。その先の末路がバッドエンドと決まっていても、それでも信じる以外の選択肢はない。
裏切られるくらいなら裏切る。己を生かす本能としてそれは自然な行動なのかもしれない。けれど雫に対してはどうか例外とさせていただきたい。彼女を裏切るくらいなら破滅を望む。
「そして罪を幾ら重ねた所で、死刑囚の魅力は変わらない、身の潔白を第一として付き合っている訳じゃない。好きだから付き合ってる。恋人ってそういうもんだと俺は思ってる」
「…………いつか、貴方を殺したとしても?」
「殺されるなら本望だ。悲しまれながら死ぬくらいなら、好きな人に嬉々として殺された方がまだ死ぬ意味がありそうだろ。まあ、痛いのも怖いのも死ぬのも嫌だけど……」
「…………ロマンチストには程遠いですね」
「現実主義でもない。まともな奴は死刑囚なんて恋人にしないからな。俺の発言もキレイゴトなんだって、自分で言いながら思ってる。でもいいじゃねえか。キレイゴト一つ言えない世の中なんて希望に満ち溢れてるとは言えないだろ」
雫の笑顔が好きだ。
雫の優しさが好きだ。
雫の温かさが好きだ。
だから俺は法に背いた。法を守る事で得られるメリットより、彼女と一緒に居られなくなるデメリットが堪えられなかった。鳳介みたいに居なくなられるのも、綾子みたいに絶交されるのももう嫌だ。大切な存在を失いたくない。
当面は口に出せないであろう言葉を、映画の主人公が代弁してくれた。
『―――俺は、お前とずっと一緒に居たい』




