幽玄のセカイ
「今日はどうもありがとうございました」
すっかり傷を治してもらった上に随分家を歩き回らせてもらった。薬子には感謝してもしきれない。目に見えた収穫こそなかったどころか、雫に謝らなくてはいけない必要まで出てきたが、全ては彼女を守る為だ。
なに、イチャイチャなら後で幾らでも出来る。今は実益だ。
「私は泊まってくれても一向に構わないのですが」
「そうはいかねえよ。瑠羽に心配されるのもあれだしな。深春先輩だって泊まる予定は無かったんでしょ?」
「ええまあ。薬子さん、本当にありがとう。貴方が居なかったらどうなっていたか……」
「お気になさらず。これも全ては私の務め。七凪雫の被害を少しでも食い止める。それはきっと私にしか出来ない事ですから」
お礼も程々に身を翻した時、薬子が声を掛けてきた。
「向坂君」
「ん?」
「お互い、楽しみましょう」
妹も合わせてデートなんて初めてだ。そんな事言い出したらまともなデート自体初めてだが(雫の時は邪魔されてしまったし)、緊張はしていない。まがりなりにも二回目のデートだ。相手は違えど薬子はクラスメイトで瑠羽は妹だ。気遣いは無用とまではいかないが、ストレスにはならない範囲である。
今度こそ背を向けて俺達は帰路に着いた。
「深春先輩は何か見つけましたか?」
「ん?」
薬子は最後まで俺の傍を離れなかった。自由に歩き回らせてもらったとはいえ監視の目があるのはどうにもやりにくい。しかし、だからこそ深春先輩は自由に動き回れる。雫と俺の事情は知らなくても彼女は俺の味方だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「具体的な条件を言ってくれないと何ともって感じだけれど」
「薬子に関わる事なら何でも構いません。何かありますか?」
「関わる事って言われても……あ、そうね。天玖村の出身って事は分かったわよ」
俺の両足は止められた。それは自発的意識に違いないのだろうが、断言しても良い。何かとんでもない力に俺は無理やり止められたのだと。
「それ、先輩の推測じゃないですよね?」
只ならぬ様子で問い詰めんとする俺を見て先輩は若干たじろぎながらも携帯の画面を取り出した。そこには真っ黒い紙に血文字でこんな事が書かれていた。
『あからべ くるくる たみつかり あまくのむらに おいでなさい』
ひらがなで綴られた文章の意味は分からないが、あまくのむらとは正しく天玖村の事だ。こんな紙きれが流通している訳もないが、これだけで出身と決めつけるには弱いと思う。薬子は雫逮捕に貢献しており、紙はその際に回収したのかもしれない。警察にないのは、何か色々理由があるのだ。
先輩の細長く綺麗な指が画面を滑る。次の画像では『私のセカイ』という題名で子供が描いた様な絵が飾られていた。
「……この風景が天玖村って言いたいんですか?」
「検索してみたらそうだったのよ。て言っても十年前の画像だけど」
「十年前!? また随分古い話ですね…………」
それは先輩にとって何でもない情報だったのかもしれないが、改めて口に出して整理してみると何か妙だ。違和感……そう、違和感。
七凪雫は十八歳の頃に村中の人間を全て殺害している。
それは紛れもない事実の筈で、だからこそ過去に報道が…………
「ん?」
「どうしたの?」
「先輩。七凪雫がいつ逮捕されたか調べてください」
「え? 急にどうしたの?」
「それと最近の天玖村の画像も」
「…………分かったわ。後でちゃんと説明してね」
「はい」
記憶だけでは曖昧になっても仕方ないので、全てはインターネットの識るがままに。暫く待っていると、深春先輩が首を傾げつつ画面を俺に見せてきた。
「―――ないわ」
「ない?」
「七凪雫逮捕の記事が何処にもないのッ。あんな、あんな死刑囚が逮捕されたのよ、みんな覚えてる。私だって覚えてるわ…………なんでッ?」
「じゃあその記憶、何年前とか分かりますか?」
「えッ―――それは」
思い出せないだろう。俺だってそうだ。というか誰に聞いても答えは一緒だろう。インターネットに引っ掛からない話なんて存在しない。この世界には表に出ない事件があるとされているが、雫逮捕は表に出ているのだ。死刑囚として雫の個別記事は存在するが、そこにも逮捕された時期は書かれていない。
そして本人の発言を信じるなら彼女は今も十八歳だ。これを合理的に説明しようとすると過去一年以内に雫は村の人間を殺し、逮捕され、死刑囚になったという事になる。それはあり得ない。裁判の流れ的にも多分早すぎるし、何より俺も先輩も何年か前の過去として認識している。
「天玖村の画像は?」
「十年前が最新だけど…………でも、それは普通じゃない? 人が死んだ部屋って事故物件って言われるし、皆殺しにされた村の跡地なんて誰も引き継ぎたくないでしょう?」
「いや、そういうのは心霊スポットとして有名になると思いますし、あの死刑囚が生まれた村の現在は! みたいな記事が無いのもおかしい。この世界には廃墟マニアな人間も居ますからね。そういう人たちが赴かないのも変というか、単純に十年前以降全く情報が出回らないなんて不自然だと思いませんか?」
「それはそうね……」
雫に関する記憶の錯乱。
十年前以降の情報の消滅。
極めつけは村の出身と思わしき薬子の矛盾(村の人間を全員殺したという記述が真実なら彼女も殺されていなければおかしい)。
最後に関してはこじつけに近いが、テレビに出演していてそんな情報が出た事なんて無かった筈だ。記憶だけでは不明瞭なのでそれも先輩に検索してもらったが結果は同じだった。やはりそんな情報は出ていない。
村の最後の生き残りが死刑囚逮捕に貢献なんて如何にも視聴率が取れそうなのに使わない……或いは薬子への配慮かもしれないが、だとしても完璧に情報は規制出来ない。そのくらいはネットに流れていてもおかしくないだろう。
ここまで謎が多いとこの際真偽はどうでもいい。問題は天玖村に関する情報が十年前を最後に一切合切消滅している事と、時系列がおかしくなっているという事だ。もし十年前に雫が十八歳を迎えているなら、今は二十八歳。
いや、一番酷い謎はこれらではない。ここまであからさまな不自然に誰も気づかないという事実だ。
「…………これは、後で調査が必要ですね」
「調査はいいけど、後輩君。貴方、一体何を導きだそうとしてるの?」
警察は真実を暴かなければならない。だが俺は警察ではない。探偵でもない。このあからさまな地雷に首を突っ込む理由が深春先輩には見当たらない。それもその筈、調査するに値する理由なんて俺も知らない。
雫を匿うだけならむしろ何も知らない方がいいのだ。真実を知ればそれだけ迷いが生じてしまうかもしれない。だから彼女は俺に対して隠し事をしているのだろう。
「…………笑わないでくださいよ」
「え、何? そんな面白いの?」
「面白くはないですけど……」
「面白くないなら笑わないわよ、言ってみて?」
相手に信頼を求める人間のスタンスではないと理解しているが、雫を匿っている事は打ち明けられない。きっと深春先輩は俺が利用されていると考えて善意の対立をしてしまうだろう。実際、その線は切れない。調査をしている理由はどちらを信じれば良いか現状のままでは判断しかねるからであり、それを一言で説明するには―――
「好きな人の事を……何もかも知りたいって思うのはいけませんか?」
雫の事を何も知らない。俺はもっと彼女を知りたい。それがきっと、俺に恋人としての実感を持たせてくれる。死ぬのは嫌だが、何もかも明らかになってからは違うかもしれない。殺されても良いかと考えを変えるかもしれない。
何も分からない内から最終的な判断は下したくないのだ。だから俺は調べたい。
先輩は目を丸くして俯く俺の横顔を見つめていた。言葉にすると滅茶苦茶恥ずかしい事を言っているのは間違いない。きっと笑いを堪えているだろうと恐る恐る彼女の表情を窺うと、深春先輩は何故か瞳を潤ませながら見ていた。
「は?」
想定外の反応に呆気に取られていると、先輩は「素敵!」と言って俺の背中に腕を回した。
「笑う訳ないわッ。後輩君に恋人が居るなんて知らなかったけど、恋人想いなのね」
「こ、恋人って言うか…………いや、まあ気になる人っていうか…………」
「んー? ……ああ、そういう事。確かに彼女、後輩君と話してる時だけ雰囲気が柔らかかった様な気がするわ」
「え? 彼女?」
「うんうん、もう何も言わなくていいわ。それ以上言わせるのも野暮だものね」
「え、ちょ、何か勘違いを……」
「大丈夫大丈夫! 分かったわ、もうそれ以上は聞かない。後輩君に協力してあげる」
「え、ああ、はあ……」
抽象的な発言のせいでどうしようもない間違いを犯した気もするが、話はそのまま進んでしまった。ここで話していても埒が明かないので俺達は再び歩き出した。当初の目的を忘れた訳ではないが、流石にもう一度九龍相談事務所に足を運ぶ気にはならない。また刃物を持った男が居たら嫌だし、単純に瑠羽が心配してしまうかもしれない。
また次の機会に、具体的には連休が終わったら行こう。
先輩と別れてから五分。ようやく家の前まで到着すると、見覚えのある不審者が玄関前で誰かと話し込んでいた。
「このままでは貴方は不幸に襲われてしまうでしょう。本当にそれで良いのですか?」
「わ、私は…………」
「何やってんだよお前!」
あのインチキ占い師以外に誰が居るだろう。日を改めてと言ったがまさか俺の居ない間に接触するとは狡い奴だ。二人の間に割って入ると、周囲への迷惑も憚らず大声で叫んだ。
「警察! マジで! 呼ぶぞ!」
問答無用の拒絶に怯んだのか、不審者は軽く会釈をした後、逃げる様に去っていった。瑠羽はきょとんとした表情で俺の背中を眺めている。
「お兄……」
「瑠羽ッ。お前、アイツとどんな話してた?」
「私に悪霊が憑りついてるから、それを払う為にも仮面をって……」
「買ったのか!?」
「買ってないッ」
彼女の手元には何もない。追い詰める様な尋ね方をした俺も悪いが、咄嗟に嘘を吐いたのではと疑ってしまった。いやいや、自然な反応だ。あの不審者を見た瞬間頭が真っ白になって―――つい。
安堵の吐息をついて、俺は妹に頭を下げた。
「すまん。ちょっと感情が昂ってた。何も買ってないならいいんだ」
「お、お兄。あの男の人って……」
「あれはインチキ占い師だよ。未来が視えるとかどうとか言ってるが、そんな特殊能力そうそうこの世にあってたまるか。あったらオカルト扱いされてないんだよ……はあ、良かった」
名前は知らないが、知りたくもない。占い師なんてみんな変に難しい名前つけて賢しらぶってるのだから見分けなんてつく訳が無い。偏見と思われるかもしれないが、偏見を抱かれるくらい悪印象を与える行動を取る方が悪い。
妹の背中を押して中へ入る様に促していると、不意に俺は彼女に伝えなければならない用事を思い出した。夜食の時にでも言うつもりだったが、早く伝えるに越した事はない。
「あ、そうだ瑠羽。実は恋人との予定がキャンセルになったというかまあ…………それで薬子に誘われてさ。だから聞きたかったんだけど、俺も一緒に行っていいか?」
「えッ。お兄が?」
驚くのも無理はない。薬子と二人きりでデート出来るというのが肝要なのに俺が混じるなんてあっちゃならない事だ。いやあ残念。薬子が良くても瑠羽が駄目なら仕方ない。雫との予定が潰れるかと思っていたがこの様子ならまず潰れる事は―――
「…………よ」
「ん?」
「いいよ」
「え」
何故承諾を、と思ったが。俺は兄なので妹の事が手に取るように分かる。きっと薬子に気を遣ったのだ。
「いやいや、だって迷惑だろ! お前は薬子と仲良くなりたかったんじゃないのか? 俺が居ても不純物にしかならないぞ?」
「私は気にしないよ。それに私、お兄とデートするのって久しぶりだし」
「デートって言うな。兄妹ならお出かけにしとけそこは。何か恥ずかしいだろ」
「一応聞くけど、虚言じゃないよね?」
「虚言癖はだからイジメの……! まあ、もういいか。こんな下らないウソつかねえよばーか。お前こそ嘘ついてないよな。いや、嘘ならそれでもいいんだけど」
「本当だよ。お兄だけだったらお父さんとお母さんが不安がるかもしれないけど薬子さんが居るなら安心してくれるもん」
抗いようのない正論。そもそも両親が実の子供ではなく飽くまで他人の薬子を信用しているというのは何とも度し難い問題だが、こればかりは虚言癖とされた時点で覆しようのないものなので仕方ない。雫とのデートが…………
「―――あ、ああ! そうだそうだ! そう言えばお前、恋人の写真撮ってこいって言っただろ? そう、あれだよ。あれで色々喧嘩しちゃってさ、それでデートが無くなったんだ!」
「―――脈絡ないけど、どうしたの?」
「……いや、晩御飯の時とかに聞かれても親に話が行って面倒臭そうだなあって思って。あははははは」
今日はおかしな事がありすぎてすっかり目的を忘れていた。九龍相談事務所に所属する彼女にお礼を言いに行くまでは覚えていたが、それ以前の『写真を撮って恋人という事にする』が全く頭から抜け落ちてしまっていた。脈絡が無いのは思い出した記憶に言い訳をくっつけてそのまま垂れ流したせいだ。
まあ写真をどうこうする必要が生まれなくなったのは不幸中の幸いか。しかし雫とのデートが無くなってしまったのでトータルマイナスだ。今日は厄日だ。慰めてもらおう。




