刃駆られて刑死あり
「後輩君のクラスって、変わった人がたくさんいるのね」
「アイツだけですよ……まあいい奴なのには変わりないと思いますけど」
九龍相談事務所はここから随分遠い場所にあった。住所だけで見つけられるなら俺は役所か何かの人間だろう。ついでに地図も書いてくれた事には感謝しかない。どうしてここに住んでいる癖に土地勘がないのかと言われたらそれは俺の行動力に問題がある。鳳介が居なくなってから俺の行動範囲は殆ど家と学校だけになっており、言い方はおかしいが、俺を『外』に連れ出してくれるのは良くも悪くも鳳介だけだった。
雫とのデートは俺の知ってる範囲を使っただけなので、あんなものを『外』とは呼ばない。
「聞いてる限り、運営してる時は常に赤字なのかしら」
「いや、俺の見立てじゃまだ別の目的があって、そっちの方が黒字なんだと思います」
「目的って?」
「あんな感じなら気軽に教えてくれそうですが、先輩を誘った意味が分からなくなりますから。今度また会ったら聞きますよ」
マリアも言っていたが、『信者の周りの人が一度でも優しい言葉をかけられるなら信者なんて存在しない』らしいので、収益が目的でないのは確かだ。もしそれが目的であるならあまりにもリスクが過ぎる。精神を病んだ人が商売相手なんて、やり方が違法寄りだ。
「私を誘う時に意味なんて考えなくていいわよ。後輩君との仲じゃない」
「いや、まあ……あはははは」
元はと言えば瑠羽が写真を見たいだなんていうのが悪いのだ。家で雫とまったりしているつもりがこんな風に駆り出されて俺は憤っている。しかし全ては雫を助ける為だ。写真を断るなんてどう考えても彼女に事情付きなのが目に見えている。たとえ始まりはこじつけでも事実として俺の恋人は死刑囚なのだから探りを入れられてしまえばその時点で負けだ。
隠匿に罅を入れてはならない。強硬派の薬子が必ずや穴を作るだろう。
「ん、見えてきましたね」
九龍相談事務所。その実態は何て事のない雑居ビルの三階だった。薬子が個別で連絡先を持っているくらいだからてっきり大きな建物を構えているものかと勘違いしていた。意外とこじんまりとしていて、なんというか庶民的だ。そこから二軒先の弁護士事務所の方が比べるべくもなく大きい。
「あれが相談事務所なの? ていうか相談事務所って何? 何を相談すれば良いの?」
「まあ薬子が頼るって事なんて基本的には霊能関係……ああ、霊能って確か違法なんでしたっけ。だから誤魔化してるのかな…………でもま、基本的には探偵事務所みたいなもんじゃないですかね」
相談事務所を名乗るくらいだからそれこそ身近な相談でもいいのかもしれない。節約術とかおすすめのデートスポットとか、バレないカンニングの方法とか。
……この一例は探偵をまず頼らないだろうという前提で組まれている。決して俺が聞きたい訳じゃない。
階段を使って三階へ。一階も二階も夜のお店らしいので興味はない。あっても入れない。看板に偽りはなく、三階の入り口にはやはり相談事務所の名前が掲げられていた。ここにあの少女が居るイメージが全く湧いてこないが、まあ何でもいい。俺は飽くまでお礼を言いたいだけだ。深春先輩に至っては直前で意識を喪っているから恩人の顔くらい見た居だろうし。
いざドアノブに手を掛けようとすると、言い知れぬ不安が俺の神経という神経をマヒさせた。理由は分からない。ただ、そういう気がしているだけ。薬子や雫ではないが、確実な死の匂いがこの中から……気のせいだ。開けよう。
「失礼しまーす…………」
男が、立っていた。
室内に並べられた幾つもの机には只の一人も居ない。代わりに立っているのは男一人。それも中央で、ナイフを持って。
「…………あ」
第三者なら直ぐに逃げろと俺に命令したいだろう。俺だってそうしたいが、まず脳の理解が追いつかない事には行動に移れない。誰かを殺している真っ最中と言う訳でもなく、ただ立っていたのだ。迂闊に声を出した俺の存在に気付き、男の視線がゆっくりとこちらへ向いた。
「……お前、ここの事務所の人間か」
「ち、ちが……違います! あ、お邪魔でしたね! じゃあ俺は失礼しま―――」
「七凪雫の関係者だな」
―――ッ!
問答無用と言わんばかりに全速力で男が駆け出してきた。
「う゛わ゛ああああああああぁあッ!」
本能で死を感じた俺は即座に転進。廊下へ出ると、正に中へ入らんとしていた先輩の手を引っ張って急ぎ足で階段を下りようとした。
「ちょっと、何―――きゃッ!」
三段飛ばし四段飛ばしと言わず階段全てを飛び越えようと無理をしたのが悪かった。先輩を道連れに俺達は揃って二階の踊り場まで落下。激痛で身動きが取れない。
「先輩! 通報! 逃げて通報!」
「なになになに!? え、何なのッ!」
「いいから早く! 早くいかないとアイツが―――」
遅い。遅すぎる。男は階段の上から俺達を見下ろしていた。見間違える筈も無く、手にはやはりナイフが握られている。先輩はまるで状況を呑みこめていなかったが、思案の末に出した決断はなんと、俺の前に出て庇う事だった。
「警察を呼びますよ!」
「ちょっと先輩! 逃げてって言ってるのに!」
「後輩見捨てて逃げる先輩が何処に居るのッ! 仲間でしょッ?」
彼女の声に反応したのは俺―――ではなく、見知らぬ男だった。
「仲間…………仲間、か。お前も七凪雫の居場所を知っているのか? ならば答えろ。アイツの居場所は何処だ」
会話を続ける事で時間を稼ぐなんてなまっちょろい手段は通用しない。何故ならその男はこちらに問いを投げつつ襲い掛かってくるのだから。先輩も俺が咄嗟に足首を掴んで転ばせなければ刺されていただろう。代わりにまた落下してしまったが。
深春先輩の盾を失った事で体勢を立て直しかけていた俺は再びつっ転ばされ、喉元にナイフを突きつけられてしまった。
「答えろ。答えなければ殺す。居場所だ。居場所を言えばいい」
「ぐ………カハ…………ッエ゛……ゴォ…………」
この男、尋問する気が無い。最初から殺す気だ。首が苦しい、次の瞬間にはへし折られそうな、そうでなくても窒息する確信があった。この状態では助けも呼べない処か、雫を売る事だって出来ない。散々質問しておいてその暇を与えないなんてどういう理屈なのだ。
目が飛び出してしまいそうな息苦しさに伴い、俺の意識も遠のいてきた。元々抵抗などしてないようなものだったが、指先が麻痺していくにつれ抵抗が弱くなっていく。このままでは縊られてしまう。脱出方法を考える暇はない。思いついた瞬間に死んでいる自信がある。
「や、辞めなさいよ!」
彼岸に手が届く寸前、死者の手を振り払ったのは深春先輩だった。階段を上ってきた彼女は男の足を己の身体もろとも引っ張り、階段の下へ落ちて行った。
「げ、げぇ‥‥‥で、でえ、ご、せんぱ゛いっ!」
「逃げて!」
逃げてと言われても男は下にいる。上に上がるしかないので、俺は全力で階段を駆け上がり、一気に屋上まで上り詰めた。
しかし直前まで喉を絞められていたせいで呼吸が合わない。想像以上の体力を消費してしまったものの、何とかして屋上まで辿り着く。
そして悪手だったことに気が付いた。これなら行き止まりを覚悟でも事務所に逃げた方が良かった。あそこは三階だが、それでも窓から飛び降りる賭けには出られた。屋上はダメだ。死ぬ。
端まで寄ってみたが、生存出来る自信がない。戻ろうと振り返った所で俺の足は止められた。いつのまにか追いついていた男にナイフを向けられたのだ。
「‥‥‥何なんだよ!」
「七凪雫の居場所を教えろ」
「教えれば見逃してくれるのか!」
「貴様に興味はない。教えろ」
俺は恩人にお礼を言いに来ただけなのに何故こんな事に。もう沢山だ。
「教える事は何もねえ! 地獄に落ちろ!」
言葉が言い終わるよりも早く男のナイフが俺の喉元へ突き立てられ―――
「本人が来れば、問題無いんだろう?」
カラスの鳴き声を伴い聞こえる刑死者の声。
七凪雫が、屋上の縁に立っていた。




