虚言からの脱却
「行ってきます」
朝食をぼんやりと済ませ、俺は学校へ出発した。自分の部屋を見るとカーテンの下から伸びた手が俺を送り出している。案の定、眠ってしまったせいで意識が覚醒しきっていない。それか、あの悪夢のせいだろうか。
雫と出会ってから変な事ばかり起きている。身に覚えのある幻覚から全く知らない幻覚まで。気にしないのが最良なので今も全力で無視している。
『今年こそ完成する時だ……』
『あの子達はどうする?』
『今、引き取り先を―――』
道の真ん中で聞こえる密談。人が隠れる場所もなければ風鈴なんて何処にもない。それでも確かに聞こえる。しわがれた老人の声と、溌剌とした青年の声。周囲を見渡してもそんな人間はいない……処か今は気配がない。
『おーリュウ! お前にしては朝が早いなッ。一緒に行こーぜ!』
…………。
『また面白いの見つけて来たからよ、綾子も呼んで遊ぼうぜ! 大丈夫だって、今度は危険な事なんてなんもねえよ』
あり得ない存在を気にしても仕方がない。これはあれだ。幻肢痛ならぬ幻視痛だ。気にするな。気にするだけ痛む。只でさえ犯罪者になってしまったというのに、これ以上の面倒事は処理出来ない。そもそもこんな幻なんかよりも気にしなければいけない事はたくさんあるのだ。
直近として相倉美鶴の件。
死体が残っていないので事件というよりも単に行方不明者として処理されるだろうと雫は言っていたが、彼女がそもそも殺されてしまったのは薬子に目を付けられたからである。事件として成立しないからといって薬子が追及してこないとは考えられず、学校に来た瞬間問い詰められる可能性は大いにある。
或いはもう、警察が裏で俺に対する令状を作っているのでは…………
「あいたッ!」
ぼーっとしていたら目の前で誰かが転んだ。五感を惑わしていた幻覚から暫し解放され、俺は現実を直視する。転んだのは十歳にも満たない少女。体重の関係で傷は浅いだろうが、怪我は怪我だ。俺は急いで助け起こすと、鞄の中から救急箱を取り出し慣れた手つきで応急手当を始めた。
何故こんなにも用意が良いのかは言うまでもない。俺は雫に出会う直前まで虐められていたのだ。家族も信じてくれないそんな状況で俺の怪我を治す奴は俺しか居ないだろう。
瀕死の重傷という程ではないので、病院を頼るのは馬鹿らしかった。
「大丈夫か?」
「…………ありがと」
顔を上げた少女は年不相応にスッと立ち上がると、転んだ時に外れた仮面を俺に手渡してきた。
「これ、あげる!」
「え? でも顔に……」
サイズは合っていた。
少女の嬉しそうな笑顔を見たら受け取らない訳にもいかず、恐る恐る仮面を手に取り、その趣味の悪さに暫く呆けてしまった。仮面全体に皴らしき凹凸が書き込まれていて、目は狐の様につり上がっている。口は存在しない。
女の子の被る面にしてはチョイスが渋いというか……貫禄がありすぎる。
「お兄ちゃん! もし何かとっても辛い事があったらそれを被ってね! 私との約束だよ!」
「え、ちょ―――」
「ばいばーい!」
肩を横切った瞬間、少女は消えてしまった。あれが幻ではないという証明は救急箱が証明してくれている。
「……何だったんだ?」
ふと少女の顔を思い返した時、俺はとんでもない事に気が付いてしまった。
顔が思い出せない。
美人でも不細工でもない。特徴があるようでなく、何処にでも居て何処にもいない顔。そんな人間は存在しないと言われたらそれまでだが、それくらい思い出せないのだ。本人も居なくなってしまったしこんな仮面は捨ててしまっても罰は当たらないかもしれないが、罰を当てるか否かはお天道様が決める事だ。捨てられない。
奇妙な仮面を鞄にしまい、俺は再び歩き出す。とても辛い事があったらと言われたが、そんな瞬間は二度と来ないで欲しいと願う。
学校に来るのが怖くなったのは虐めを受けていた時以来だ。それも結局通っていたので、記録更新である。
主に薬子から何を言われるか分からなくて、何をされるか分からなくて怖い。道中すれ違った者達は何も言って来なかったが、クラスメイトは分からない。教室の扉を引く手が震えるなんて何らかの禁断症状が出たとしか思われないだろう。
―――まさかクスリで検挙!?
丹田に力を込めて震えを抑える。今度は動悸が激しくなってきた。雫の感触を思い出してこれも堪える。何をやってるんだ俺は。
「―――」
挨拶で薬子の追及は誤魔化せない。教室の扉を開けてから、俺は全ての思考を放棄して足を踏み入れた。
その刹那―――否が応でも正気を取り戻してしまった。
クラスメイト全員が土下座していたのだ。
「向坂君、おはようございます」
あまりにも異質な状況に飛び出した平凡な挨拶。かえって場違いな声をあげたのは凛原薬子。デートの件など何一つ知らないかのように、彼女はクラスメイトとして俺に話しかけてきた。
「お、おはよう……これは、何だ?」
「これは随分前から分かっていたのですが……情報公開の許可が下りたので皆さんに共有しました」
「いや、何を?」
「貴方が虐められていたという事実を」
…………俺はいじめられっ子だった。しかし立ち回りが下手なあまり、誰もその真実を支持してくれなくなった。雫以外は、誰も。
その雫を匿った事で名実ともに犯罪者になった俺が、今更クラスメイトに対して償いを求めるなんて間違っている。そう思っていたから俺は何も言わなかったのに。
「……貴方をイジメていた三人の衣服から血痕、皮膚片等が検出されました。また、彼等の自宅にあったクラスの集合写真では貴方にだけ集中的に悪戯が為されており、総合的に見て貴方は虐められていた、との結論が下せました」
「土下座は……?」
「いじめは犯罪です。実行犯でないとはいえ見て見ぬ振り、或は信じようとしなかった彼等にも非はあります。だから土下座させました。許すか許さないかは貴方が決めてください」
「い、いやいや。許す許さないっていうか…………その、あ、許す許す! 許すんでその……土下座は辞めてくれ」
「許してくれるのか!」
「ほ、本当に?」
「…………アイツ等は死んだんだし。もう蒸し返すなよ。俺達同級生なんだしさ、楽しく行こうぜ」
名前も覚えていないクラスメイト達が次々に顔を上げていく。謝って許される事ではないと知りつつも、やはり許されると嬉しいのだろうか。まさか死刑囚を匿った罪との帳消しで許しているなんて思ってもないだろうから、彼等には俺が聖人に見えているだろう。
「ああ許す。ただまあ、強いて言うなら接し方を変えないでくれ。いつもの感じ、な? この話、もう蒸し返すなよ。今度はそれで怒るからな」
許されたと分かるやクラスメイト達は一斉に土下座をやめて、また元の行動に戻っていった。さっきの土下座など無かったかの如く。
「向坂君は優しいのですね」
「いや、優しいとかって問題じゃないんだけど……ああ。それと薬子」
「はい?」
「有難な」
やり方はどうあれ、クラスメイト達から謝罪が貰えた。それだけでも心の錆は一気に取れた。辛い処か、今は気分が軽い。
それもこれも、捜査情報を打ち明けてくれた薬子のお蔭である。




