真に心を崩したは
「敢えて尋ねましょう、向坂君。何故ここに?」
「雫を救いに来た!」
「でしょうね。よく分かっています。貴方の事は、とても」
そうは言うが、雫の姿が何処にもない。広場には彼女の足元を覆う血液と陣しかない。如何にも儀式と言わんばかりの道具もなければわざと掴ませた偽物の仮面もない。
―――何でだ?
「お前こそ、何をするんだ。こんな何もない場所で」
「勿論、新世界構想の成就です。私の名前を知っているならとっくに知っているでしょう。響から『知識』を取り上げます。そうして私の新世界構想はようやく完成する。出来れば邪魔をしないでと言いたい所ですが、ここに辿り着いた事を認めて、少しお話ししましょうか」
霖子は俺を舐め腐っている。当たり前だ。実力行使では勝負にならない。護堂さんを同伴させていれば話は違ったが、彼を同伴させると警戒させてしまう可能性があった。
舐め腐っているとは実に言い方が悪いか、霖子は俺に心を開いている。実力行使では歯が立たない以上、そのままでは俺に彼女を止める術はない。それ故に、つい話し過ぎてしまう事だってあるだろう。どうせ俺には何も出来ないから。
「雫は何処だ?」
「教えると思いますか? しかし、貴方も懲りませんね。せっかく目の前で首を落としたのに尚も追ってくるなんて。そんなに雫が大切ですか?」
「当たり前だろ! お前こそ、何でそこまでして新世界構想を成就させたいんだ? 母親に会う為とか何とか言ってたのは覚えてるよ。そんな事って言うつもりもない。でも規模が違い過ぎだ。母親に会いたくて何人殺した。俺のクラスメイトは全滅だ、人生サンプルの為に死体が欲しかったのかもしれないが、それにしたって……限度があるッ」
そう、彼女は様々な視点を欲していた。地下室にあった死体だけが全てではないだろう。でなければ俺の周りで怪異を改造して人を殺す意味は無い。暗行路紅魔の件だってそうだ。直接仮面を手渡された人間は全員行方不明になる……あれは複雑な話でも何でもない。単に連れてきて殺しただけの話だ。
サンプルが欲しかったという理由だけで、彼女の行動は殆ど全て説明がつく。現実を上塗りするのだから、サンプルは多い方がいいに決まっている。でなければ現実の上位互換など作り出せる筈もない。
「俺だって親友を失った。でもその親友に会う為に百人殺せって言われたら出来ない。他にも理由があるんじゃないのか?」
霖子は大きくため息を吐くと、特殊な陣に自らの血液を足しながら切り出した。
「―――この村はとっくの昔に終わっていたのですよ。向坂君はこの村の民話をご存知ですか?」
「白蛇が身を呈して食糧になった話と、神の使いの奴だよな?」
「よくご存じで。それらは同じ出来事から派生した過去の正当化です。こんな忌々しいクソッタレの村が今まで存続していた事自体、私には信じられません」
その独白はいつにも増してリアルで、直接見聞きした筈ではないのだろうが、霖子の言葉には心からの怨嗟と憎悪が込められていた。誰かの為に怒るにしては、あまりにやりすぎなくらい。
「昔々の話です。この村に一人の少女が迷い込みました。それはそれは美しい少女の来訪に、当時の村長は心を奪われ、暫しの滞在を歓迎しました。当時は食料不足に悩まされていた村は少女の来訪と同時に土は豊かに川の魚は大漁に。村は忽ち豊かになり、少女は神の使いと呼ばれるようになりました」
今の所、殆ど民話通りだ。唾棄すべきと判断されるような要素は何処にも感じられない。
「しかし、その力は永遠ではなかった。飢饉は遅かれ早かれ直面する問題でした。貧乏の前では信仰は力を無くします、神よ使いよと崇め奉っていた住人も例外ではない。次第に極限状態へ追いやられました。村長は迫害を受ける彼女を何とか穏便に村から追い出そうとしましたが、ある村人が言ったんです。『そいつが来て一時期豊作になったなら、この飢饉を引き起こしたのも彼女ではないか』と。ええ、根拠なんてものはありません。でも、皆ピリピリしていました。怒りの矛先を明確な誰かに向けたかった。村人達は……どうしたと思いますか?」
「……殺した」
「そうですね。少女を襲って、食べました。人間一人を食糧にした所で飢饉が収まるのか? 収まってしまったんですよ、これが。如何に村長と言えども多数の圧力には敵わなかった。狂気に手綱を握られた理性の下差し出された少女の脳みそを―――村長は食べた。神の脳みそ、アカシックレコードの始まりです。当時は『赤裸斃』と呼ばれていました。これは後に脳みそを降ろす呪文へと姿を変えました。赤裸斃 廻廻 民浸かり 天玖の村へおいでなさい。聞いた事はないでしょうね」
―――成程。
いや、それ以上説明されなくても俺には分かる。鳳介との冒険は俺に有用な知識をくれた。こういう状況で瞬く間に答えを導き出す瞬間思考力だの事だ。
「極限状態から解放された住民は罪のない少女を食べた事に罪悪感を抱き始めた。だから自己犠牲精神お有難い民話が始まったと」
「そうでなければ村は持たなかった。当時の村長は自殺したそうです。形見の腕輪を付けながら。それがより一層村に罪悪感を募らせました。外様の少女だけならばいざしらず、村長までもが居なくなる状況に。かつての判断を、ようやくおかしいと感じ始めたのです。だから皆は目を背ける為にこの民話を作り出した。随分前の話です。私とて記録上知っただけの話。この村には地下室がありました。当時の村長が真実と少女への愛の言葉を書き記した秘密の書庫が。もう、埋めてしまったので貴方がそれを見る日はありませんが」
「……ちょっと待て。村がクソなのは分かったが、それが動機なのか?」
「理由の一つです。この村が外部の人間に優しいのは古くから連綿と受け継がれてゆく罪の清算に近い。最早誰もその罪を認識してはいないでしょうね。そして辛うじて残っていた善性すらもあの厳山神ノ介に消された。私は、大人になるずっと前からこれを知っていて、この村を滅茶苦茶にしてやりたかった。口先が回るだけのジジイを信じて盲目的に生活する奴等が嫌いで仕方なかった。過去の罪をなかったことにしてのうのうと独裁者を気取るあの馬鹿が許せなかった。始まりもクソ、転換期もクソ、今もクソ! お母さんさえ納得してくれれば、私は直ぐにでも手筈を整えて家を出た!」
……口調が変わったな。
出来るだけ丁寧に接する事に努めていた彼女が見る影もないくらい言葉を荒げてまくし立てている。或はこちらが本当の意味で七凪霖子なのか。
「リン……」
「……神の脳みそを継ぐ者は過去の所有者の記憶をもまとめて引き継ぐ。ええ、感覚も全て。だから私はこの村が憎い。憎くて憎くてたまらない。この村を完膚なきまでに否定する為にも私の新世界は完成しなきゃいけない! 誰も不幸にならず、誰もが平和に暮らせる世界を作って、この村のやり方は最初から全て間違っていたって証明するしかない! 向坂柳馬。答えなさい。貴方はそれでも、私を止めますか?」
「止める」
数舜の遅れもなくそう答える。
「雫は、何もしてない」
確かな覚悟と背徳の意思が添えられた発言を、霖子は鼻で笑ってみせた。
「何もしてない? 死刑囚ですよ、響は」
「レコードの歪みだ。修正出来ない場所と出来る場所が生まれて齟齬が生じた。それくらい分かってるよ」
「そういう事じゃない。どちらにしてもあの子は死ぬべきなの。私が新世界を作ってあげないと、響は生きられない」
「それは傲慢ってものだぞリン。雫は俺と一緒にいる間、誰も殺そうとしてなかった。何が死刑囚だ馬鹿らしい。俺は彼女が死刑に値する極悪犯かどうかずっと疑って、あり得ないって思ってた! 天玖村だって、お前が皆殺しにしたのを押し付けただけだ!」
今度は溜息を吐かれた。何だか次第に心を開かれているというより単純に馬鹿にされている気がしてきた。いや、そうではないか。霖子は憐憫を滲ませながら俺を見ていた。何処までも何も知らない無垢な子供を見るように。自分の考えたいままに辻褄を合わせる我儘を咎めるように。
「…………成程。響は何も言わなかった、と」
「は?」
「彼女には、自我というものがありません」
一呼吸置いてから、霖子は話を続けた。
「私と彼女がアカシックレコードを授かった時の話は聞きましたか?」
「いいや」
「では説明しましょう。この前夜、天玖村では祭りが行われていました。村長が神の脳みそを継ぐ為に生きたまま私達の母親を食べようとしたからです。どうしてもお母さんを盗られたくなかった私達は、二人で継承の儀式を失敗させた。そして―――二人でお母さんを食べたの」
「……!?」
母親を、食べた?
それは人道とか、道徳とか、倫理とか。そういう価値観を引き出すよりも先に、あり得てはならない事だ。子供が親を食うなど、断じてあってはならない。それは単なるカニバリズムよりも性質が悪い。人肉を出されていただきますと直ぐに食べられる人間は稀だ。極限状態ならばまだしも、生きたまま食べようとするなんて最早食事とは呼べない。
踊り食いという食事スタイルがあるのは知っているが、人でそれを行おうとすればどうなるかは想像に難くないだろう。
「髪の毛一本たりとも渡したくなくて全部食べた! 怒り狂った村人達に私達は殺されそうになって―――その時だったの。響が暴走したのは」
暴走。
無理もない。
俺だって妹の全身を食べたら発狂する自信がある。
「村の人間を爆破して殺したッ。だからあの子は死刑囚なの。神の脳みそが理由もなく人を死刑囚にあてがう訳ないでしょ。死刑囚にあてがわれたならそれなりの理由がある。辻褄が合わなくなるから!」
「…………その話は、知らなかったな。でも俺はやっぱり雫を取り戻そうと思ってるよ。だって俺は、その雫を知らないんだ。少なくとも出会ってから彼女は一度も―――」
一度も。
二度も?
三度も!
「―――誰も殺してない。それに出会った時には自我だってあった。お前が語ってる状況とは前提条件が違う」
「いいえ、いいえ。それは自我とは呼びませんよ向坂君。貴方が良く知る響はこちらに逃げて君と出会うその日までに見かけた人間のエミュレートをしているだけです。自我がない故に七凪響は鏡そのもの。人の性格に影響を受け変質する。誰も殺してないなんて寝言は寝て言ってください。『殺人中毒』の響が誰も殺さない訳ないでしょう!」
「殺人中毒?」
「貴方は一度廃人になったそうですが、真に心を砕かれたのは彼女です。限りなく希薄になった自我を維持する為にも、彼女は殺人をするしかない。私と一緒に村の住人を全滅させている時、彼女だけは笑っていましたよ。殺人は時にあらゆる快楽を凌駕する麻薬となる。自我を失った響にその刺激はあまりに都合が良かった。彼女は命を奪う感覚に病みつきになっていました」
―――また、知らない。
殺人中毒なんで一言も聞いていなかった。しかしそれは裏切りと呼ぶには程遠い。出会った当初にそれを言われていたら、多分俺は本当に裏切っていたから。
「…………何があったんですか? 何がそこまで、雫を」
「何があった? 笑わせないで下さい、私達は母親を食って、村中の人間を殺したんです。私はともかく響はお母さんを守りたいだけだった。頭がおかしくなるに決まっているでしょう。あの子はこの世界で生きるにはおかしくなりすぎた。整理してあげましょう。私が新世界を作る理由は、この村の否定と響の為、そして私の大好きなお母さんにもう一度会いたいから!」
霖子は、泣いていた。
一筋の涙を無言で流し、或は気付かぬままに滴らせ、真っ直ぐに俺を見つめている。同情心に訴えられるとは思ってもみなかった。彼女がそんな真似をするなんて。
ああ、駄目だこりゃ。
雫は無実だから解放しろなんて言えなくなってしまった。俺は今の今まで目を瞑ってきた。
阿藤秀冶、花ケ崎圭介、新田瑞希、岬川夕音、相倉美鶴。
少なくとも雫は五人を殺して、俺はそれを忘れてきた。だって殺してくれなかったら俺は……助からなかった。
『私の名前は七凪雫。解放してくれてどうも有難う。怖いなら逃げてもいいよ。君だけは殺さないであげるから、さ』
あれは本心からの言葉だったのだろうか。一目惚れとは何だったのだろうか。
雫は本当に、俺の事が好きだったのか?
誰かのエミュレートについても、心当たりがある。最初に会った時と親交を深めた後で、若干彼女の喋り方が違うのだ。さして気にも留めていなかったが、そういう事なら筋は通る。誰の真似かは知らない。
「……正直に言います。私は貴方の事が好きです。向坂君。やり直せるなら貴方とは違う形で出会いたかった」
「それは、どっちの感情ですか」
「さあ、どっちなのでしょう。しかし、貴方が好きなのは事実です。もしも響と一緒に居たいなら、新世界には貴方も作り出しましょう。ではもう一度尋ねます。それでも貴方は、私を止めますか?」
俺は完全に、沈黙してしまった。
誰も教えてくれなかった情報が、反論を封殺していた。彼女の話した過去がデタラメであるという線は遠目にこちらを観察する所長によって潰されている。いや、何処に居るかは分からないが、これだけ時間が経っているなら『百目の相』を使って様子見に徹しているだろう。もし嘘なら乗り込んでくる筈だ。
「…………いや、それでも俺は、止めます」
「何の為に? 響は貴方の為に殺されることを選んだのですよ」
…………何だって?




