頼まれたんだ、親友に
九死に一生を得ていては心臓が持たない人生を送って来たと思う。細い希望だけに賭け続けた、常に代金は一定な分の悪い賭け。得る物は親友のネタ、失われる物は日常と命。そんな歪な日々を送ってきた。当然、発狂しても仕方ない目に遭う事もある。
果たしてその経験を以てしても、この不快感は別格だった。
「…………!」
誰が想像出来るだろう。腐った子宮と羊水に囲まれるなんて。袋越しなのがせめてもの救い? だからと言って生ごみに頬ずりする人間はいないだろう。そうでもしないと死ぬからこうしている訳だが、この状況の継続もまた死に繋がりかねない。誇張なしにストレスだ。一秒でも早くこの息苦しく不愉快な空間から飛び出して新鮮でなくてもいいから取り敢えず空気を吸いたい。出来ればシャワーも浴びたい。
あうう、ぐふ、えふぅ。
綾子が放心しているのは不幸中の幸いだ。恐らくは音を追って怪物が同じ部屋に入ってきた。だがそこにあるのは集積所にたまったゴミ山だけ。俺達はその中に埋もれているので虱潰しに中を漁られない限りバレる事はない。体臭もここまで腐敗臭に囲まれていたら嗅ぎ分けるのは不可能だろう。
何も一から袋を漁って潜り込んだ訳ではない。この女性は思ったよりも足が速いから、そんな暇は与えられなかった。仮に潜り込めたとしてもそこだけ不自然に凹んでいては気付かれる恐れがあった。そんな時の為に、俺と綾子は事前に極端な山を作っておいたのだ。
そうすれば中に入って棒倒しよろしく土台の袋を引っこ抜くだけで勝手に塞がってくれる。一回こっきりの隠れ方だが、不愉快な点を除けば完璧だ。
うへへ。あうやぁ? ひい。
足音と泣き声が遠ざかっていく。音は徐々に消えていかず、一定距離離れた瞬間忽然と消えてしまった。念の為にもう十秒待って、それからようやくゴミの山から己の身体を引っ張り出す。
「―――おえええええええ!」
「きゃあああああ!」
流石に限界だった。胃液しか出ないがそれでも全てを吐き出そう。初めて死体を見た時も同じ状態に陥ったがやはり嘔吐は慣れない。何度かせき込んで、喉のやけつくような痒さを我慢してようやく収まった。
「だ、大丈夫?」
「…………改めて聞かせてください。深春せん―――いや」
「お前、誰だよ」
深春? は驚いた様に身体を震わせると、シラを切ろうとするどころか、満面の笑みで返してみせた。
「いつから気付いてたの?」
「ほぼ最初から。好きな食べ物を聞いた時だ。俺と先輩の付き合いは長いようで浅い。俺は好きな食べ物なんて知らないし、それは先輩も分かってる筈だ」
「でも、ケーキは本当だよ?」
「そんなのはどうでもいい。浅いとは言ったけど、あの人とは暗行路紅魔を一緒に調査した仲だ。俺が好きなものを知ってるって時点で本物なら疑う筈。でもお前は鍬に対する恐怖で偽物と疑った。一応言っておくと推理でも何でもない。俺は先輩を信用してる。だからお前が偽物と分かってからは泳がせてた」
「何の為に?」
「なりすましをする理由は当然不和と恐怖を煽る為だ。正体がバレる時が最高潮か、そこまでが狙いで、裏を返せば正体を隠している状態が続く限り本物を装う為にお前が付いてくると思った。怪異だって理由もなく無尽蔵に湧いてくる訳じゃない。俺の隣で留めておけば他の人に被害が及ばなくなるだろ」
と思っていたのだが。
ご存知の通り、俺を助けてくれたのはこの偽物だ。何故雪奈さんのコートを持っているかはさておき、来てくれなければどうなっていたかは想像に難くない。だから俺も泳がせるのをやめて真正面から尋ねようと思った。単純に、こんな好意的な偽物には会った事がない。
「……聞いた通りの人ね。時々鋭くて、知り合いには呆れるくらいお人好し」
「あ?」
「確かに、私は貴方の先輩じゃないわ。でも安心してほしいの。私は全面的に味方だから」
「根拠が欲しいな。助けてくれたのは嬉しいが、それだけじゃ弱い」
「貴方の親友に託されたの」
「綾子に?」
「天埼鳳介に」
その名前は、俺達にとって魔法の言葉。彼の名前が出たその瞬間から、無条件でその人を信じられるくらいには有効だ。まして生存していると判明した今では、彼からの伝言を預かる協力者とさえ思える。
「会ったのか、アイツにッ!」
「大分前の話だよ。もしここに貴方達が来るようだったら手助けしてほしいって。本当はもっとずっと後で助ける予定だったんだけど……」
俺は泳がしているつもりだったが、実の所本人にはその気がなかったとは。ものの見事にすれ違っていたというか、不干渉が互いにとって都合が良すぎた。面と向かって話さない限り誰であっても気付けまい。
「本物の先輩は無事なのか?」
「無事だけど、大人しくしてないなら話は別。心配なら直ぐに出た方がいいわよ。案内するから」
「あの怪物は何なんだ?」
「さあ? 私は怪異じゃないから。これ以上の質問は禁止。もう時間がない。早くしないと陣痛が始まるから」
―――陣痛?
彼女も綾子も妊娠している訳ではない。となるとその現象のいきつく所はただ一つだ。異貌の女性が赤ん坊の泣き声しか出さない理由である。
またも利害が一致した。探索は中止だ。一刻も早く脱出しなければいけないがその前に、綾子の意識を回復させる。
「綾子、おい、綾子。起きろ、おい、おい、おい、起きろ! 馬鹿この!」
軽く叩いても効果が無かったので申し訳なく思いつつも力いっぱい頬をビンタしてやった。どんな事があっても綾子に手は出さない主義だが命が懸かっている時は別だ。もしもこれで目覚めなかったら二発目、三発目と続いて罪悪感とのチキンレースが始まっていたが、幸いにも明後日の方向に飛んでいた意識が戻り、十分ぶりに綾子が瞬きをした。
「……リューマ?」
「お、目覚めたか。すまんビンタした。痛いか?」
「……ちょっと胸貸して」
言われるがままに抱きつかせると、綾子が打たれた方の頬を密着させてそのまま五秒。何事もなかった様に離れた。
「おっけー。状況は?」
「探索中止。ここから逃げるぞ」
「そう。当てはあるの?」
視線を偽物に流すと、綾子は露骨に疑わしい表情で彼女を睨んでいた。一連の流れを理解していないので仕方がない反応だ。説明する時間は多分ない。代わりに綾子は俺の手を握って、離れまいと身体をくっつけた。
「意思疎通は終わったのね。じゃあ行きましょう」
「一応聞くが出口は何処に?」
「二階」
行きも帰りも二階へ続く階段などなかった。外面から見れば二階どころか三階までありそうな建物だったが、どれだけ大きかろうとも階段やエレベーターといった昇降出来る物がなければ上がりようがない。
だが、上がれないという訳ではなさそうだ。ここの時空はねじ曲がっている。綾子はどうしてあそこに居た? 彼女は梯子を下りた筈だ。俺は梯子はおろかスロープさえも使っていない。常識的に考えれば縦軸が絶対に合わないのだ。なので問題は、何処が二階に繋がっているかである。
「扉を全部開けてついてきて!」
逃走が始まった。
正体を隠す必要がなくなった偽物の足は速く、綾子と手を繋いでいるとはいえ俺が全く追いつけない程だ。鍬はとっくに捨ててしまった。もし真正面からあの女性が現れたら雪奈さんのコートを手に巻いて殴るしかない。その前に殺されそうだが。先程のゴミ処理場へ続く階段まで接近すると、一足早く降りた偽物から警告がかかった。
「絶対に階段踏まないで下りて!」
成程、そこが入り口だったか。こんな境目気付く筈もない。何故なら階段を下りないと地下室には絶対に辿り着けないからだ…………
「いや無理だろ!」
さっき歩いたから分かっている。ここは十段二十段で済む階段ではない。段飛ばしに降りるならまだしもまるごと飛ばす程の跳躍力はない。考えてみたが、ここを通り抜けられそうな名案は思い浮かばなかった。
その時だ、綾子がちょんちょんと指で手首を叩いたのは。
「何だ?」
「階段を使わないで下に行けそうな方法、あるじゃない」
「は? ……………ああー」
「不衛生とか言ってる場合じゃないんじゃない?」
何やら得意げな顔でそう語ってくれたが、結果論だ。使う事になるとは思いたくなかった。これは映画やゲームではない。不測の事態は命に関わる。前から何かが来る、後ろから何か追ってくる、急に壁が狭まってくる……どれをとってもハイリスクだ。しかし今は躊躇していられない。
「……使うしかないのか」
「私に感謝は?」
「後でな」




