それが愛の始まり
「何でこんな事も出来ないんだあああああああ!」
天井に吊るされているのは一人の少女。年は随分幼く見えるが見覚えのある姿だ。忘れる筈もない、雫である。この頃の名前は響だったか。両腕を縛られた状態でサンドバッグよろしく吊るされており、全身から血が滴っている。幼いとは言いつつも小さくなってしまった俺からすれば十分巨大な方だ。見ているだけでも痛々しい傷を負って尚、彼女は泣きながら何度も何度も「痛い」と繰り返していた。
「……大丈夫か―――」
「私は恥ずかしいよ響! 周りの皆に出来て何故お前に出来ないんだ!」
「…………貴方が」
「口答えするなあああああああ! 母親に向かってその態度は何だッ! お前など産まなければ良かった! 私の評判があああ…………」
俺の声は届いていないらしい。そうと分かれば傍観に徹する他ないが、雫の最初の母親はヒステリックを通り越してとっくに狂っていた。、無抵抗を強いられた雫に暴力を繰り返す。好きな人が嬲られる光景は見ていて率直に不愉快だ。
ああ。どうせ傍観者ならいっそ言ってやろうか。ぶっ殺したくなる。壁に蹴っ飛ばして何度も何度も扉に打ち付けて硝子窓をぶち破りながら外へ放り出したい。何をしたかは分からないが、年端も行かぬ少女にこんな真似をする奴は人間ではない。この村は腐っている。
「…………そこで反省してなさい。これ以上長からの評価が下がったら―――分かってるな」
存在しない俺を無視して女性が去る。間もなくその身体は戻ってきたが、身を翻したというより何かに突き飛ばされて戻ってきた。
「てめえさあ、また響イジメてんのいい加減にしろよなあ!?」
痛快と呼ぶには度が過ぎた、しかし言いたい事を全て言ってくれた少女は薬子だ。以前の名前は霖子か。昔の彼女は表情豊かだったと聞いた覚えがあるが、まさか初めて見る感情が怒髪天を衝いている時だとは思わなかった。大の大人を平然と殴り倒す少女からは今にも通ずる攻撃性を感じる。背中の打ち所がまずかったのか、響の母親は痛みに喘ぐばかりで立ち上がれていなかった。
「―――ッッッ。何すんだこのクソガキ!」
「アンタみたいなクソ親にクソガキなんて言われる筋合いはない。あたしの親友に手出すなよ、殺すぞ」
「殺す……? や、やってみなよ! アンタもアイツも追放だ! 長に見放されて無事で居られると……お…………」
霖子が部屋の片隅に突っ込まれていた斧を手に取る。『殺す』という言葉が脅迫でもなければ『勢い』でもなく、『警告』だと悟った響の母親が掌を返したように謝りだした。
「ご、ごめんって! ね、ねえマジでやる気? ちょ、何だよ、教育だってこれは! 子供をどう育てるかは自由だって村長も言ってたでしょ!?」
「だ ま れ。これが教育? 手縛って吊ってボコボコにするのは一体何の教育だあ? あたしはやるよ。大体てめえの評価はもうとっくに地の底手前だ。死んだってあのジジイは悲しまねえよ。良かったな、いっそあたしが地獄の底まで叩き落としてやるよ。這い上がろうなんて金輪際考えられない様に」
「さ、殺人は犯罪―――!」
一切の躊躇なく女性の脳天に斧が振り下ろされる。かち割られた頭蓋から脳漿が溢れ出し、返り血に混じって少女に飛散する。ただの人間が生きている道理はない。霖子は振り返りざまに響の手を縛る縄を切ると、ようやく凶器を放り出して響を抱き上げた。
「大丈夫……ってんな訳ないか。おーい…………意識ある? ない? どっちでもいいけど、あたしはもう我慢できなかった。恨むなら勝手に恨んで。今から病院に行って治してもらうけど、村長の側近から聞き取りされたらこう言うの。『神様の脳みそを個人的に独占しようとした』って。曖昧な感じで。それ言えば警察の方は村長が勝手に何とかするでしょ。いい? あたしを信じて。大丈夫、もう辛い目には遭わないから―――」
臙脂色の景色から追い出される。扉の先は使われた気配のない子供部屋だった。
―――今のは?
今の映像が過去の物だとは分かるが、同じ部屋だとは思えない。埃を被ったボールに首筋から綿の漏れたぬいぐるみ。ここが天玖村と仮定するなら昔誰かが使っていた部屋で話は終わりなのだが、この村は閉鎖的と言えども全く外との関わりがない訳ではない。以前、俺は雫に聞いた筈だ。『外から来た人間にはどう対応するか』と。
重要なのはその答えではなく、状況。人口は人が左から右に行くだけで増やせるが住居はそうもいかない。変容した村を都市計画が破綻していると貶した覚えがあるが、現実はそうそう破綻するものではない。
「……あった」
小人になっていなければ本棚の隙間を抜けて裏側へ行く発想は生まれなかっただろう。灰色の装丁で統一された本が壁になって気付けなかったが、過去に霖子が使用していた斧が裏側の罅に放り込まれていた。柄だけがこちらに突っ張っている。
やはりそうか。
確かにここは誰かが使っていた部屋だが、同時に映像通りの部屋でもあったのだ。居抜きよろしく同じ家を改装して使わせたのだろう。となるとやはりここは天玖村なのか…………なんでこんなことに。
本棚の裏側から戻ると、カーペットが少し膨らんでいる事に気が付いた。捲りあげてみると金属製の単純な鍵が転がっていた。俺達からすれば決して小さくはない。身体全体で抱え込めばどうにか持ち運べる程度だ。
身長的な意味でこの鍵を使えるタイミングは来なさそうだが念の為に廊下には出しておく。その後はめぼしい物も見つからず、もう一つの部屋にお邪魔する。
「お邪魔しまー……す」
廊下から差す光が繋がったのは僅かに開いた窓。窓からも光は差している筈だが霧の関係で光が分散して全く明かりと呼べる明度を感じない。探索不可能だ。
ここを探すよりは一階の綾子に成果を聞く方が先だろうと廊下に戻ると、下の階から金属音の混じるけたたましい雪崩が聞こえてきた。
「綾子! 大丈夫か!?」
「大丈夫ッ。台所の上の棚開けたら色々落ちてきちゃった!」
声音で判断するのはいただけないが、怪我がないなら何よりだ。小さくなってしまった影響だろうか、いつも以上に音を敏感に感じる。
ドンッ!
間もなく扉を叩くというよりは殴りつける音が響いた。考えるまでもなく綾子の立てた音を聞きつけたのだろう。敵かどうかを考える余地はない。綾子は既に隠れたと思うので、後はこちらで気を引ければ何とかなりそうだ。コップ並の小さな体で気を引ける程の大きな音を出せるか。
いや、音と限定する必要はない。極論俺が姿を見せればそれで気は惹けるだろう。問題は体格差がありすぎて確実に捕まる事。何やら鍵を弄る音が聞こえるので普通に鍵を開けるつもりか。反対側―――玄関の方から入れば回り道だけで済むが余程物音の正体を確認したいと思える。俺は先程の子供部屋に戻ると、埃を被ったボールに手をかけて力いっぱい押した。円形の物体ならば押して動かす事が出来る。大玉転がしと同じ要領だ。扉の隙間から外へ押し込み、扉が乱暴に開いた所で階段目掛けて転がす。対する俺はもう一つの暗室へ全力疾走。
ボールが段差を突いて転がっていく。
最新の物音とその軌跡を目撃した何かが凄まじい勢いで階段を上ってくる。激しい激突音は半開きの扉を蹴りで開けたと思われる。
―――まずいな。
懐中電灯が無いので探索不可能。取り敢えず壁に沿って隠れたが何処に隠れたのかさっぱり分からない。
次の音は身長的に開けられない場所だろう。そこに俺はいないので一安心。むしろ探索場所を増やしてくれて有難い。最後に来たのはやはりここで、暗室ならば大丈夫かと思えば手の届かない場所に点灯スイッチがあった。
俺は扉の裏で書類の裏に隠れているようだ。明るくなって初めて把握したが今更隠れ場所は変えられない。小さいと言ってもコップくらいの大きさはあるのだ。そんなものが動いて気付かない奴はよっぽど目が悪いか鈍感か。
「*:{‘ゼ**}{」
訳の分からない奇声を発して念入りに部屋を探している様子が耳で分かる。まるで俺がここに居るのを分かっているみたいではないか。俺の隠れ場所は書類の束をどかされたらそれだけで露わになる最悪の隠れ場所。手を抜いて捜索してくれないとどうしようもない。
「…………」
息を潜めて数分。窓が開きっぱなしになっていた事が功を奏したのか、正体不明の巨人は窓を閉めて出て行ってしまった。嬉しい誤算は二度とないか。二階に用があったのか、子供部屋かもう一つの部屋のどちらかに入って沈黙。俺はようやく周りに憚る事なく呼吸を許された。
「―――はあー! はあ…………あっぶね」
開けっ放しであちらこちらへ移動するのは家主の悪い癖だ。再び廊下へ出ると入れなかった部屋の扉が閉まっている。ここに閉じこもったらしい。静かに階段を下りて親友の名前を呼びながら歩いていると、隣にあったやかんがカタカタと動き出した。
「……綾子?」
蓋は落とした拍子に取れたのだろう。入り口の手前まで顔を近づけると、やけに顔色の悪い様子の綾子が頼りない足取りで出てきた。
「ど、どうした?」
「アイツ、二階に向かう時に蹴っ飛ばしてったのよ。あー気分悪。そっちは大丈夫だったみたいね」
「顔見たのか?」
「直ぐに隠れたから見てないけど、最悪な事実が一つ」
俺の身体を椅子代わりに、綾子は部屋全体をぐるりと指さして言った。
「ご丁寧にも全部鍵を閉めてくれたからこの家から脱出する手間が生まれたわ。一緒に来た人を心配してる場合じゃないわよ、私達」




