この感情を、教えて
二日目は入りからして先輩と寝落ち通話で朝を迎えるという幸せなものだった。が、前日のデートの疲れまでもが完治するなどと都合の良い話は無い。もしそれがあり得たら恐らく雫が手助けしている。彼女は出来るだけ俺と一緒に居たいと考える様な女性であったので手助けという可能性も実はない。でなければわざわざ俺をご主人様などと呼ぶ遊びを思いつく筈がない。
―――今思えば、あれは信頼してたんだろうな。本当に。
或いは守られているという自覚を持つ為か。何でもいい。俺が守ってあげたかった。法律が彼女を許さなくても、世界が彼女を認めなくても、俺だけは居場所で在りたかった。俺と雫が別離を果たしたあの時、何があったのだろう。
デートの疲れもあり、今日は一日家でゴロゴロと怠惰に過ごすつもりだ。家族が帰って来ない件は気にしていない。不仲はいつもの事だし、大方俺が家に居なくて泣いてる瑠羽を慰めるべく食べ歩きでもしているのではないだろうか。
妹に関しては心が痛むものの、彼等は俺がどんな騒動に巻き込まれているかを全く知らないし、知られても困る。鳳介の時みたいに危ない場所に行って大冒険で片付く規模でないのは自分でもわかっている。これは今後の世界の行く末を決める騒動。
誰も知らない、知る事の出来ない世界の歪み。
理不尽に応える義務はないが、俺は雫の恋人だ。彼女を助ける為ならどうしても首を突っ込まなければならない。もう逃げたくない。今度は助けたいのだ。
―――腹減った。
気だるげに一階まで下りて冷蔵庫を漁る。外食予定だったとはいえ、何の買いだめもないのはちょっとおかしい。流石に食材はあるのだが、料理するのはお億劫だし、かと言って食材を丸かじりする程追い詰められてもいない。とても難儀な状態だ。こんな無駄な時間を費やす前にさっさとコンビニに行けという話だが―――それは、自室に戻ってから改めて考えよう。
再び部屋に戻ると、見覚えのない少女がベッドに座り込んでいた。
「…………え?」
窓が開いているので窓から入ったのだろう。それは分かるが、普通に不法侵入なのはどうにかならないものだろうか。
「サキサカ、おはよう」
「あ、おはよ、あ…………雪奈!?」
そう言えばとかつての記憶を引っ張り出す。オフショルダーのブラウスを見た時点で気付くべきだった。これは俺と緋花さんが結託して無理やり買わせた服ではないか。そう、確かあれは妹に雫の存在を勘付かれそうになってそれをごまかすべく―――写真を撮ったら着替えると言っていたし、実際着替えた。まさかもう一度着てくれるとは思ってもみなかったので、脳の認識機能が狂ったのだろう。
違うのはあの時のスカートよりももう少しだけ丈が短いミニスカートで、片目を隠していた前髪をヘアピンで留めている事か。向きの関係で認識出来なかっただけで、鏡面の眼を見れば流石に思い当たった。間が悪すぎる。
「な、なにゆえその格好をしていらっしゃる?」
「一応変装、のつもり。『あの子』は説得したから、今日だけは大丈夫」
あの子とは勿論『ナナイロ少女』の事だ。雪奈さんの行動原理はその『ナナイロ少女』を殺した犯人を見つけたいからで、どうも犯人が近いと雨が降るらしいから俺の近くに居る。本人曰く男が犯人らしいが、今回の騒動に男が絡んでいた事なんて暗行路紅魔くらいしか無い筈だ。当人が死んで怪異に改造されてしまった事実を知って、流石にその仮説は立てられない。
「ご飯まだでしょ。一緒に食べよう」
「あ、もしかして手料理とかしてくれる感じか? でも肝心の食材がある事はあるんだけどカスタマイズ性がないというか……」
赤色の四角い箱を差し出されて、再び思考が停止する。寝ぼけている訳ではない。それが何かは理解しているつもりだ。何でここにあるのかが分からないだけで。
「……お弁当、作ってあるから。食べないと元気でない」
「え、手作り?」
「緋花に手伝ってもらった。栄養は考えてある」
伝聞調が無かったのでメニュー自体は彼女が考えたのか。ついつい癖で裏を勘繰ってしまうが、今は純粋な気持ちのままで応えるべきだろう。すっごく嬉しい。弁当箱を受け取って重さを感じる。なかなかボリュームがありそうだ。俺はベッド下に置いてあった簡易テーブルを引っ張り出すと、懐かしさを覚えながらいそいそと組み立てた。
「本当はのんびりする予定だったけど、予定変更。お家デートって事で一つ、どうだ?」
「デート……」
「何だよ忘れたのか? 一回恋人になってくれただろ。あれの続きだよ」
「―――まだ続いてたんだ。もう偽装する必要とかないのに」
「俺は一言も終わらせるなんて言ってないからな。これからも蒸し返すし蒸し返さないかもしれない。ノッてくれよ、その方が健康に良いだろ」
雫みたいな悪ふざけをしてみる。確かにこれは病みつきになる面白さだ。相手はとっくに終わったものだと思っているから、絶対に不意を突ける。出来れば雪奈さんが恥ずかしがる姿も見ておきたかったが、流石に高望みか。
「「ごちそうさまでした」」
とても美味しかった。グルメリポーターではないので凝った表現は出来ないが多くを語る必要はないだろう。例えば拳で語り合うという言葉がある様に、料理については味が雄弁に語ってくれる。素人が不慣れな語彙を駆使するよりもずっとハッキリ伝えてくれる。
「美味しかったよ」
だから伝える言葉はそれだけでいい。照れ隠しからか雪奈さんはフードを深く被―――ろうにも、そのコートを置いて来たので途端にあわあわと狼狽し始めた。食事中の会話では終始無愛想だった彼女が、不自然なくらい顔を背けて何処を見ればいいのかと悩んでいる。可愛い。
このまま眺めているのもそれはそれで構わないが、流石にかわいそうなので助け舟を出しておく。
「しかしよく俺が腹減ってるなんてわかったな。偶然か?」
「……偶然じゃない。所長に『彼みたいなタイプは物臭だから弁当でも作ってあげないと決行日に餓死しちゃうかもね』って脅されて」
「あの人は俺を何だと思ってるんだろう……」
決行日まであと八日。それまで何も食べないのは物臭というより何らかの理由で明らかに断食をしているだろう。もしくは突発性拒食症にでも罹患したか。そんな病名は存在しないし、多大なストレスに晒されてもいないのに拒食や過食に陥る道理はない。
「サキサカ、これからの事だけど」
「え? まさかのここで作戦会議? 流石にそれは少し早計じゃないか?」
「そうじゃなくて、全部終わった後。気が早いのは認める」
どう転がるかも分からないのに何もかも円満に終わった後とは随分先の話だ。何もかもケリがついた時の状態がどうなっているのか、それすらも想像がつかない。それもこれもアカシックレコードのせいだ。元はと言えばこいつのせいで話が複雑化している。
「これからって言っても、今回で犯人見つからなかったら結局探すんだろ」
「犯人はもう絞り込めてる」
「……本当か!?」
まさか彼女からそんな発言を聞けるとは意外だった。俺も可能な限り手伝った記憶はあるが、手掛かりのての字もあったかどうか。突然犯人が見つかるなんていっそ都合が良すぎる。まるで突然逃げる事を諦めた雫みたいに、何か裏がありそうだ。
「それ、今すぐ追おうぜ。そしたらなんか、色々楽になるかもしれない」
何が何処に繋がっているかは判然としない。解ける謎は早いうちに解いておかないと確実に後で足を引っ張ってくる。
「確証は無いからダメ。でも薬子を追えば、自ずと分かると思う。私がしたいのはその先の話。覚えてると思うけど、私達はサキサカの依頼を受けた形で繋がってる。全部終われば、それで関係は終わり」
「まあ、そうだな。ビジネスライクと呼ぶには深すぎる気もするけど―――ん?」
雪奈さんが四つん這いになって接近してきた。机を超えて一歩一歩確実に。鏡面が迫ってくる未知の恐怖に思わず後ずさり、また接近され、後ずさり。壁が背中を抑えた時、遂に目と鼻の先で雪奈さんの顔が止まった。
……
「……凄く、不思議な気持ち。センパイは尊敬してる、護堂は頼りにしてる、緋花は美人。サキサカはよく分からない。分かるのは、もっと知りたいって事」
「…………えっと、友達になりたいって事か?」
「それも分からない。ただ、もっと見ていたい。………………だから」
「―――だから?」
「これからはプライベートでも、会いに行くから。良かったら一緒に…………」
先の言葉を待つ。この近距離で触れ合ったのは雫だけで、それも感覚的には久しいものだ。雪奈さんは気付かなかったが内心ドキドキしていたというか、何をされても無抵抗で降参していた。男の性と安く片付けるつもりはない。雪奈さんだからこうなってしまった。
男女の完全な友情は成立しないかもしれないが、不完全なら根拠を出す必要もない。綾子も含めて、俺は女友達全員を少なからず異性として認識している。雫への対応で分かる通り押しには相当弱いので、こういう事をされると否が応でもその認識は強くなる。
とはいえ雫に関してはそのグラマラスな体型も原因の一つだ。あんな煽情的な身体と言動で迫られたら普通の男は陥落する。そんなものを日頃から受けているお蔭で、俺はまだまだ正気だ。
「…………ギブアップ」
「へ?」
「これ以上は頭がおかしくなる。またいつか。でも―――」
代わりと言わんばかりに雪奈さんはゆっくりと俺に抱え込まれた。
「…………少し、こうしてたい」
彼女の抱く感情がどのようなものか、正直俺には見当がつかない。綾子は俺に恋愛感情など無かっただろうが、それでもこれくらいのスキンシップは普通に行っていた。だから俺には、彼女の感情を断定する事は出来ない。怪異と共生してきた影響でその辺りが欠落しているのかもしれない。
何にせよ、ゆっくり気付いていけばいい。俺は彼女に助けられた。この程度の事で恩返しができるなら安いものだ。
「……せっかく遊びに来てくれたんだし、ゲームでもするか?」
「―――やった事ないけど」
「誰もプロになれとは言ってない。ルールが分からないなら勝手にゲームが説明するし、コントローラーが分からないなら教えるよ。暇つぶしっちゃあれだけど、とことん付き合ってくれよ」
―――いいよ。
久遠雪奈の精一杯の足りない笑顔は、無愛想などとは呼べない程に満ち満ちていた。




