俺の繋いだ糸
仮面が床に落ちる。木と木のぶつかる音で、俺は目を覚ました。眠っていた訳ではない。今までは仮面をつけていただけ。体験した痛みも、辛い過去も、全ては遠い記憶の中。とうの昔に通り過ぎた記憶を体験していた……だけ?
未来に戻るのは本意だったが、こうも唐突だと流石に少し時間が要る。理屈について明らかにする必要はない。こんなオーパーツ染みた物体の挙動など考えるだけ無意味だ。だがその……あんなリアルな体験が嘘だったとも言えそうで。なんというかこの仮面にはそれくらいリアリティがない。
―――やけに家が静かだな。
カレンダーを見ても日付が良く分からない。スマホを見ると八月三十一日。夏休み最後の日だが、最早俺に普通は訪れない。夏休みが始まろうが終わろうが学校は始まらない。暫く休みだ。そんな俺を差し置いて家族は旅行にでも行ったのだろうか。今更気にする性質でもないがそれなら何処かに書置きでも置いてくれると助かるのだが。
部屋を出て階段を下りる。リビングには誰も居ないが、代わりに家族全員分の携帯が置かれていた。何故か充電器に繋がれたまま開きっぱなしになっていたので悪気も無く除くと、
『柳馬、今日は家族全員で食事をしようと思っている。お前も一緒だ。だから予定は立てないでおいてくれ」
『柳馬。貴方は私達にとって大切な息子よ。だからね、良い子だから今日は家に居てくれる?』
『兄、外出不可。妹願大事』
気味が悪い。
家族に対してそんな言い草はと思うだろうが、思ってしまった感情は仕方ない。瑠羽はまだしも両親まで一体どういう風の吹き回しなのか。まだしもと当然の様に妹は除外したが、今回はちゃんと覚えている。再びの廃人となった俺はただそれだけで妹を泣かせてしまった。過去に飛んでいる間進んだ時間も考慮すれば、俺は二十日間誰とも何も話さなかったし気にも留めなかった事になる。それで仲が修復出来るものか。
薬子の仕業という可能性は否定出来なかったが、雫を手に入れたのに今更固執する理由はないだろう。怪しすぎるという一点のみで、家族の願いに応えるつもりはない。マリアを助けないと。
ピンポーン。
「ん?」
時刻は十二時を回る。玄関は不用心にも施錠がないので家族だったら問答無用で入ってくるだろう。となると…………それ以外。念の為に包丁を背中に隠して(さっきの今で正体不明に対する警戒心が強くなっている)出迎えると、意外な人物が立っていた。
「やっほー。後輩君、元気?」
「……深春先輩?」
土季深春。ひょんな事から『限』に掛かり、救助を条件に仲間となってくれた……先輩。あまり彼女とは過ごせなかったが、暗行路紅魔を退けるには彼女と生徒会長の力が無ければ不可能だった。そういう意味では恩人でもある。
「えっと。何か用ですか?」
「んー。取り敢えず家に上げてくれませんか? 詳しい話はそこからという事で」
「はあ」
心配して様子を見に来たのだろうか。何かやましいモノがある訳でもない、それはとっくに失ってしまった。無言で身体を傾けて部屋に招き入れると、先輩は初々しく頭を提げながら 玄関を通過した。
「―――あ、すみません。今お茶淹れますね」
「ああいいのいいの! 気にしないでッ! 今日は後輩君に大切な話というか、確認したい事があって」
「確認したい事ですか?」
話が見えない。二十日間も部屋に籠っていたからだろうか。周囲の近況も含めて今の内に聞いておくべきか。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とも言うし。椅子を引いて先輩を座らせ、その対面に座る。無音だと俺が勝手に気まずいので、環境音としてテレビをつけた。
『十年前に逮捕された死刑囚、七凪雫の死刑が本日執行されました。七凪雫は当時住んでいた村の住人を皆殺しにしており―――』
「……え!?」
ニュースの内容は信じられるものではなかった。彼女が死んだのは認めるが、十年前に逮捕? あれだけ世間が騒いでいたにも拘らずニュースはそれっきり御終い。他の局でも報道するにはしていたが、特集を組まれてたっぷりと時間を掛けられる様な、所謂ホットな情報とは言い難い。この様子では数多あるニュースの一つに過ぎないと言った所か。
正直、ニュースはあると思っていた。薬子がドヤ顔で逮捕しただの何だのと偽りだらけの理由を並べて―――警察を差し置いて頼りにされていたのだから、それくらいはするだろうと考えていた。
現実は着目していなければ流してしまいそうなニュースの一つ。十年前に逮捕された奴の死刑が執行された。それだけ。事後報告。
「……深春先輩、一つお聞きしても宜しいですか?」
「……七凪雫の事でしょ? 死刑囚で、最悪の殺人鬼で―――君の大好きな人」
テレビの情報と異なる認識に、俺は双方を交互に見て、眼を白黒させていた。
「……知ってるんですか!? じゅ、十年前に逮捕された―――」
「二十日程前に殺されたんでしょ。薬子さんに」
「…………ええ?」
こう言っては何だが、先輩は常識人だ。暗行路紅魔の一件以降交流が少なかったのは成り行き上だったが運命論的な事情もあるのかもしれない。普通の人は早々怪異に襲われたり最先端技術で攻撃される事はないのである。
だから、首を傾げてしまった。実は先輩が死刑囚マニアだったくらいのビックリドッキリの事実でもない限りこの状況は説明出来そうにない。遥かに俺の理解を超えている。
「今日はその事で話があるの。テレビ消しちゃうね」
思考に揺さぶりをかけた雑音が止まる。俺は机の上で手を組んで、改めて話を聞く姿勢を整えた。
「七凪雫はまだ生きてる」
「……ッ。何を根拠に?」
「私が『覚えてるから』っていうのは理由にならない? 護堂さんって人から話は聞いたわ。君は廃人になってしまったって。だから毎日お見舞いには来てたんだけど、君から反応があったのは今日が初めて。二週間前なんて突き飛ばされちゃったしね。あはは」
「突き飛ば―――! 誰です? 父ですか母ですか? すみませんホント。後で俺がボコボコにしておきます」
「そこまではしなくていいわよ! 私も強引に声を掛けたのが悪かったから。それでね、その。単刀直入に聞くんだけど―――」
先輩の温かい両掌が、組んだ拳を上から包み込んだ。
「私、後輩君の力になりたいの。君が私を助けたなら、今度は私の番。七凪雫を助ける為に、一緒に戦いましょう?」




