恐怖に鮮血の花束を
まほがお風呂から上がり次第外に出る予定だ。時刻は二十時三十分。遅すぎるのでこちらから探しに行こうと思う。護堂さんが荒事専門と言っても相手はバケモノ。死ぬ時はあっさり死ぬのが人間だ。絶対に無いというのは流石に過大評価が過ぎる。それが絶望に繋がる事だってあるというのに。
「覗かないでよー」
「誰が覗くか!」
仮に何も起こらず、和やかなムードが続いていたとしても良く知りもしないクラスメイトの裸など誰が覗くか。あちらも本気で俺を変態だとは思っていないだろうがハッキリさせておきたい。俺はまほを異性として見ていない。それどころか友人とさえ見ていないと。
何も下心をムキになって否定しなくても、と他人は思うだろう。そうではない。大体俺は下心がそれなりに透けている方だ。だから雫に揶揄われるし、そこを薬子に突かれたりもする。男として情けない限りだ。女性に免疫がないばかりにリードしてやれないとは。
「……でも長風呂だけはするなよー」
「何でー?」
「リンの世話を頼めないからだー」
いつまでも泥酔されて正直困っている。いっそ後で謝罪するのを覚悟でビンタする事も考えたが、こんな素直で色気があって声に何処かあどけなさの残る薬子を見られるのは今だけだ。それを思うとビンタなんてとてもとても―――は嘘だ。何度か本当にビンタしようとしたが、その度に初動を潰されて何も出来ていない。半分諦めているというのが本音。
「さきぃ、さか~? しゅ……………きぃ?」
「何言ってんのか分かんねえ。早く起きろ。最先端酔い覚ましで目覚めろ」
「さぁぁいせん?」
「賽銭じゃない。最先端」
「…………?」
ここまで酒に弱い人間は見た事がない。身近で飲酒する人間と言えば両親だが、弱いのを自覚する母親でさえこうはならない。というか弱い人間は少し飲むだけでもダメなので絶対的に泥酔が長引く事がない。では薬子が酒に強いかと言われるとまた違う話だ。ろれつが回らないとかそういう次元ではない、まんま幼児退行を疑わなければならない程言葉が拙く、意思は薄弱。手を握っただけでキャッキャとはしゃぐ様に俺もアルコールをあてられたかもしれない。顔が熱くなって、思考も心なしか鈍くなった気がする。気分酔いだとしたら成人しても酒は飲まない方が良いだろう。吐きそうだ。
―――薬子もついでにお風呂入れてもらえば良かったな。
本人が無意味に開けたパーカーの前を閉める。競泳水着を見られないのは非常に残念だが状況が状況なので欲情している場合ではない。酔っぱらいの相手をするのは真帆も疲れるだろうから寝かしつけた方が良さそうだ。
ベッドの中に入ってポンポンと隣を叩く。薬子は面白いくらい素直に中へ滑り込んできて、勝手に胸の中で縮こまった。俺が覆い隠す事になるとは新鮮だ。いつもは雫の胸の中で眠っているだけに力加減が分からない。可能な限り優しく抱きしめているつもりだが、今の薬子にとっては強すぎるくらいかもしれない。
「ん…………んゥッ。ぁ……んん―――!」
もぞもぞと胸の中で動く薬子は、どうしてこう一々エロ……紛らわしいのか。布団で身体が隠れている事も相まって風呂上りのまほが見たら誤解しそうな光景が生まれている。
「…………ゆら…………殺し……めぃ………………れ」
「あ?」
文字通りの酔夢を見ているのだろうか。物騒なワードを聞き逃さなかったが、小声部分は殆ど絡まって良く聞こえなかった。タイミング悪くまほが浴室から出て来ない事にかけて優しく後頭部を撫でてみる。
「…………すぅ」
耳元で寝息が聞こえたのをきっかけに身体を離すと、薬子は完全に眠ってしまった。寝顔を全く見せない代わりにその他一切が無防備な雫と、表情を滅多に崩さない代わりに就寝時に無防備な薬子。対比の様になっているのは気のせいだろうか。
音を立てずにベッドから出るのは至難の業だったが、何とか脱出には成功した。呑気な真似をするには周囲の状況が危険すぎるものの、ここはまだ一応安全地帯だ。血が漏れ出てきたが別に誰も怪我していない。
「ふう、いいお湯だったー」
まほが出てきた。『水着』なので使い方は間違っていないのだがビキニの女子が浴室から出てくる光景は違和感しかない。胸を見られていると思い込んだ彼女が両腕を交差して控えめな谷間を隠した。
「じゃ、後は頼んだ」
「え? 柳馬も風呂入んの?」
「違うわ。さっき言っただろ。リンの世話を頼みたいんだよ。俺は外へ行くが、どうせお前は来ないだろ。だったら安全地帯でアイツの世話をしててくれ」
「ホントに行っちゃうの?」
「行く。進むも地獄進まぬも地獄なら進むしかない。多分だけど絶対部屋には帰って来ないからお前は何が来ても開けるなよ」
「もし帰ってきたら?」
「絶対に帰らない。帰ってきた場合は開けるな。どんなもっともらしい事言ってても違うからな」
扉に耳を当てて壁越しに聴覚を機能させる。足音は聞こえない。ノブに手をかけてからも決して気を緩めず耳に全神経を集中させる―――何も来ない。
「じゃあな。生きてたらまた会おう」
「…………そんな悲しい事言わないで。絶対死なないでよ?」
どうだろう。
アザリアデバラはまだしも少女岬は初見だ。攻略法も知らないし対策もない。今から探す。探している内に死ぬかもしれない。胸中に浮き出た無数の不安を全て呑み込んで、俺は廊下へと足を踏み出した。背後でオートロックの掛かる音がした。
「……」
エレベーターは一階に下りていて、使える物は階段だけ。だがエントランスは危険で、恐怖症に罹患せずとも恐怖症に脳をやられた人間に囲まれたら物理的に殺される。どうしたものかと立ち尽くしていると、非常階段の扉が半開きな事に気が付いた。それを見てようやくまほが安全にここまで避難出来た理由を知った。
確かに非常階段なら平時は人が集まらない。恐怖症に感染した人間はアレへの恐怖でまともな思考を維持出来ないので元々近くに居ないなら寄り付く事もない。ただし鬼はまた別の話なので博打ではある。少女岬の検証、綾子の駄々を封殺してでも取り組んでおくべきだっただろうか。
足早に近づいて壁越しに耳を澄ませる。遥か下の階から足音が聞こえてきた。
カツン。カツン。
護堂さん……の可能性は否めない。
突破口を決めかねていたら非常階段を発見したという流れに違和感はない。どうせ恐怖症は映らないし、一人ぼっちの狂人なら逃げればいい。隙間から何とか身体を滑り込ませると、踊り場から踊り場までの段差を跳びながら素早く降りていく。足音がだんだん近づいてきた。
次の踊り場に着地した時、下の階から上ってきていた清掃員と目が合った。モップを持っている。
「…………あ」
「ん?」
刹那の時間、停止する。体は逃げる準備をしていたが、一向に襲う気配を見せないので動くべきか迷う。
「君、駄目だよ~用もないのに非常階段を使っちゃ」
「…………」
普通に話しかけてくる。もしかしてこの男性も影響を受けていない…………? そんな穴だらけな事って考えられるのだろうか。
「す、済みません。どうしても下に用があって」
取り敢えず頭を下げておく。ここがまともな状況なら確かに非常階段は使うべきではない。
「だったらエレベーターを使えばいいでしょう?」
「エレベーター……壊れてるみたいなんですよね」
「ええええ! 弱ったなあ。エレベーターが無いと屋上に行けないよ……取り敢えず下に降りよっか。君も来る?」
「…………はい」
この異常事態に非常階段は使うべきではない。状況にそぐわないから。その論理はこの状況にも当てはめる事が出来るのではないだろうか。
「君、名前は? ていうか本当に宿泊客?」
理性もある。
会話も出来る。
恐怖症に感染していないのは火を見るより明らか。なのに本能が危険を告げている。この男性と一緒に行動を共にすべきではないと暴れている。襲って来ない怪異は非常に少ない。少女岬もアザリアデバラもそのような優しい怪異ではないだから違うのに第六感がどうしても冷や汗を止めない早く離れろ離れろ離れろ離れろ離れろ離れろ―――
「…………俺の名前は、アレです」
「アレ?」
おじさんの足が止まった。
振り返ったその目は血走っていた。
「アレか!」




