私の名前は罪を知るもの
「走ってばっかじゃねえか!」
それもマラソンの様にペースがあるものではない。尋常ではない体力を消耗する全力疾走。土地勘がどうとか近道がどうとか小賢しい事は考えられなかった。とにかく蛇行して明らかに立ち入り禁止な場所も通って信号無視までして。唾が乾き喉が呼吸で擦り切れ始めた頃、体感として久しぶりに振り返ると、子連れの女性はいなかった。
「…………はあ、はあ」
夕音に追われて、薬子の気配が染みついたストーカーに追いかけられて、深春先輩の為に奔走して、頭のおかしい男に殺されかけて、行方不明の雫を探して、瑠羽を助ける為に家へ戻って。文句の一つや二つくらい空に言っても罰は当たらない。本当に走ってばかりでいい加減体力がついてきた。
―――飲み物買っときゃ良かったな。
自販機が近くにない。最悪だ。幸い付近の道に記憶はあるのでそれを頼りに動けば直ぐに見つかるだろう。心拍も落ち着いた所で携帯を覗くと、百件以上の不在着信が掛かってきていた。全部妹だ。掛け過ぎだとも思ったが何処の兄貴がストーカー被害に悩まされるというのだろう。思い返せば二度目だが、家族に伝えたのはこれが初めてだ。心配されても無理からぬ話。
折り返しの電話を掛けると、ワンコールも終わらないうちに繋がった。
「もしもし」
『お兄!? ストーカーって何!?』
「……俺も分からん」
原因が自覚出来ているならとっくに直している。雫関連は薬子が直接出向くので考えられないとして、その他は部活にも入ってない逆恨みされる覚えも……深春先輩を好きな人に恨まれている可能性は否めないが、本人が尾行してこい。
『大丈夫なのッ?』
「…………疲れた。親は心配してるか?」
『心配っていうか……お父さんは帰ってきてないよ。お母さんは嘘だと思ってる』
「…………そうか」
普通の発言も信じてくれないのだ。緊急事態に信じてくれるとは考えられない。親の癖にと恨みたい気持ちも否めないが、息子の俺が信用してないのを肌で感じ取ったのかもしれない。魚心あれば水心。嫌われていると分かった相手に優しくする物好きは少ない。
『お兄……私、居なくなった方がいいのかなあ』
「ん? え? 急にどうした」
瑠羽の声がくぐもった。今にも泣きそうで、口を開けば嗚咽が漏れそうな辛さがひしひしと伝わってくる。これ以上聞きたくない。心臓が紐で括られているみたいで不愉快だ。
『…………暗行路紅魔は本物なの。私が、私があの人の言う事に従わなかったから……!』
「ちょっと待て。お前、あの糞野郎とまだ関わってるのか? この間の件で分かっただろう、アイツはインチキだよ。ツボを売りつけないだけで悪徳業者に変わりはないんだ」
『それは違うよお兄。あの人は本物。間違いなく。だってお兄も恩恵を受けてるし』
恩恵?
俺がいつ恩恵を受けた。雪奈と仲良くなれたという意味なら恩恵だが、薬子と雫について調べるなら遅かれ早かれ親睦は深まった。あれを恩恵とは言わない。この世界全ての運命をあんな男が握っているならいっそ滅んでしまえ。
「瑠羽。お前家か?」
『うん』
「今から帰る。直接話そう」
待てど暮らせどストーカーは来ない。確実に撒いた。恐れるものはない。電話を切ってポケットに入れると、また走り出した。やはり走ってばかりだ。どうして走らなければいけないだろう。何故走るのだろう。
何で俺は、生き急いでいるのだろう。
念には念を入れて帰宅するまでに酷い遠回りをした。家を中心として逆時計回りに接近したのだ。徒労に終わったかはさておき終ぞストーカーは姿を見せなくなった。確実に撒いたと言いつつ不安だったが、玄関の前でようやく本当の意味で安心する。
「ただいま」
両親は何も言わない。何事もなく帰って来たので『やっぱり嘘だった』とでも思っているのだろう。俺には何も分からないし分かりたくもない。気になるのは瑠羽だ。息を整えようともせず駆け込み気味に妹の部屋へ。彼女はベッドの上で蹲っていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ…………恩恵って、何の話だよ」
「―――携帯」
「は?」
「私の携帯。暗証番号は一三七九二五八〇」
覗け、という事だろうか。番号は一聞にして長ったらしいが、甲の字のパッドの四隅を押して中心を縦に押すだけなので聞き返す程の複雑さはない。ロックが解除されて最初に飛び込んできたのはコミュニケーションツールの個人チャット画面。相手の名前は『六薙罪人』。何処かで聞いた名前だが一先ず履歴を遡っていく。
「知り合ったのはつい最近か?」
「……ずっと前。お兄が壊れた後くらい」
俺が壊れていた時期は鳳介が居なくなって綾子に絶交されてからなので中学二年生の頃か。理由は分からないが随分前から目を付けられていたとみていいだろう。
「最初はメールに来てね。迷惑メールかなとも思ったんだけど……知ってる人かなって。私の事、『アオイ』って呼んでたから」
「は? アオイ?」
「私がゲームで使う名前」
「何のモジりにもなってないぞ。誰だよアオイって」
「モジりにしなきゃいけない規約とかないし」
それはそうなのだが。
「だから、何かのゲームで知り合った人なのかなって思ったの。でも流れでメールアドレスを教える筈ないし、怖いから最初は無視しようかなって考えてたんだけど……怪しいサイトに誘導してくる事もないし、詐欺まがいの事もしてこないし。ただ、毎日話しかけてくるだけで―――」
「また別の意味で迷惑メールだな。でも毎日一通だけなら言う程でもないか。で、それがどう暗行路紅魔の力が本物だとか俺が恩恵を受けてるとかふざけた話に繋がってくるんだよ」
「お兄は結論急ぎすぎ。……あの時さ、私はどうにかしてお兄を助けたかったの。その為なら何だってしたかった。メールの方を見てくれたら分かると思うけど、悪霊に取りつかれてるから何とかかんとかって書いてあるじゃん」
あやふやな瑠羽の発言を頼りにメールボックスを遡っていくと確かに六薙罪人とのやり取りが続いていた。一番後ろから適当に拾い読みすると、
『アオイ様。貴方は悪霊に取りつかれております。しかしながらご安心ください。私がこちらから除霊し、身を守って見せましょう』
『アオイ様。除霊が完了いたしました。今日も一日幸せにお過ごしください』
『アオイ様、何者かが貴方を呪おうとしております。ご注意くださいませ』
『アオイ様。貴方には負のエネルギーを惹きつける何かがあるのやもしれません。誠に勝手ながら私の方から負のエネルギーを祓う方法をお教えいたします』
『アオイ様。六時に起きてみるのはいかがでしょう。朝の陽ざしには科学的にも有効な効果が示されており、またこちらの界隈では正のエネルギーが宿る光とされています』
『アオイ様。ラジオ体操などしてみてはいかがでしょう。ラジオ体操とは呼びますが、近ごろは動画配信サービスの充実もあり携帯一つで再現出来ます。小さな音量で行えば誰にも迷惑はかかりません』
「これはこれで新手のストーカーじゃないか? 毎日こんなに話しかけてくんのかよ」
「でも朝の占いみたいな事しか言わないでしょ。この人の言う通りにして、得があればそれでいいし、なくても損はないから最初は何となく従ってみたんだ。そしたら、本当に良い事が起こるようになってきてね」
「絶対に気のせいだと思うんだが」
プラシーボ効果みたいなものだろう。良いと思えば良い、悪いと思えば悪い。お金が関わっているなら滅茶苦茶口を挟みたいが、瑠羽も言った様に見返りを求めない助言を糾弾する意味はない。彼女だって何の効果も見られないなら従わない。プラシーボだろうと何だろうと、得だと感じたから従っていたのだ。
「メールでのやり取りがどうして急にツールに?」
「それは分かんないけど六薙罪人に変わりはないし。それで、チャットに移動してからなんだけど」
メールを閉じて再びチャットへ。履歴を遡っていく。例によって関係ありそうな場所を適当に拾い読み。
『暗行路紅魔という占い師をご存知ですね。彼の話を聞きましょう。彼は救世主、この世の理を知る者です。きっとアオイ様を幸せへと導いてくれます』
『素晴らしいです。アオイ様、お分かりですね? 貴方が暗行路紅魔の話に耳を傾けた事できっと幸福が訪れているでしょう。それはきっとあなたにとって何よりのものでしょう』
『アオイ様。コンビニで生姜焼き弁当を購入しましょう。あまり知られていない事実ですが、生姜には負のエネルギーを中和する効能がございます』
『従っていただけなかったようですね、本当に残念です。貴方が負のエネルギーを抱えていると貴方だけでなく周りにも被害が及ぶのですが』
『只今、貴方の周りに不幸が訪れていると存じます。これを解消するには暗行路紅魔の言う事を聞き、仮面を受け取らねばいけません。これ以上不幸が拡大すれば大切なご家族を失う事になるやもしれません』
『暗行路紅魔の仮面を受け取らなかったようですね。非常に残念な事ですが、とてつもない負のエネルギーを感じます。これを止めるには仮面を受け取るしかありません』
これは……心当たりがある。
最初のチャットは薬子の家から帰った際の出来事。日付も合っている。瑠羽はその為にあのインチキの話を聞いたのだ。その次の幸せというのは……デートか! 薬子のファンにとっては確かに幸せだろう。
コンビニで弁当を購入……? 記憶にないもしくは知らないが、日付と次のチャットから推察するに雪奈とたまたま遭遇した時の話だ。あの時、妹はプリンを買った。弁当などではない。周りの被害というのは分からない………………いや。親父の怪我か?
瑠羽のリアクションが大袈裟だったのは……知っていたから? 自分が命令に背いた事で被害が及んだと。真偽はどうでもいい。本人がどう思っているかが重要なのだ。
次の仮面がどうこうというのは、雪奈に助けて貰ったあの一件に間違いない。六薙罪人の中では、あそこで仮面を受け取らせるつもりで、俺とも縁を切らせる予定だったのだ。それを邪魔してやった結果が最後の発言に繋がるわけか。
「…………ちょっと待ってくれ。どうして六薙罪人が暗行路紅魔と同一人物だって言い切れるんだ?」
瑠羽は言っていた。暗行路紅魔は本物だと。その証拠として見せられたのがこのメールおよびチャット欄だが、これでは暗行路紅魔が本物というより六薙罪人が本物という事になる。瑠羽は俯いたままポツポツと言葉を漏らした。
「……暗行路紅魔は未来が見える。そう考えたら自然な話でしょ。私の未来が見えるから良い方向に働く助言が出来る。私は軽い気持ちで乗って得して、軽い気持ちで背いたからお兄やお父さんに不幸が来た。それを嘆いた。悪霊とか負のエネルギー……要するに呪いだし、難しそうな漢字並べて名前にしてるし。同一人物の可能性は高いでしょ」
「―――まあな」
「不幸はどんどん来る。お兄がストーカーされたのだってそう。きっとどんどんひどくなる。私があの時言う事聞かなかったから……!」
「お、落ち着けよ。ストーカーが想定通りならどう考えても仕込みじゃねえか。俺だってまあ色々厄介事に首ツッコんでるから偶然だよ」
「お兄が厄介事に首ツッコむ事になったのも私のせい」
「んな訳ねえだろ。俺は自分の意思で入ったんだ」
「自分の意思だと思い込まされてるだけかもしれない」
「いい加減にしろよ!」
初めて妹に声を荒げた。初めて妹の胸倉をつかんで無理やり顔をあげさせた。何処までも背負い込まんとする瑠羽の姿勢に我慢ならなかった。
「もう、後悔は出来ない立場にあるんだよ。確かに俺は望んで首ツッコんだ訳じゃない。でもそんなの最初だけだ。進み続けてるのは俺の意思だ。逃げようなんて思わない、擦り付けようとも思わない。ありのまま全てを受け入れる為に俺は進んでる! 俺の不幸は俺だけのものだ。六薙罪人がどう言おうと、俺に関わる因果にケチつけた時点でそいつはインチキだよ! ……瑠羽。勝手に人の不幸を横取りするな。自虐なんてするな。全部偶然で気のせいだと思え。本当にたまたま奇跡的に運が悪かっただけだってさ」
普段が温厚なだけにギャップがあったかもしれない。妹は目を見開いて、無感情に俺の双眸を覗き込んでいる。
「…………ごめん、なさい」
妹から手を離して俺も謝る。説得の為とはいえ暴力的な手段だった。綾子が居たら後でビンタされているだろう。酷い兄貴だ、クソッタレ。
ふと時計を見ると六時を超えていた。
「もうすぐ夜ご飯だな。リビングで待ってようぜ」
「……うん」
手を繋ぎながら仲良く部屋を出ると、丁度父親が帰ってきた。なんてタイミングが良い。これもまた小さな奇跡の一つだ。
「「おかえり」」
俺が隣に居ると分かるや父親は目線を外してそそくさと通り過ぎてしまった。そこまでの動きがスムーズで、瑠羽の問いが届いたのは彼が部屋のノブに手を掛けた時だ。
「お父さん、その腕の怪我、何?」
瑠羽が尋ねたので、父親は景気の良い表情で答えた。
「おお瑠羽。俺を心配してくれるのかッ。いやいやちょっとまた転んじまってな。はははは!」
連投します。




