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「さあ、こんなことがあったばかりで気まずいだろうから、ヴァーミリオン嬢は王家の馬車で送ろう。……モーンフィールド侯爵は、なにも気にしないでくれたまえ」
ハーヴェイが手を差し出してくる。
「お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします。ハーヴェイ殿下」
ありがたい提案を、アリスは素直に受け入れた。
婚約の解消が決まった相手と、同じ馬車で帰るなんてさすがに無理だ。
「乗りかかった船だからね。騎士として、当然だ」
申し訳なく思いながら、アリスはそっとハーヴェイの手を取った。
社交界デビュー前に婚約していたから、エイルマー以外の男性の手を取るのは初めてだった。なんだかおかしな気分だ。
アリスはそのままエイルマーのほうを振り向かずに、東屋から離れた。
もう舞踏会を楽しむ気にはなれなくて、ハーヴェイが用意してくれた馬車に乗り、帰途につく。
紳士なハーヴェイは、馬車に同乗しきちんと送り届けてくれるつもりみたいだ。
「ところで、ヴァーミリオン嬢。……さっき、侯爵を殴ろうとしていなかったか?」
「……そんなことは……ありません、わ」
さすが、二十歳にして騎士団長を務める剣士だ。
彼は、アリスがあの東屋で、暴力行為に及ぼうとしていたことに気づいていたらしい。
けれど、殴って解決するという発想が野蛮すぎて、アリスは素直に認められなかった。
「……そう?」
にこやかな表情は「すべてわかっている」と言いたげだ。
アリスは馬車の座席に座ったまま、頭が膝につくほど思いっきり頭を下げた。
「申し訳ございません! ……それが殿下の策だと勘違いしてしまいました! 事件を起こし、エイルマーと父の両方から失望されたら、結果としてうまく行くはずだって……そう思って……」
「確かに、そういう手もあったかもしれない」
「やはり……殿下もその手をお考えでしたか……?」
「いいや、まったく考えていない。私は騎士だけれど、平和主義者だから。話し合いで解決できるものならそうするよ。ヴァーミリオン嬢は、さすがにホールデンの血族と言うべきか……」
母方のホールデン子爵家は血の気の多い一族である。
普段はできるだけ普通の令嬢でいようと思っているのだが、しっかりその血を継いでいることは疑いようがない。
アリスは、ハーヴェイの言葉を否定できなかった。
「ひとまず、頭を上げてくれないか? ずっとそうしていると乗り物酔いになるかもしれない」
「はい。お気遣いに感謝いたします」
素直に頭を上げ、ハーヴェイを正面に見据えた。
「……というわけで、侯爵とはお別れできそうだが、問題は父君のほうだ」
アリスは頷く。エイルマーから言質を取っても、終わりではなかった。
むしろ、父への対処のほうが難しい。
「はい、エイルマー……いいえ、モーンフィールド侯爵様が婚約の解消を申し入れたら、父が四年前の真実を打ち明けてしまう可能性があります。そうしたら、間違いなく侯爵様の気が変わってしまうでしょう」
やはり、仮に剣姫だとバレてもエイルマーの恋心が蘇らないくらい、徹底的に嫌われておいたほうが楽だったかもしれない。
つまり、殴っておけばよかったのだ。
「不穏なことを考えていないか? もちろん、策はあるから安心してくれ」
「……申し訳ありません」
感情が筒抜けで、アリスは顔を真っ赤にした。
「父君には、こう話せばいい……『モーンフィールド侯爵が四年も必死に捜していることを知りながら、故意に黙っていて、今更打ち明けたら……侯爵はさぞお怒りになるでしょうね』……と」
確かに、エイルマーが初恋の剣姫を捜し続ける羽目になったのは、アリスの父のせいだった。打ち明けたら、機嫌を損ねるのは間違いない。
「ですが……侯爵様は半年後に……」
黙っていても、結局アリスの父は半年後にエイルマーの不興を買う。
しかも父が黙っていた場合、エイルマーは本来結ばれるはずだった剣姫との結婚が叶わなくなる。
そのとき侯爵家と伯爵家の関係は、間違いなく壊れるだろう。
だったら、今の段階で打ち明けたほうが、父にとっては被害が少なくて済む。
アリスの父は娘の感情など無視をして、そういう計算をするに違いない。
けれど、ハーヴェイは首を横に振る。
「父君は騎士の権限を知らないだろう? ……半年後にどうなるのか、わざわざ教える必要なんてない」
「確かにそのとおりです」
もしも知っていたら、エイルマーが騎士になった時点で、相当焦り、なにか対策をしていたはずだ。
「父君は、確実に侯爵の不興を買う選択をするだろうか?」
騎士の権限を知らない父は、婚約解消で失うものを「格上の侯爵に望まれる、理想的な令嬢を育てた」という肩書きだけ――と、考えるだろう。
しかもその娘というのは、父個人にとってとくに必要のない存在。
四年間黙っていたことで、エイルマーに嫌われるよりはよほどいい。
「……もし、それでも説得材料が足りないというのなら、仮に侯爵夫人となったら、身分を笠に着て生家に嫌がらせをするかも……とほのめかしてみたらどうだろうか?」
アリスを侯爵家に嫁がせても、ヴァーミリオン伯爵家に利点はない。
むしろ損害が生じると思わせるのは、かなり有効な手だった。
「そこまでしなくて済むことを祈っておりますが、殿下の授けてくださった策で父と戦います」
「うん。ホールデン子爵家には、私から話を通しておくよ」
「……は、はい。ご配慮感謝いたします」
アリスはそう言いながら、ほんの少しの違和感を覚えていた。
なんだか、ハーヴェイに出会ってからすべてが順調に行きすぎている気がした。




