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すでに話題は移っていたが、東屋では相変わらず笑い声が響いていた。
アリスは臆することなく、堂々と東屋に近づく。
エイルマーは婚約者の存在に気がつくと、ハッとなり、それでもほほえみかけてくれた。
「アリス……どうしたんだ? 寂しかったのかい?」
いつもと変わらない、爽やかな笑みだった。
けれど不思議なほどアリスの心に響かなくなっている。
アリスは自分の薄情さを意外に思いながら、エイルマーの近くまで歩みを進めた。
「ごめんなさい、私……修道院に入る気はないの。破談にしましょう……」
一瞬でその場が凍りつく。
エイルマーだけではなく、一緒にいた青年たちまで顔色を悪くしていた。
「あ! ……私はそろそろ舞踏室に戻ろうかな……」
「僕もそうしよう。……じゃ、じゃあな、エイルマー」
エイルマーの友人たちが、気まずそうにしながらそそくさと立ち去っていった。
東屋に残るのは、アリスと、青ざめた表情のエイルマーだけだ。
「……ぬ……盗み聞きなんて、らしくないな」
「ソーンウィック伯爵様が、あなたに挨拶がしたいとおっしゃっていたの。今夜は行き違いになってしまいそうだから、後日お手紙をお送りする約束は取り付けたけれど、念のため知らせようと思って……」
「そ……そうか……。聞かれてしまったのなら、仕方がないな。でも……破談にはしない。どうせ父君に泣きついても、君の希望は叶わないんだから、騒いでも無駄だ」
開き直ったエイルマーが、悪い笑みを浮かべた。
到底、大切にしている婚約者に向けるものではない。
(……本当に、愛されていなかったのね……)
二回も結婚を延期したのも、四年間婚約していて挨拶以上のキスをしなかったのも、それが理由なのだと今ならわかる。
貴族同士の結婚なら、相手に誠実であれば愛などいらないのかもしれない。
けれどエイルマーは、その誠実さすら持ち合わせていなかった。
誰よりも妻となる女性に誠実でいたい――と彼は言った。
きっとそれは本心だ。婚約者にキスすらしなかったのは、妻となる予定の剣姫のためだったに違いない。
「エイルマーの考えはよくわかったわ」
「盗み聞きなんてはしたないことしなければ、あと半年間は私に愛される幻想を見られたはずなのに……かわいそうなアリス……」
(半年無駄にするほうが、よっぽどかわいそうよ……)
アリスはぶん殴りたい衝動を必死に抑え込んでいた。
剣はなくても、エイルマーになら勝てそうな気がしている。そして、殴って婚約破棄となれば、父もあきれ見放すだろう。
がさつな令嬢である真実が知れ渡れば別の縁談がもたらされることはなく、結果として騎士になれる――すべて解決する良案に思えてきた。
(なるほど。……私、すべてを理解いたしました。ハーヴェイ殿下が、とりあえず一人で行くように命じられたのは、この作戦のためだったのですね!)
アリスはハーヴェイの意図を見抜き、思いっきり拳に力を込めて、いつでも繰り出せる準備をしたのだが……。
「じゃあ、私も盗み聞きをしていたということになるな」
アリスが実力行使に及ぶ寸前、声が響いた。
もちろんハーヴェイのものだ。
「第二王子殿下……!!」
ハーヴェイがアリスの横にやってくる。
すると再び真っ青になったエイルマーが、勢いよく立ち上がった。
第二王子を立たせて、一人だけ座っていることなどできないのだろう。
「あんなに大声で話をしていて、盗み聞き呼ばわりは心外だ。こちらもただ巡回していただけなんだが?」
ハーヴェイは第二王子にして白鹿騎士団長である。
団長自ら部下の一人すら伴わずに巡回していたというのは常識はずれではあるけれど、職務上の正当性はあった。
「し……失礼いたしました」
「いいや、モーンフィールド侯爵。やましい話を聞かれたら、羞恥心から相手を責めたくなってしまうのは当然だ。気にすることではないよ。次回から恥ずかしい話は小声でしてくれたまえ」
(殿下……優しいふりをして、けっこう馬鹿にしていませんか……?)
アリスと会話していたときとは打って変わって、ハーヴェイは偉そうで、その言葉は辛辣だった。
虎の威を借ることは褒められた行為ではないかもしれない。
けれど先ほど、エイルマーのほうが、アリスの立場が弱いことを利用しようとしたのだから、いい気味だと思えてしまう。
アリスは理想的な伯爵令嬢でいようとしたけれど、自分の性格が意外にも悪かったことを自覚した。そして今は、それでいいと思えた。
「他人の恋愛事情に口を挟むのは野暮だけれど、さすがに婚約者を捨てるのは人としていかがなものかな? ……しかも、半年後なんて。それなら早いうちに円満なお別れを選択するほうが誠実だ」
「そ、それは……そうかもしれませんが……」
相手がハーヴェイだと、エイルマーはまったく言い返すことができない。
けれど、よほど保険を失いたくないのか、アリスを解放するとは言ってくれなかった。
するとハーヴェイが大きくため息をついた。
「……モーンフィールド侯爵。君は私があの現場に居合わせたことを知っているだろう? 居合わせたというのはおかしいな。賊の標的は私で、君たちは巻き込まれただけなんだから」
「もちろんです、殿下」
「家の方針で令嬢の名は伏せられているから、了承なしに明かせないのだが……一つだけ、いいことを教えてあげよう」
人差し指を立て、大げさな身振りのハーヴェイは、なにを教えるのだろうか。
アリスには想像もできなかった。
「令嬢は未婚だよ。それに、彼女の心を手に入れることさえできれば、結婚になんら支障のない家柄の娘だ」
「誠でございますか!?」
「……王族の名にかけて、今の言葉に偽りはないと誓おう」
エイルマーの目が輝く。
(殿下ったら。……ものは言い様……とは、まさにこのことですね……)
アリスは未婚であり、婚約者はいるが破談寸前である。
そして「心さえ手に入れることができれば」エイルマーの妻となるのに支障がないのも本当だ。
ハーヴェイはなに一つ、嘘をついていない。
ただ、エイルマーがこの言葉を信じアリスを捨てたら、剣姫の心は永遠に手に入らなくなるのだが……。
「アリス……。本当に今までありがとう! 私は自分の気持ちに正直に生きるよ。君の父君には、私からちゃんと説明するから、なにも心配しないでくれ」
彼はすでに婚約を解消する気になっていた。
侯爵位を持っていて、見た目がよく、頭もいいエイルマーは、未婚の女性なら絶対に落とせる自信があるのかもしれない。
これでとりあえずアリスは、エイルマーからは解放されるのだろう。
「……あのね、エイルマー……」
「なんだい?」
「あなたは忘れてしまったかもしれないけれど、私にとってもこれが初恋だったの。だけど、もう、いいわ。……さようなら……」
東屋で彼の話を聞いてからこの瞬間まで、一時間も経っていない。
たったそれだけの時間で、心がこんなにも変わってしまうことがあるのだ。
「君の初恋相手が誰だったのか、もちろん忘れていないさ」
意味がわからなかったみたいで、エイルマーはキョトンとしていた。
(いいえ、忘れたのはあなたよ……)
今更気づいてほしいとは思っていないので、アリスはそれ以上なにも言わないことにした。




