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アリスは大きな声で感情を吐き出していた。
そして、自分の心が、エイルマーの発言ですっかり冷めていることに気がついてしまう。
今となっては「誰よりも妻となる女性に誠実でいたいんだ」という発言を信じた自分が、一種の洗脳状態にあったのだとわかる。
「ヴァーミリオン嬢?」
「し、失礼いたしました!」
アリスはこれでも、品行方正な伯爵令嬢ということになっている。
うっかりそうではない姿を見せてしまい、焦った。
「いいや、かまわない……くっ、ハハハッ!」
ハーヴェイが口元を押さえ、やがて耐えきれなくなって笑いだす。
彼のそんな様子を見ていると、心が軽くなっていった。
(そうよ。……ハーヴェイ殿下は、剣を振るってやりたい放題だった私を知っているんだから、取り繕う必要なんてなかったんだわ……)
おそらくこれまで溜め込んでいた不満や疑問が限界を超えて、そして決壊したのだろう。
情熱が自分でも驚くほど一気に冷めて――そして自由になった。
「不満を言葉にしたら、楽になるかもしれないよ」
それは魅力的な提案だった。
そしてこの場にはたまたま昔の事情を知っているハーヴェイがいる。王族に愚痴を聞かせるなんて、本来なら許されないけれど、つい話したくなってしまう。
「……そもそも当時『エイルマーを助けたのは私』ってちゃんと言ったんですよ。剣の稽古をしていた話も、彼には打ち明けていたのに……」
「うん。婚約者の言葉は信じるべきだよね」
「ですから、殿下。彼に真実を話していただかなくて結構です」
「では、どうするんだい?」
「半年のあいだに、どうにかあの男から逃げて……ついでに家からも離れようと思います。……ああ、なんて馬鹿馬鹿しい。そもそも普通の令嬢のふりをして型にはまった幸せしか考えられなくなっていたところから間違いだったんです」
決意を語ると、ハーヴェイがまた笑った。
四年前のあの事件以降、まったく関わりのない雲の上の人という認識でいたけれど、かなり気さくな人物のようだ。
「それでこそアリス・ヴァーミリオンだ。だったら、ちょうどいい。手袋をはずしてもらえる?」
「かまいませんが、なぜ……?」
第二王子の命令であれば、従わざるを得ない。
アリスは左手の手袋だけをはずした。
するとハーヴェイがその手を握り、指先や手のひらに触れた。
「この指……手のひら……君の剣は今でも本物のはずだ。少なくとも女性の中ではトップに立てる実力だろうね」
「まさか!? 女性の剣士はほかにも……例えば、マルヴィナ・フロックハート様もいらっしゃいます」
マルヴィナ・フロックハートは伯爵令嬢でありながら、立派な正騎士となったすばらしい女性だった。
麗しく、令嬢としての教養も完璧で、それでいて強い。男装姿が似合っているため、一部の令嬢たちがファンクラブを設立したほどだ。
アリスはファンクラブには入会していないが、憧れであり、目標でもある女性だ。
「そう。きっと君は、フロックハート部隊長のライバルになれる」
「そんな……」
「……侯爵に真実を話さないのなら、別の提案をしようか?」
ハーヴェイがニヤリと笑った。まだ、手は握られたままだった。
「え……?」
「試験を受けてもらう必要があるんだが、王家は女性の騎士を求めている。私の妹、幼い王女の護衛にぴったりな人物だ。どうだろう?」
ハーヴェイの妹といえば、現在八歳のパトリシア王女だ。
彼女は、幼いながら隣国ヴァルシュタイン帝国の皇太子と婚約している。
(これまで、アルヴェリアとヴァルシュタイン帝国のあいだでは度々戦が起こっている。……和平のための、政略結婚……だったはず)
両国のあいだで、再び戦が起こらないようにするための婚約だ。
そのため王女は、この和平を望まない者たちから命を狙われる可能性があるのだ。
王女は、再び二国間が緊張状態になるかどうかの鍵となる存在。ハーヴェイが王女の身を案じていることも、女性騎士を欲しがっていることも、もっともな話だ。
そして、騎士になって誰かを守る役割に就くことは、小さな頃からのアリスの夢だった。
「なり……たいです……。でも……父が許すとは思えません」
はい、と言えないのは、望んでもその道へは進めないことがわかっていたからだ。
父や義母が決して許してくれないだろう。
「君が一般的な令嬢でいるのをやめて、騎士になりたいのであれば、協力してあげるよ。例えばスムーズに、子爵家の養女になる手助けとか」
「子爵家の……?」
子爵家の伯父やいとこは、アリスをいつでも歓迎してくれる。
父からの許可さえあれば、案外簡単だろう。
「そう。できるかどうかは、問題ではないんだ。君がどうなりたいのか……それだけを教えてくれ」
外聞を気にして、エイルマーの恩人が誰だったのかを隠した父。
どんな女性かまったくわからないのに剣姫を信奉し、アリスを修道院に送るつもりのエイルマー……。
彼らに従い、アリスだけが誠実でいる必要などない。
こんな個人的なことで、王族の手を借りるなんて、卑怯かもしれない。
それでも、自由になりたかった。
「騎士になるのは、私の夢でした。冷たいかもしれませんが、生家にも、婚約者にも……未練はありません」
きっぱりと言い切る。
すると、ハーヴェイが立ち上がり、勢いよくアリスの手を引いた。
「それなら今すぐ、見る目のない婚約者を排除しに行こう」
「今すぐ……?」
ハーヴェイに引っ張られ立ち上がっていたアリスは、手袋をはめながら問いかけた。
「素直に、先ほどの話を聞いてしまったことを告げたら、破談になるはずだ」
「無理ですよ。一旦エイルマーとの婚約を破談にすることは……たぶん、簡単だと思います。でも、そうなったら父が秘密を打ち明けるでしょうし……」
父は、剣を振るう野蛮な娘の存在を隠したい。
けれど娘が侯爵から婚約破棄されたというのも不名誉だから、本当にそんな危機に陥ったら、さすがに真実を公にするはずだ。
「私に考えがある。協力するって言っただろう? 君が今でも剣術をたしなんでいることに気づかない者たちなんて、捨ててしまえばいいよ」
「殿下はどうして私を気にかけてくださるのですか?」
「……恩があるし、私は君の信奉者だから」
「信奉者……?」
意味がわからず、アリスは首を傾げた。
「ある意味、私と侯爵は似た者同士だ。……違いは、救ってくれた令嬢の姿を覚えているか忘れてしまったか……それだけかもしれない」
ハーヴェイが鼻息を荒くして語りだす。
似た者同士という言葉で、アリスは不安になる。エイルマーが剣姫に向ける執着と同じものを、ハーヴェイも抱いているのだろうか……。
「あぁ……心配しないでくれ。君が望むままに剣を振るう姿が見たいだけで、やましい気持ちはないから。それに私は『剣姫』なんていう恥ずかしい名前で君を呼んだりしない。……信奉者とは、そういうものだ」
キラキラとした、不純物のない笑顔だった。
それなのに、なんだか警戒心が拭えない。
(……こ、この方に協力をお願いして……大丈夫だったのかしら……?)
ハーヴェイの表情を見ていると、アリスはなぜか不安になるのだった。
「さあ、善は急げだ!」
それでもやたらと楽しそうなハーヴェイの迫力に押されて、アリスは動き出す。
まずは彼の指示で東屋に向かい、エイルマーに別れを告げることにした。




