2-1 黄昏時の事件
母が存命だった頃、アリスは母から剣術を学んでいた。
朝起きたら顔を洗い、シャツに袖を通してズボンを履く。身体を動かすとき、金色の髪を高い位置で結ぶのがアリスのお気に入りだった。
母と似たような服装で、似たような髪型の自分が誇らしい。
アリスは、美しく強い母が大好きだった。
今にして思えば、父が剣術を学ぶことを許してくれていた理由は、母が強すぎて逆らえなかったから……だったのかもしれない。
そんなアリスの生活は、母が流行病で亡くなり、一年経たずに父が迎えた後妻の影響で一変してしまう。
「アリスさんには、剣術よりも令嬢らしい教養を身につけていただいたほうがいいですわ。……そうは思いませんか? そのほうが将来、アリスさんのためになるでしょう」
義母ロバータは、夫の前では「アリスのため」という言葉をよく使った。
けれどアリスと二人きりのときは違っていた。
「なんて野蛮なの!? こんな子が娘だなんて……本当に嫌になってしまうわ」
アリスは幼いながらに、ロバータに嫌われていることを悟った。
おそらく父は、後妻は義娘を気遣っていて、娘がまだ馴染めていないだけだと思っていたのだろう。
幼いアリスは演技などできなかった。
そのため父は、寄り添おうとしている後妻に気を許さないアリスのほうに問題があると考えたのだ。
そしてロバータが妊娠すると、彼女の体調不良を理由に、アリスは実母の生家へ預けられることになった。
「しばらくホールデン子爵家で暮らしてみるか?」
父からそう提案があったとき、アリスはうっかり喜んでしまった。
「わぁい、嬉しい……。伯父様も伯母様も、ランドル兄様も楽しくて大好き!」
七歳のアリスは、仲のよい親戚の家にしばらく遊びに行く感覚だったが、そのときの父が眉をひそめたことだけはずっと覚えている。
このときもし、父と離れたくないという主張をアリスがしていたら、そして、父があと少し公平だったら――違う関係を築けていたのかもしれない。
結果的に、この選択によりアリスは実の親と疎遠になってしまった。
別々に住んだら心の距離まで離れ、二度と戻らなくなったのだ。
そんなふうに、かつての言動を振り返って冷静に分析できるようになったのは、つい最近のこと。「しばらく」という父の言葉を「無期限」と捉えることなんて、子供には到底無理な話だったと、今では思う。
やがて誕生した弟には会わないまま、アリスは十四歳までホールデン子爵家で過ごした。
伯父夫妻といとこのランドルと暮らす日々は、穏やかだった。
この頃のアリスは、子供ながらに父に捨てられたことを理解し、けれどあっけらかんとしていたはずだ。
最初はいつまで経っても帰るように言われないこと、迎えが来ないことを疑問に思い、けれど聞いてはいけない気がして黙っていた。
一年経った頃、さすがに弟が生まれているはずなのに伯爵家に戻るように言われない状況はおかしいと思い、自分が実父に捨てられたという仮説を立ててみる。
けれど優しい伯父夫妻やいとこを困らせる気がして、この件をたずねることは憚られた。
なにより、親から嫌われているという事実が恥ずかしくて、口にできなかったのだ。
そうやって、成長するに伴って少しずつ、じわじわと理解していくという手順を踏んだおかげで、アリスは荒れたり絶望したりせずに大きくなれたのだろう。
そして十四歳の誕生日の直後、エイルマーとの縁談が持ち上がり、アリスは生家に帰ることになった。アリスの亡き実母と、エイルマーの母が友人同士で、その繋がりでもたらされた縁だ。
「アリスはヴァーミリオン伯爵家の娘だから、伯爵家に戻るのが当然だ」
父の手のひらを返すような発言に、アリスもホールデン子爵家の人々も憤りを覚えた。
大人たちは、アリスのいないところで言い争いをしていたみたいだが、最終的に伯父が折れ、アリスを送り出すことを決めた。
モーンフィールド侯爵夫人がアリスの実母と親しかったきっかけで結ばれた縁であるならば、アリスは婚家で大切にされる可能性が高い。
子爵家ではこの縁談に勝る嫁ぎ先を用意できない予想もあった。
そして、生家から離れて暮らすアリスが「訳ありの令嬢」と噂されることを、伯父は気にしてくれたのだろう。
アリスのほうも、子爵が伯爵に意見することは避けたほうがいいという常識くらいはあって、だから子爵家に残りたいとは言わなかった。
こうして久々に生家へ戻ったアリスはすぐに、自分がもう伯爵家の家族ではないと思い知ることになる。
「あなた……アリスさんはまだ野蛮な剣術をやっているの?」
家族が集まる食事の席で、目の前にアリスがいるというのに、ロバータは本人に直接聞かず、父に問いかけた。
「さあ? 野蛮なホールデン子爵家ではあるいは……」
「仕立屋が、令嬢にしては腕が太いと言っていたの。これが原因でせっかく用意した縁談が破談となったら……。でも無駄ね。昔からアリスさんは私の言うことを聞いてくれず、だから家を出ていってしまったんだもの」
父は、ロバータの言葉を否定せずに頷く。
アリスのほうは時間をかけて父親に捨てられたという認識を持っていたのだが、いつの間にか事実が変わっていて、アリスが家出娘のような扱いになってしまった。
「……ぁっ」
反論しようとしたけれど、なぜか声にならなかった。
もしかしたら本能的に、大人の言葉を子供が否定しても、彼らは認めず、いっそうアリスを嫌うことを理解していたからかもしれない。
「姉様は、とっても変わっているんですね! 優しいお父様とお母様がいるのに、ずっと違う家で暮らしていたなんて……」
六歳の無邪気なノエルの言葉が胸に突き刺さる。
彼らが優しいのは、ノエルに対してだけだった。
きっとノエルに悪気はないのだろう。けれど、どうしても幸せを自慢されている気分になってしまった。
それでもアリスは、どうにか父や義母が気に入る令嬢になろうとして、このときは一度剣術の稽古をやめたのだった。




