7
◇◇◇
行きと同じようにアルの馬に乗り、クロエの屋敷へ向かう。アルが近道を使ってくれたおかげで、クロエたちより先に目的地に着くことができた。さすがに敷地内に入ることはできないので、上手く隠れつつ、様子を窺う。
アルがしみじみと言った。
「……何かこうしていると、悪いことをしているみたいに思えてくるね」
「それを言うなら、今日はずっとそうですよ。……気にしては負けです」
「確かに」
納得しつつ、アルは私の手を握った。
「ア、アル?」
「せっかくだから手を繋いでおこうよ。僕、まだリリ成分を半分くらいしか補充できていないと思うんだよね。足りないんだ」
「だからそのリリ成分ってなんなんですか……それに、もう十分補充したと思います」
そう言いつつも、アルの手を握り返す。こんな時ではあるが、やっぱりドキドキした。馬に乗っていた時も、ずっと彼にくっついていたから、心臓の音がうるさくてしょうがなかったのだ。降りた今もまだ、その後遺症が残っている。
アルが私の手をギュッギュッと何度も握り、嬉しそうに言う。
「全然足りないよ。リリから離れると、すぐにマイナスになってしまうんだ。これはもう、リリにはずっと側にいてもらわないといけないなって思うんだけど」
どう思う? と甘い声音で囁かれ、頭の天辺から湯気が吹き出るかと思った。
アルが甘すぎてついていけない。嬉しいけれど、私には刺激が強すぎる。
「ア、アル……も、もうそのくらいで勘弁して下さい」
ぷるぷると震えながら訴えると、アルは苦笑した。
「ごめんね。君と本当の意味での二人っきりって、めったにないものだからつい」
屋敷や城で会う時は、大概使用人が同席しているか、扉を少し開けているかなので、二人きりという感覚はあまりない。だからアルの言う意味も分かるのだが、恥ずかしいものはどうしたって恥ずかしいのだ。嫌だとは思わないけれども。
「あ……帰ってきたようだよ」
「え……?」
アルにどう答えようか考えていると、アルが私の手を引いた。彼の目線を追うと、確かにクロエとウィルフレッド王子が帰ってきている。
彼らは馬から降り、別れの挨拶を交わしているところだった。
隠れているところから近いので、何を言っているのか十分聞き取れる。
それはつまり、こちらの声も届くということで。
すぐにそれを察した私はアルの目線に頷くことで答えた。クロエたちに注視する。
「――今日は楽しかったです。クロエ、オペラはお好きですか? 先日、チケットを二枚手に入れましたので、よろしければ是非」
ちょうど今は、ウィルフレッド王子がクロエに別れの挨拶をしているところだった。
いつのまに呼び捨てで呼ぶようになっていたのだろう。次のデートの誘いをしている。
クロエは困ったように俯いて自らのドレスを握りしめていたが、やがて決意を固めた声でウィルフレッド王子に言った。
「その! 殿下のお誘いはとても名誉なことと分かってはおりますが、お誘いはこれっきりにして下さい! オペラも、行きたいとは思いません!」
「っ!?」
まさかの拒絶の言葉にギョッとする。王族に対し、はっきりと拒否を告げたクロエは、やってしまったという顔をしつつも、どこかすっきりとしていた。
「結婚を前提にという話も父から聞いておりますが、それもできればお断りしたいと思っています。私では、殿下のお相手はつとまりません。殿下にはもっと相応しい方がいらっしゃいます」
「……クロエ」
流されず、自分の意志を告げたクロエが眩しく見えた。つい、アルと繋いだ手に力を込めると、彼は手を握り返してくれた。
「彼女は自分の意見を言える子なんだね」
「はい……。自慢の友人です」
「うん。ウィルのやつ、見る目はあったってことなのかな」
アルの声も優しかった。王族に逆らったことを咎めるのではなく、自分の意志を伝えたクロエを褒めるような声音だ。
「あいつもこれで目を覚ましてくれると良いんだけど」
それに心から同意する。さてウィルフレッド王子はどう答えるのだろうと思っていると、彼はわなわなと震え、顔を真っ赤にしていた。
「――ねーよ」
「え?」
何を言ったのか聞き取れなかったのだろう。クロエが聞き返すと、ウィルフレッド王子は怒りの目を彼女に向けた。
「そんな台詞はゲームにはないって言ってるんだよ! 今のオレの台詞に対するあんたの言葉は『はい』の一択だろう? つーか、このデートに選択肢なんてねーんだよ! これはただの好感度上げイベなんだからな!!」
「で、殿下……」
怒鳴り声を上げられたクロエが後ずさる。そんな彼女にウィルフレッド王子は詰め寄った。
「なあ? なんでそんな台詞言うわけ? ちゃんとゲーム通りにやってくれよ。兄上や悪役令嬢が原作と全く違うことになっているまでは許せても、オレ、さすがにこれは許せねーわ。あんたはオレのルートに入ってるんだから、余計なことはしないで欲しいんだよ」
「な……何のお話ですか? わ、私、殿下のおっしゃる意味が分かりません……」
「分からなくて良いよ。ただ、あんたはオレの言葉に『はい』って頷けば済むだけって話。簡単だろ」
吐き捨てるように言い、ウィルフレッド王子はクロエを睨んだ。
「ほら、言えよ。それでイベントは終わるんだからさ」
「……言えません」
「あ? 聞こえなかったのか? 言えって第二王子のオレが言ってるんだよ」
威圧するウィルフレッド王子に、クロエはそれでも首を横に振った。その様子があまりにも痛々しく見え、耐えきれなくなった私はアルの手を放し、飛び出した。
「クロエ!」
「え? リリ!?」
突然、屋敷の影から飛び出してきた私を見て、クロエが目を丸くする。ウィルフレッド王子もギョッとした顔をした。
「リズ・ベルトラン? なんでこんなところに?」
私はクロエの前に立ち塞がった。友人をこれ以上傷つけさせはしないという思いでいっぱいだったのだ。
「私は――」
ウィルフレッド王子にどう言い訳をしよう。少し悩みつつも口を開こうとしたが、私と同じように姿を見せたアルが言った。
「僕たちもちょうどデートの帰りだったんだよ。偶然、通りがかってね、お前たちの姿を見かけたから声を掛けようって思ったってわけ」
「兄上まで? 一体どうなってんだ!」
クロエを庇う私を睨もうとしていたウィルフレッド王子がアルを見て、愕然とする。まさかアルまで現れるとは思わなかったのだろう。こちらにやってきたアルがにこやかに、だけども絶対零度の視線をウィルフレッド王子に向ける。
「ウィル、一部始終を聞かせてもらったよ。とても好ましいと思っている女性に言って良い台詞ではなかったね。僕は何度もお前に忠告したはずだよ。無理強いはするなって。それが『はいと言え』だって? 僕の弟はついに落ちるところまで落ちてしまったようだね」
「……だって」
「立場上カーライル嬢はお前の命令を断れない。それを知っていて先ほどの言葉を言ったのだとしたら、本当にお前は最低だよ。ガッカリだ」
「……」
厳しくアルに窘められ、ついにウィルフレッド王子は黙り込んでしまった。アルは今度はクロエに視線を向ける。
「悪かったね。僕の弟が失礼なことを言って。許してくれとは言えないけれど、でも、許してくれると嬉しい」
「わ、私……」
「この際だから、弟に言いたいことがあるのなら言ってくれて良いよ。侮辱罪なんて言ったりしないから」
さあどうぞと、アルがクロエを促す。
クロエは少し悩んだ様子ではあったが、やがて覚悟を決めたのか、ぐっと奥歯を噛みしめ、顔を上げた。そうして私の前に立ち、自らウィルフレッド王子に向かう。
「一つだけ言わせて下さい。……私はずっと思っていました。ウィルフレッド殿下、あなたが誰を見ているのかと。私は私です。それ以外の何者にもなれません。だけどあなたは一度だって私を見てくれなかった。好意は感じられても、それは私に向けられたものだとは思えなくて、だから私はいつだってあなたと相対するのが苦痛でしかありませんでした。殿下、あなたの思う私の姿を、私に押しつけないで下さい。私はあなたが見ている『クロエ・カーライル』ではないということを分かって下さい。私は……あなたの思いには応えられません」
「……クロエ」
はっきりと言い切ったクロエはとても格好良かった。
アルは満足そうに頷き、ウィルフレッド王子に目を向ける。
全員の視線を集めたウィルフレッド王子は呆然としていたが、注目されていることに気づくと動揺したように後ずさった。やがて「……帰る」と呟き、あとは一度も振り返らず、馬に乗って行ってしまった。
「わ、私……言い過ぎてしまったかしら」
ウィルフレッド王子の姿が完全に消えたと確認した次の瞬間、へなへなとクロエがその場にしゃがみ込んだ。咄嗟に彼女の腕を掴む。
「クロエ、大丈夫?」
「リリ……ありがとう。来てくれたのね」
「……友達だもの。当たり前じゃない」
一瞬、偶然だと言おうとしたが、すでにクロエにはバレているだろうなと気づき、変な言い訳はしないことにした。
私の言葉にクロエは涙ぐみながらも頷く。アルがそんな彼女を見ながら言った。
「改めて、僕の弟が申し訳なかったと言わせて欲しい。カーライル嬢。君は何も悪くないから気にしないでくれると嬉しいかな。先ほども言った通り、罰を与えるつもりはないし、ウィルが何か言い出したとしても僕が止めるから」
「アラン殿下……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことは何もしていないよ。君の言葉は正しい。弟は昔から夢見がちなところがあるんだ。それが今回全部君に向かってしまった。本当に申し訳ないとしか言いようがないよ」
「そんな……殿下のせいではありません」
「分かっていて止められなかったのだから、僕も同罪だよ」
やるせなさそうに言い、アルは今度は私に言った。
「リリ、さっき、友達を助けようと飛び出した君は勇敢だったよ。ちょっと後先考えない行動だなとは思ったけどね。友人のために一生懸命な君を見て、君を選んだのは間違いじゃなかったと思った」
「アル……」
「ウィルは全部を間違えているんだ。好きな人に好きになってもらうためにやらなくてはいけないことを、あいつは全然分かっていない。カーライル嬢が好きなら、ちゃんと彼女を見てあげないといけないのにね。誰だって、自分ではない誰かを見ている人を好きになったりはしないでしょう? 好きな人は他人に決められるのではない。自分で決めるんだ。僕が――リリを選んだようにね」
「――はい、私も同じです」
アルの言うとおりだと思った。
好きになれと言われたって無理なものは無理なのだ。
ウィルフレッド王子はクロエをきちんと見なかった。それで手に入ると思うのが傲慢なのだ。
クロエが選んだのは、ヴィクター兄様。
ヴィクター兄様がクロエを選ぶかは分からないが、少なくともクロエはヴィクター兄様をきちんと知ろうとしているように思う。
「次にウィルフレッド殿下とお会いする機会があったら……私、今日のことを謝るわ」
「クロエ?」
よろめきながらも立ち上がったクロエを見つめる。クロエは小さく笑い、私に言った。
「ずっと思っていたことだし、言ったことを後悔はしていないの。でもね、キツく言い過ぎたなとは思うから。それについては謝りたいと思っているわ」
「君が謝る必要は全くないと思うけどね」
アルの言葉に全面的に同意する。
コクコクと頷くと、クロエは笑った。私が知っている、いつも通りのクロエの笑顔だ。それに気づきホッとした。
アルがクロエに言う。
「挨拶もせずウィルが帰ったことを伯爵が変に思うかもしれないから、伯爵には僕が来て、ウィルを連れて帰ったとでも伝えてくれるかな。緊急の要件だったと。さすがにこれはフォローしておかないと……王家の問題になってくる」
「分かりました」
クロエが了承すると、アルは「それじゃあ僕たちは行くよ」と彼女に背を向けた。私も慌ててクロエに声を掛ける。
「クロエ、また今度話しましょう」
「ええ、リリ。今日は本当にありがとう」
「リリ、行くよ。屋敷まで送るから」
「はい」
馬を連れたアルが私を呼んでいる。それに返事をし、クロエと別れてから先ほどと同じようにアルと一緒に馬に乗り、公爵家へと帰った。




