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「……本当に賢いわね」
「もしかしたら、どこかで飼われていた頭の良い猫だったのかもしれません」
「そう……ね」
同意しつつも、私はそれはないなと思っていた。
だって、ノエルが賢くなり始めたのは、本当につい最近なのだ。それまでは賢いところがあるといっても、十分に猫と言える範囲内だった。なのにここのところ、ノエルは急激な変化を遂げている。
――ノエルに何があったのかしら。
とは言っても、心当たりなど、私の精霊契約が失敗した時くらいしかない。あの時ノエルは私の魔力を吸い、自分のものへと変換した。もしかしたらその余波で猫らしくない叡智を身につけることになったのかもしれない。
突飛かもしれないが、一番可能性があるのがこれだった。
考えているうちにノエルを抱いたルークがゆっくりと私たちから距離を取る。十分に離れたことを確認し、思考を切り替えた私はクロエに言った。
「待たせたわね。ルークは遠ざけたわよ。それで? 私に話って何かしら」
ノエルのことも気になるが、それは後回し。話があるというクロエの相談に乗ってから、またゆっくりと考えよう。そう決めて、クロエに話しかけると、彼女は慌てたように頷いた。
「う、うん。とりあえず隣に座ってもいい?」
「良いわよ。どうぞ」
頷くと、クロエは私の隣に腰を下ろした。その横顔は随分と疲れているように見える。
それで、勘づいた。
「……ウィルフレッド殿下のこと?」
おそらくは間違いないだろう。
尋ねると、やはりと言おうか、クロエは肯定した。
「うん、そう。当たりよ。実はあれから毎日のようにウィルフレッド殿下から手紙と花束が届くの……。無視することもできないし、仕方なくお礼状を書いていたんだけど、前回の手紙で、二人で遠乗りに行かないかって誘われて……。さすがにそれは行けませんってお返事したんだけど、ウィルフレッド殿下は諦めて下さらなくて、今度は父まで行ってこいっておっしゃって……」
「……少し見ない間にすごい展開になっていたのね。怒濤じゃない……」
話を聞いて驚いた。
まさかの二人きりでのデートの誘い。
しかも、きちんと手紙という正式な手順を踏んでいる。
第二王子からの手紙と花束。普通に考えて受け取らないという選択はできないし、もらってしまった以上、礼状を書くのも当然。それが続けば、父親の方も期待するだろう。その上での遠乗りの誘い。
クロエが頑張って断ったとしても、ウィルフレッド王子から父親の方に話が行けば、父親は間違いなく娘に「行け」と言うだろう。
貴族社会とはそういうもので、それを拒否するのは難しい。
「……行くの? ……ううん。愚問だったわね。行かないなんて選択はないわ」
そう言うと、クロエも「うん」と頷いた。
「私は行きたくない。けど、お父様が行けっておっしゃるから、行かなくちゃ」
「そうよね。じゃ、次。ウィルフレッド殿下の印象は? 手紙のやり取りをしているのでしょう? 少しはその……お付き合いしてもいい、とか思うようになった? 印象は良くなったの?」
窺うように尋ねると、クロエは暗い顔で首を横に振った。
その顔を見ただけで答えが分かってしまう。
「……残念だけど、そんな風には思えない。思うのはやっぱり、すごく強引な方だなって。あまりこちらの気持ちを慮って下さらないというか……なんだろう。私が殿下を好きになるのが当たり前……みたいな言い方をされるの。それがすごく……気になるわ」
「……それは嫌よね」
言いながらも、私は自分の胸をこっそり押さえていた。
――刺さるわね。
『好きになるのが当たり前』。この言葉に身に覚えがあり過ぎたからだ。
私は、アルと見合いをする前、同じようなことを思っていた。
この私が相手なのだから、絶対に気に入ってもらえる。好きになってもらえるはずだと確信さえしながら彼との見合いに臨んだのだ。
それは今考えればあまりにも醜悪な考えで、ひどく傲慢だ。あのまま、アルとウィルフレッド王子が『悪役令嬢』について話しているところを目撃しなければ、きっと私はその考えのままアルと見合いをしただろう。
この王子に自分は相応しい。彼は私を好きになるに決まっているという傲慢極まりない態度で席に座り、アルと話したはずだ。そしてそんな女にアルが興味を持ってくれるはずはなく、だけどもそれを認められない私は、酷い空回りをし、更なるドツボに嵌まっていったのだと思う。
その醜悪な姿が目に見えるようだ。
溜息を吐き、ふと、気づいた。
――もしかして、ウィルフレッド殿下も、昔の私と同じ、なのかしら。
少し違うような気もするが、自分が振られるはずがない。好かれるに決まっていると思い込んでいる姿だけは、以前の私と確かに重なる。
そして、クロエが拒絶の意思を見せているところを見れば、私もアルに似たようなことを思われていたのかもしれないと考えずにはいられなかった。
――きっと、ウィルフレッド殿下も気づいていないんだわ。
自分が、どれだけ醜悪なことをしているのか、きっと自分が見えていない。
クロエにアプローチすることだけに必死になって、肝心の彼女の気持ちを無視している時点で、それはあまりにも明らかだ。
――助けてあげられたら良いのに。
クロエが困っているのは分かっているが、うっかり自分とウィルフレッド王子を重ねてしまったこともあり、そんな風にも思ってしまう。
「リリ……私、どうしよう。二人で遠乗りなんて……本当は行きたくないのに」
クロエの嘆きに、ハッと我に返った。
いけない。今はウィルフレッド王子のことは置いておこう。今、苦しんでいるのはクロエなのだから、クロエを助けることを優先させなければ。
クロエをじっと見つめる。
彼女は途方に暮れた顔をしていた。どうすればこの窮地を脱することができるのかわからない。そんな顔だ。
そしてその顔を見ているうちに、前回クロエの精霊契約に付き添った時のことを芋づる式に思い出してしまった。
あの時私は、自分のために、自分の心を守る為に、ウィルフレッド王子に迫られていたクロエを無視し、屋敷に帰った。
クロエは助けて欲しいと私に訴えてかけていたというのに、私はそれを分かっていたというのに、あろうことか、無視をしたのだ。
そして私はそのあと、二度とそんなことはしないと誓い、今度こそクロエを助けると決めたのではなかったか。
――そうよ。今こそあの誓いを守る時。
同じ後悔は二度としたくない。私は、私にできることでクロエを助ける。
私は自分に何ができるかを考え、クロエに言った。
「……何も約束することはできないけど……一度、アルに話してみるわ」
「アラン殿下に?」
クロエが縋るような目で私を見る。私は彼女と目を合わせ、しっかりと頷いた。
「ええ。でも、先に謝っておくわね。残念だけど遠乗りの約束がなくなる、ということは期待しないで。それはあなたのお父様とウィルフレッド殿下の間で取り交わされた約束だから、私にはどうにもできないの。だけど、ウィルフレッド殿下が何を考えているか知らないか。せめてあなたとの遠乗りについて、一言アルの方から言ってもらえないか、その辺りなら、聞いてみるくらいはできると思う」
「良いの……?」
消え入りそうな声を聞き、助けようと思った私は間違いではなかったと確信した。
「駄目だったら、そもそも自分から言い出したりはしないわ。でもね、本当にその程度しか役にたてないの。それ以上は無理だと思うし、答えが返ってくる可能性は百パーセントじゃない。それでも構わない?」
いくら友人を助けると決めても、第一王子であるアルに過度な我が儘は言えない。せいぜい、質問に対する答えを期待する程度だ。無理だと言われたら、諦めなければならない。それを越えて頼むのは越権行為で、それをした瞬間、私は『悪役令嬢』と言われていた頃の私に戻ってしまうと分かっていた。
そんな私をアルが好いてくれるとは思えない。
だから私は、いくら大好きなクロエのためでも、それ以上は約束できないのだ。
できることはほんの僅かで、本当に申し訳ない。
――もっと、きちんとクロエを助けてあげられれば良いのに。
だけどクロエは心底嬉しそうな笑顔を浮かべながら、私の手を握ってきた。
「ありがとう! 本当にありがとう! もちろんそれで十分よ!」




